わろてんか-「キース&アサリ」のモデルは「エンタツ・アチャコ」

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する漫才コンビ「キース&アサリ」の実在のモデルのネタバレです。

わろてんか-「キース&アサリ」のあらすじ

漫才コンビ「キース・アサリ」は、ドツキ漫才をしていたが、武井風太(濱田岳)から「落語のように100年残る漫才を作れ」と言われたため、苦労の末、「キミ」と「ボク」という標準語を取り入れた「しゃべくり漫才」を完成させ、人気漫才師となった。

しかし、新たに「ミスリリコ・アンドシロー」という人気漫才コンビを手に入れて、勢いの乗る武井風太(濱田岳)は、「キース・アサリ」を解散させ、東京と大阪に分けて漫才をもっと盛り上げようと考えた。

キース(大野拓朗)アサリ(前野朋哉)はそれを受け入れてコンビを解消し、キースは新しい相方とコンビを組んで東京へ行ったが、アサリはキース以上の相方が見つからないので、漫談家となった。

そして、2人とも東京と大阪で人気になったので、武井風太(濱田岳)は北村笑店の25周年のイベントを「東西漫才対決」に決めたのだった。

その後、北村笑店に戦地慰問団の要請があり、武井風太(濱田岳)は戦地慰問団の派遣を決めると、かつての人気コンビ「キース・アサリ」や「ウタコ・キチゾー」を復活させ、演芸慰問団「わろてんか隊」を結成して派遣したのである。

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キース&アサリのモデルは「エンタツ・アチャコ」

朝ドラ「わろてんか」に登場する「キース・アサリ」のモデルは、吉本興業の漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」です。

横山エンタツ花菱アチャコが出会ったのは、旅巡業の堀越一蝶一座に在籍しているときで、この頃は特に親しくもなく、漫才について話し合うことも無かった。

そのようななか、団員に急用が出来て開幕時間を遅らせることになったが、開幕まで客をつながなくてはならないという事態が起きた。

そこで、横山エンタツと花菱アチャコは即興で、「しゃべくり漫才」をした。

当時の漫才は、現在の漫才とは違い、「万才」「万歳」と書いて、歌や踊りの間に、「喋り」が入るというスタイルが一般的で、万才の主役は「喋り」ではなく、歌や踊りだった。

このため、横山エンタツと花菱アチャコの「しゃべくり漫才」は客に理解されず、客から「万才をやれ」という罵声とともにミカンの皮が飛んできた。

そこで、横山エンタツと花菱アチャコは「これが本当の未完成」とオチを付けた。

2人が漫才をしたのは、その1度だけで、その後、堀越一蝶一座が解散したため、横山エンタツは東京へ行って万才をした。

花菱アチャコは大阪で自分の一座を立ち上げたが、地方巡業に失敗して解散し、大阪へ逃げ帰って「大八会」に入って万才をした。

「大八会」というのは、吉本興行部(吉本興業)が色物で成功したので、それを便乗して発足した芸能プロダクションである。

「大八会」は小さいながらも、吉本興業よりも色物に特化して、万才コンビが大勢所属しており、吉本興業に入る前のミスワカナミスワカナ・玉松一郎も「大八会」に所属していた。

さて、吉本興行は大正時代に入ると、落語不況に見舞われており、落語不況に苦しむ吉本興業を助けたのだが、島根県の民謡「安来節」だった。吉本せい(林せい)が端席で流行していた安来節に目を付けてスカウトしたのである。

そのようななか、吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)が大正13年(1924年)2月13日に死去し、吉本興業の運命は林正之助が担うことになった。

そこで、林正之助は端席で流行していた万才に目を付け、万才師をスカウトしていき、「大八会」に所属していた花菱アチャコの万才を見て惚れ込み、花菱アチャコと千歳家今男を大正15年に引き抜いた。

このとき、ドケチの花菱アチャコは、「ここにも長居する気は無い」と言い、林正之助にギャラを上げさせている。

さて、昭和5年(1930年)3月の「座長漫才人気投票」で、「花菱アチャコ・千歳家今男」が2位を大きく引き離して断然トップで優勝したため、林正之助は大喜びし、花菱アチャコを猫かわいがりするようになった。

その後、花菱アチャコと千歳家今男が舞台上のことで揉めていると、林正之助は千歳家今男が悪いと言って千歳家今男を殴り、金を渡して吉本興業から追い出した。

その後、花菱アチャコは何人かとコンビを組んだが、上手くいかず、コンビが決まらない状態だった。

一方、東京へ行った横山エンタツは関東大震災で負傷したが一命を取り留めて、大阪に逃げ帰った。

その後、ハワイに住むマネージャーの誘いを受け、昭和4年8月に総勢9人の一座「瓢々会」を率いてハワイからアメリカ本土を3ヶ月間にわたり巡業したが、巡業は失敗に終わった。

このとき、横山エンタツは「チャップリン」「ローレル&ハーディ」「ハロルドロイド」などの映画を観て衝撃を受け、お笑いが広く民衆に認められ、「芸術」として評価されていることに驚いた。

そして、横山エンタツは、日本では芸人が乞食同然に扱われている実情に嘆き、芸能界に失望して芸能界から引退し、パーマ機製造や紙袋製造の事業を始めたが、いずれも失敗して、大阪の玉造に逼塞していた。

そして、横山エンタツは芸人を嫌っていたので、友達と言える人間は花菱アチャコしかおらず、花菱アチャコの楽屋に通っていた。

そのようななか、林正之助は横山エンタツに目を付け、横山エンタツを吉本興業にスカウトした。

林正之助は滝野寿吉を2度、派遣してスカウトしたが、横山エンタツは芸能界に失望していたので、スカウトを断った。

そこで、3度目は林正之助が説得に行くと、横山エンタツは吉本興業に入る条件として、花菱アチャコとコンビを組むことを条件にしたので、林正之助は条件を受け入れ、「エンタツ・アチャコ」が誕生した。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は、歌や踊りが主役の万才から、歌や踊りを排除した「しゃべくり漫才」を始めるのである。

横山エンタツは、チャップリンの髭、ハロルドロイドの眼鏡、「ローレル&ハーディ」の動きを取り入れた。そして、「キミ」と「ボク」という標準語を使い、漫才には時事ネタを取り入れた。

当初は「しゃべくり漫才」とは言わず、「2人漫談」と称して、「エンタツ・アチャコ」は昭和5年5月に玉造の三光館でデビューしたが、客が万才に期待するのは歌や踊りであり、またもや罵声とミカンの皮が飛んで来るという有様だった。

しかし、林正之助が入場料10銭という格安で万才が見られる「10銭漫才」を始めたことがきっけで、若者に万才が広まっていくと、若の者間で「エンタツ・アチャコ」の「しゃべくり漫才」は「インテリ漫才」として人気になったのである。

さらに、「エンタツ・アチャコ」は秋田実という漫才作家を得て、昭和8年(1933年)には野球ネタ「早慶戦」で大ブレイクした。

これに前後して、東京から来た吉本興業の演芸部長・橋本鉄彦が「エンタツ・アチャコ」の漫才を見て、もはや万才ではないと言い、「万才」の表記を「漫才」へと変更した。

さらに、吉本興業は、初代・桂春団治のラジオ無断出演事件を切っ掛けに、JOBK(NHK大阪)と激しく対立していたが、JOBK(NHK大阪)側から「エンタツ・アチャコ」のラジオ出演を打診してきたことから、吉本興業とJOBK(NHK大阪)の和解が成立した。

そのようななか、突如として「エンタツ・アチャコ」は解散することになる。

エンタツ・アチャコの解散の実話

吉本興業の林正之助は、東西交流を開始しており、野球ネタ「早慶戦」で人気絶頂の「エンタツ・アチャコ」は、JOBK(NHK大阪)のラジオ中継に出演した勢いに乗り、昭和9年(1934年)8月21日に東京・新橋演舞場で開催された「第2回・特選漫才大会」に出場して、10日間連続で満員大入りという大成功を収めた。

そして、東京から凱旋した「エンタツ・アチャコ」は、昭和9年9月10日にJOBK(NHK大阪)がラジオ中継する法善寺の「南地花月」に出演し、この出番が終わると、花菱アチャコは病院に担ぎ込まれるようにして入院した。

実は、花菱アチャコは東京・新橋演舞場で開催された「第2回・特選漫才大会」に出演していた間に中耳炎になっていた。

当時の中耳炎は死ぬ病気だったので、直ぐにでも入院したかったのだが、東京進出は「エンタツ・アチャコ」の運命を左右する大きな仕事だったので、中耳炎を押して舞台に上がっていたのだ。

そして、花菱アチャコが1ヶ月後に退院すると、既に「エンタツ・アチャコ」は解散しており、横山エンタツは杉浦エノスケとコンビを組んで漫才をしていたのである。

「エンタツ・アチャコ」が解散した理由の真相

吉本興業の林正之助は、花菱アチャコのボケに惚れ込んで吉本興業にスカウトしたのだが、「エンタツ・アチャコ」では、花菱アチャコはツッコミをしていた。

そして、林正之助は「エンタツ・アチャコ」はコンビを2手に分けると、儲けが2倍になると考え、花菱アチャコが入院したのを機に、横山エンタツにギャラは花菱アチャコと折半していると教えた。

すると、プライドの高い横山エンタツは、ギャラの折半を不満に思い、コンビ解散を申し出るのだが、吉本興業に入るときに「花菱アチャコとコンビを組むこと」という条件を付けていたので、林正之助には言い出せず、吉本せいにコンビ解散を申し出た。

吉本せいは、林正之助の思惑を知らないので、コンビ解散を止め、花菱アチャコが入院している間も給料を払うと言ったのだが、横山エンタツは「仕事もしていないのに給料はもらえない」と固持して、「エンタツ・アチャコ」を解散し、自分の方がギャラの取り分が多くなる杉浦エノスケを相方にして漫才を始めたのである。

花菱アチャコは何も知らされておらず、退院すると、「エンタツ・アチャコ」が解散しており、横山エンタツが杉浦エノスケと漫才を始めていたので、ショックを受けながらも、元相方・千歳家今男とコンビを再結成して漫才を始めた。

しかも、横山エンタツが「エンタツ・アチャコ」時代のネタをやっていたので、花菱アチャコは復帰後も相当、苦しんだ。

朝ドラ「わろてんか」では、アサリはキース以上の相方は居ないと言い、漫談家になってしまうのだが、このように、モデルの花菱アチャコは元相方・千歳家今男とコンビを再結成したというのが史実である。

なお、千歳家今男は、林正之助に吉本興業を追い出されたのに、「エンタツ・アチャコ」が解散すると、都合良く再び呼び戻されており、この騒動で一番迷惑をしたのは千歳家今男だった。

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解散後と再結成

「エンタツ・アチャコ」は林正之助と横山エンタツの思惑によって解散したが、ラジオ出演したことにより、人気が高まっており、復活を望む声が増えいた。

そこで、林正之助は、寄席では別々のコンビを組ませたまま、映画やラジオ放送限定で「エンタツ・アチャコ」を復活させた。

朝ドラ「わろてんか」では、武井風太(濱田岳)が「戦地慰問団わろてんか隊」を結成するときに、「エンタツ・アチャコ」を結成しているのだが、実話では「横山エンタツ・杉浦エノスケ」「花菱アチャコ・千歳家今男」という別々のコンビで爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」に参加している。

ただし、実話でも爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」から帰国後の報告会などで、単発的に「エンタツ・アチャコ」を復活させている。その後も宣伝目的で、イベントなどで単発的に「エンタツ・アチャコ」が復活している。

ミスワカナを吉本から追い出す

朝ドラ「わろてんか」の「ミスリリコ・アンドシロー」のモデル「ミスワカナ・玉松一郎」は、爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」に参加して爆発的な人気を得てトップスターへと駆け上った。

これを面白く思わないのが、横山エンタツである。

そのようななか、松竹系の新興キネマが演芸部を設立するため、吉本興業の10倍以上のギャラを提示し、伴淳三郎を使って水面下で吉本興業の芸人を引き抜きにかかった。

そこで、横山エンタツは、自分も花菱アチャコと一緒に新興キネマ演芸部に移ると言い、ミスワカナにも移籍を勧めた。

すると、ミスワカナは、吉本で小娘扱いされて色々と不満を持っていたので、玉松一郎を連れて新興キネマ演芸部へと移籍した。

しかし、横山エンタツは新興キネマ演芸部に移籍しなかった。横山エンタツは、ミスワカナが吉本興業から居なくなれば、トップに返り咲けると考え、ミスワカナに移籍をそそのかして吉本から追い出したのである。

横山エンタツと花菱アチャコの対決

横山エンタツは吉本興業からミスワカナを追い出すことに成功したが、漫才の人気は今ひとつだったので、昭和17年に「エンタツ劇団」を発足した。

それを知った花菱アチャコも「アチャコ劇団」を発足したので、林正之助は「エンタツ劇団」と「アチャコ劇団」を競わせた。

当初は吉本内部で賭けが成立するほど、接戦を繰り広げていたが、漫才では横山エンタツの方が1枚も2枚も上でも、喜劇俳優としては花菱アチャコの方が1枚も2枚も上だったので、直ぐに「アチャコ劇団」の方が優勢になり、賭けは成立しなくなった。

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戦後と2人の運命

吉本興業は、大阪大空襲で全焼して全ての寄席を失うが、比較的に軽傷だった千日前の常盤座を復旧して、大阪大空襲から1ヶ月後の昭和20年4月には「エンタツ劇団」が千日前の常磐座で公演した。入場料無料の慰問興行だった。

そして、吉本の芸人が集まってくると、林正之助は退職金代わりに芸人の借金を全額チャラにして、全芸人を解雇した。

しかし、花菱アチャコだけは頑として首を縦に振らず、行くところが無いので、吉本興業に残して欲しいと懇願し、吉本興業に残った。

花菱アチャコは、吉本の芸人が自分だけになれば、吉本興業に仕事が入ってきたとき、仕事を独占できると考えたのである。

しかし、林正之助は、吉本に対する忠誠心から花菱アチャコは吉本に残ったと勘違いしたようで、最後に千日前の常磐座で公演すると、その売り上げを全て花菱アチャコにあげた。大金だったので、ドケチの花菱アチャコは、腰を抜かして驚いたという。

こうして、終戦直前に吉本興業は演芸を捨てて芸人を解雇すると、横山エンタツは「エンタツ劇団」を率いて地方巡業に出た。地方巡業は相当儲かったらしい。戦後はNHK大阪のラジオ番組「ショウボート」に出演して人気を博した。

一方、吉本興業に残った花菱アチャコは、映画を中心に活動していたが、横山エンタツが先にラジオ出演していたので、2番煎じになることを嫌い、ラジオ出演を避けていた。

そのようななか、NHKの佐々木英之助が花菱アチャコにラジオ出演を持ちかけた。花菱アチャコは気乗りしなかったが、脚本家は誰か尋ねると、尊敬する長沖一が脚本を担当するというので、ラジオ出演を承諾した。

こうして、花菱アチャコの「アチャコ青春手帖」が始まると、見事に大ヒット。その後もヒット番組を連発して長寿番組も生まれ、長らく吉本興業のナンバー1に君臨し続けた。

一方、横山エンタツもそれなりの人気だったのだが、花菱アチャコのような長寿番組はなく、映画の撮影中に腰を痛めて以降は精彩を欠くようになり、晩年は酒を飲むと、「藤木(花菱アチャコの本名)は得しよった」とボヤいた。

そして、イベントなどで「エンタツ・アチャコ」を単発的に再結成していたが、横山エンタツは柿の木を切ろうとして転落して以降、背骨の骨がずれて手足がしびれるようになり、車いす生活になってしまい、「エンタツ・アチャコ」も昭和45年(1970年)の元旦の番組「新春放談」で最後になった。

横山エンタツは芸人を嫌っていたので、芸人とは付き合っておらず、地味な晩年を過ごし、脳梗塞で昭和46年(1971年)3月21日に死去した。享年76。

一方、花菱アチャコはドケチだったので、吉本興業で1番ギャラが高かったが、自分では1円も出さなかったので、1代にして数億円の資産を築いた。そのドケチぶりは、ドケチの林正之助が呆れるほどだった。

しかし、女性には気前が良かったらしく、愛人に山一つを買い与えており、花菱アチャコは太鼓持ちという性格もあって、入院中も大勢の芸子が見舞いに来て華やかな晩年を過ごし、直腸癌で昭和49年(1974年)7月25日に死去した。享年78。

なお、朝ドラ「わろてんか」の各エピソードの実話は「わろてんか-実話のネタバレ」を

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