わろてんか-北村笑店の実在のモデルは吉本興行部

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する「北村笑店(きたむらしょうてん)」の実在のモデルを紹介します。

わろてんか-北村笑店のあらすじ

北村藤吉(松坂桃李)は、寄席「風鳥亭」経営を1年で軌道に乗せ、藤岡儀兵衛(遠藤憲一)から借りてきた開業資金500円も全額返済した。

そして、母・北村啄子(鈴木京香)から藤岡てん(葵わかな)との結婚を認められ、禁止していた「北村」の名前を使うことを許された。

そこで、北村藤吉(松坂桃李)は、信用を得るために「北村笑店」を設立し、更なる発展を目指して、2店舗、3店舗と寄席を増やしていくのであった。

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北村笑店の実在のモデル

朝ドラ「わろてんか」に登場する北村笑店の実在モデルは、吉本泰三が設立した「吉本興行部(後の吉本興業)」です。

吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、老舗の荒物問屋「箸吉」を廃業させて、明治45年4月に寄席「文芸館」の経営を開始し、翌年の大正2年には開業資金として借りた500円を全額返済して、「吉本興行部」を設立しました。

現在の吉本興業は「事業を興す」という意味の「興業」を使っていますが、当時は「お金を取って催し物を客に見せる」という意味の「興行」を使用していました。

しかし、吉本泰三は「反対派」の岡田政太郎と共同で「芦辺商会(芦辺合名会社)」を設立して、「芦辺商会(芦辺合名会社)」を名乗っており、「吉本興行部」を名乗るのは4年後の大正6年ごろからになります。

さて、吉本泰三は、1000円貯めたら1万円の借金をするという手法で、寄席を買収し、大正3年(1914年)に松島の寄席「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の寄席「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収して、寄席のチェーン展開を始めます。

さらに、翌年の大正4年には、桂派の拠点だった法善寺裏の「蓬莱館(元・金沢亭)」を買収し、演芸のメッカである法善寺裏へと進出します。

そして、吉本興行部の寄席を「花月亭」と名付けて、「蓬莱館(元・金沢亭)」を「南地花月」、天満天神裏の「文芸館」を「天満花月」というふうに、「○○花月」という名前に統一していきます。

大正6年には、これまで名乗ってきた「芦辺商会(芦辺合名会社)」の使用を止めて、「吉本興行部」を名乗り始め、妻・吉本せい(林せい)の実弟・林正之助を吉本興行部に迎え入れます。

そして、大正8年に、吉本せい(林せい)が、島根県の民謡「安来節」の第一人者「渡部お糸」の一座を大阪に招き、大正10年には東京で安来節を興行して、東京進出を果たします。

また、大正10年に東京・神田の「竹川亭」を買収して「神田花月」とし、吉本興業は東京へと進出します。

そして、吉本泰三は、大正11年には、ライバルの「三友派」を傘下に収めて、「花月連三友派合同連名」を発足し、大阪の演芸界を制覇して、吉本王国を築きました。

吉本泰三は、東京・神田の「神田花月」を足がかりに東京・浅草進出を目指す一方で、映画界への進出を目指していたのですが、大正12年に関東大震災が発生したため、浅草進出は後退します。

しかし、吉本泰三は、林正之助を派遣して東京の芸人を見舞い、東京の落語家を大阪へと招聘することに成功しました。

大正12年10月26日に跡取りとなる次男・吉本穎右(吉本泰典)が生まれて喜んでいたのですが、吉本泰三は大正13年2月13日に死去してしまいました。愛人の自宅で死去したと言われます。享年39でした。

吉本泰三は、大阪の演芸界を制覇して吉本王国を築いたとはいえ、30万円という莫大な借金を残していたうえ、落語人気の低迷によって演芸界は不況に見舞われており、「吉本興行部」は安心出来る状況ではありませんでした。

吉本泰三の死後は、林正之助が落語に変わる演芸として漫才を発掘して育てていき、昭和5年に千日前の「南陽館」を漫才専門の寄席として、入場料10銭で漫才が見られる「10銭漫才」を成功させます。

昭和7年(1932年)3月1日、吉本興行部は「吉本興業合名会社」に改組して、吉本せい(林せい)が主宰者に就任し、弟・林正之助が総支配人に就任。さらに、吉本せい(林せい)の弟・林弘高が京支配人に就任して、新体制を築きました。

昭和8年に漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」が野球ネタ「早慶戦」でブレイクし、昭和9年(1934年)3月には東京・有楽町の日本劇場で「マーカス・ショー」を開催して大成功します。

そして、吉本興業は映画にも進出し、戦時中は「わらわし隊」を結成し、戦地慰問にも力を入れました。

しかし、吉本興業は戦争によって全てを失い、戦後は所属芸人を全員解雇して演芸を捨て、映画館と米軍将校の慰安場「キャバレー・グランド京都」の経営で、戦後の復興を始めます。

(注釈:花菱アチャコだけは、解雇に納得せず、戦後も吉本興業に残って映画などで活躍していました。)

一方、弟・林弘高の東京吉本は、昭和21年(1946年)10月31日に「吉本株式会社」を設立して、大阪の吉本興業から分社して独立します。

さて、キャバレーと映画館で戦後の復興を遂げた大阪の吉本興業は、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業株式会社」を設立して、昭和24年(1949年)5月には大阪証券取引所に上場を果たします。

しかし、朝鮮戦争の勃発により、日本に居たアメリカ将校が戦争に行ったので「キャバレー・グランド京都」も閉鎖。テレビの登場により映画界も厳しくなり、映画館の経営も厳しくなっていきました。

このようななか、昭和32年(1957年)に松竹が映画館にしていた角座で漫才の寄席を再開するといニュースが飛び込んで来ましたため、吉本興業は演芸への復帰を決めます。

林正之助は、演芸の復帰に反対でしたが、八田竹男・橋本鐡彦(橋本鉄彦)・中邨秀雄らの説得を受けて、演芸への復帰を決めたのです。

当時、犬猿の仲だった朝日と毎日は、許認可の関係で仕方なく手を組み、民放テレビ局「大阪テレビ」を設立していたのですが、許認可の問題が解決すると、「大阪テレビ」は「朝日放送」と「毎日放送」に分裂する事になりました。

そこで、吉本興業は後発の毎日放送と手を組み、毎日放送の放送初日(昭和34年3月1日)に「うめだ花月劇場」で、「吉本ヴァラエティ(後の吉本新喜劇)」の第1回として花菱アチャコの「アチャコの迷月赤城山」を上演し、演芸界に復帰したのです。

吉本興業は演芸に復帰したものの、芸能界では、既に松竹芸能などが先行しており、吉本興業の演芸部門はしばらく低迷をつづけるのですが、昭和44年の深夜ラジオブームや昭和55年の漫才ブームによって吉本興業の演芸部門は盛り返していき、現在の吉本興業を築きました。

なお、朝ドラ「わろてんか」のあらすじや実話は、「わろてんか-実話」をご覧ください。

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