NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する北村藤吉(松坂桃李)が死去する実話とモデルです。
昭和に入って大阪でもラジオ放送が始まり、藤岡てん(葵わかな)や北村藤吉(松坂桃李)がラジオ体操に励むなか、武井風太(濱田岳)が落語よりも漫才を売り出そうとしたため、落語と漫才の対立が始まる。
そのようななか、北村藤吉(松坂桃李)は脳卒中で倒れてしまい、病院に運ばれ、一命は取り留めたが、意識不明の状態が続いた。
その後、藤岡てん(葵わかな)の献身的な介護によって北村藤吉(松坂桃李)は意識を取り戻したが、体に麻痺が残り、思うように動くことが出来なくなってしまった。
そのようななか、落語家の月の井団吾(波岡一喜)が武井風太(濱田岳)の意に反してラジオに出演するという「月の井団吾(波岡一喜)のラジオ出演事件」が発生し、北村藤吉(松坂桃李)はラジオから流れてくる月の井団吾(波岡一喜)の落語を聞いて驚くのだった。
北村藤吉(松坂桃李)は藤岡てん(葵わかな)の介護により、復活し、月の井団吾(波岡一喜)のラジオ出演刺激されて新たな仕事に挑戦しようとしたのだが、再び脳卒中で倒れ、死んでしまうのだった。
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北村藤吉(松坂桃李)のモデルとなる吉本泰三(吉本吉兵衛)は、老舗の荒物屋「橋吉」を倒産させた後、妻「吉本せい」に何の相談もせず、勝手に寄席を購入する話を決めてきた。
藤岡てん(葵わかな)のモデルとなる「吉本せい」は、乳飲み子を抱えた状態で、吉本泰三(吉本吉兵衛)の寄席の経営に引きずり込まれ、子供の世話から寄席の仕事や芸人の世話までこなし、寝る暇も無いほど忙しかった。夜も針仕事をしていたので、本当に寝る暇が無かったという。
そうした疲れが祟ったのか、「吉本せい」は大正8年(1919年)2月に、39度の高熱を出して倒れてしまう。
日本赤十字病院の医師から、治療方法が無いと言われ、入院を拒否されたが、「吉本せい」はなんとか頼み込んで入院させてもらうという有様だった。
その後、「吉本せい」は無事に復帰するのだが、医師から「もう子供は産めない」と言われてしまった。
「吉本せい」はこれまでに5人の子供を産んでいたが、ほとんどが夭折しており、生き残っていたのは三女・吉本峰子だった。
長男・吉本泰之助も夭折しており、跡取り息子が居なかったので、子供を産めないと言われた「吉本せい」は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾を持つように勧めた。
勧められるまでも無く、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)には既に妾が居り、「吉本せい」は夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に「妾のところに行って、してきなはれ」と勧めたという話も残っている。
しかし、その後も「吉本せい」は3人の子供を産んでおり、大正12年(1923年)10月26日には、待望の跡取り息子となる次男・吉本泰之助が生まれた。
吉本泰三(吉本吉兵衛)は、大阪の演芸界を制覇し、待望の跡取り息子が生まれ、やっと我が世の春が来たと喜び、映画界に進出しようとしていた。
ところが、その矢先の大正13年(1924年)2月13日に吉本泰三(吉本吉兵衛)は死去してしまう。死因は脳溢血とも心臓麻痺とも言われる。享年39の若さだった。
芸人の間では、吉本泰三(吉本吉兵衛)は妾(愛人)の家で腹上死したと噂されており、吉本泰三(吉本吉兵衛)の死については、この腹上死説が付いてまわる。
林正之助は、妾宅で死んだという噂については否定も肯定もせず、吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾(愛人)が居たことだけを認めている。
こうした腹上死の噂を吹き飛ばすためか、吉本せいは白い喪服を着て夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の葬儀に出て、世間を驚かせました。
朝ドラ「わろてんか」では、藤岡しず(鈴木保奈美)が藤岡てん(葵わかな)に、白い喪服を持たせてるので、当然、藤岡てん(葵わかな)も白い喪服を着る展開になるでしょう。
なお、朝ドラ「わろてんか」のエピソードの実話は「わろてんか-実話」をご覧ください。
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