NHKの朝ドラ「スカーレット」の川原喜美子(戸田恵梨香)のモデルとなる陶芸家・神山清子の立志伝です。
神山清子(こうやま・きよこ/本名は金場清子)は、昭和11年(1936年)8月2日に長崎県佐世保市で、金場繁の長女として生まれた。「神山」というのは夫の姓で、旧姓は金場である。
父・金場繁は香川県の出身で、炭鉱で働いていた。父・金場繁は情に厚い人だったが、酒と博打が好きで、神山清子と母・金場トミは借金のカタに取られて、店に売り飛ばされそうになったこともあった。
母親の金場トミは、良家のお嬢様で、何もせず、家事や家計は神山清子がやっていた。
さて、この頃は日韓併合中で、日本の炭鉱で大勢の朝鮮人が働いており、「金場」という名字が朝鮮人の名乗る名前に似ていたせいか、神山清子は学校で「朝鮮人」と言われて虐められていた。
あるとき、厳しい労働に耐えられなくなった朝鮮人たちが炭鉱を脱走した。
そのとき、父親は朝鮮人の脱走を手助けしたため、父親は警察に追われ、一家を連れて炭鉱町を逃げ出した。
その後、神山清子らは、行く先々で朝鮮人に匿われながら逃走し、戦争末期の昭和19年(1944年)9月に滋賀県の日野へとたどり着いた。
神山清子は、母・金場トミが作る服が朝鮮服(チマチョゴリ)に似ていたため、滋賀県でも「朝鮮人」と言われて虐められ、泣いて帰ったが、母・金場トミから理由を聞かれても、服が原因で虐められたとは言えず、何も答えなかった。
しかし。神山清子は、子供の頃から負けん気が強く、「朝鮮人」と言われて虐められても、泣き寝入りはせず、相手の親のところに行って文句を言ったり、校長室に駆け込んで、対策を訴えたりしていた。
やがて、日野町で終戦を迎えると、昭和22年(1947年)2月に滋賀県甲賀郡雲井村字勅旨(滋賀県信楽町勅旨)へと移った。神山清子が小学3年生の時だった。
戦時中に金属が不足していた関係で、陶器が金属の代用品となり、信楽では火鉢が飛ぶように売れ、「火鉢景気」に沸いていた。
父親は有り金をはたいて信楽で山を買い、亜炭の採掘を始めたが、亜炭の採掘は上手くいかず、木を切って薪にして、陶芸家に売るようになった。
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さて、佐世保時代から虐められていた神山清子は、1人で地面に絵を描いて遊んでおり、絵を描くことが好きになっていたので、将来は絵描きになりたいと考えていた。
その次に成りたいと思ったのは婦人警官だったので、派出所のおまわりさんから柔道を習った。そのおかげで丈夫な体を手に入れた。長距離走が得意で、滋賀県ではちょっとしたものだった。
その一方で、虐められていた神山清子は、みんなに認めて貰うため、勉強を頑張っており、いつもテストは100点で成績は1番だった。先生からの信頼も厚く、毎年、学級長にも選ばれていた。
神山清子は中学1年生の秋に稲穂のスケッチした絵が、美術教師に認められ、月に1度、美術教師から絵を習うようになり、滋賀県の絵画コンクールで金賞を取った。
すると、美術教師は神山清子に美術大学への進学を勧め、高校の学費は信楽町が出してくれることになった。
しかし、封建的な父・金場繁は「女は裁縫と料理が出来ないとダメだ。勉強など必要ない」と言い、神山清子は信楽中学を卒業すると、和裁・洋裁学校へ入れらるのだった。
神山清子は独立したいという気持ちを持っていたが、ひとまず父親の言うことを聞いて和裁・洋裁学校へと入った。
朝5時に起きて花を病院へ持って行き、花を売りって学費を稼ぎながら、和裁・洋裁学校へと通った。
このころ、神山清子は、京都へ行って本格的な絵の勉強をしたいと思っていたが、家庭の経済事情で京都へ行くことはできないため、絵の勉強をしながら、信楽で絵の師匠を探していた。
地元の信楽で絵の仕事と言えば、信楽焼の絵付けしの仕事があったので、信楽で一番良い絵付け師を探して、京都から来た日本画家の絵付け師(吉竹栄二郎?)に、弟子にして欲しいと頼んだ。
絵付け師は「女の弟子は取らない」と言って拒否したが、神山清子は諦めずに朝6時に起きて絵付け師の職場に押しかけた。
10日ほどすると、絵付け師は話を聞いてくれたが、やはり、弟子にはしてくれなかった。
絵付け師の娘が弟子と男女の問題を起こして失敗していたので、女の弟子は取らない主義なのだという。
その代わり、熱意を認めてくれ、北村という絵付け師を紹介してくれた。
こうして、神山清子は北村の弟子になれたが、子供の面倒や雑用ばかり、絵付けの仕事など教えてくれなかった。
しかし、神山清子は雑用の合間に、見よう見まねで絵付けの仕事を覚えていき、やがて、下書きから上絵まで任されるようになった。神山清子は嬉しかったが、北村は怒ると直ぐに物を投げつけるため、嫌になって1年で辞めた。
昭和29年(1954年)、神山清子は18歳の時に日本画家の絵付け師(吉竹栄二郎?)の紹介で、陶器製造会社「近江化学陶器」に就職した。
神山清子はデザイン部に配属され、吉竹栄二郎に絵付けを学び、日根野作三からクラフトデザインを学んだ。
弟子ではなく、正社員だったので、給料は出たが、「お前なんかは教えてやっているんだから、本当なら授業料もってこなきゃいかん、それなのに出しているんだから」と言われる程で、給料は少なかった。
神山清子は仕事が始まる2時間前に職場に行って売り物にならない火鉢で絵付けの練習をして、昼休みは自宅に戻って家事をし、仕事が終わると、自宅に戻って新聞紙で筆運の練習をした。
しかも、給料が安かったので、夜の12時や1時までアルバイトをしたが、父親は「ただめし食わせて大きくさせてやったんだから、その分返すのが親に対する務めだ」と言い、神山清子の給料を全て取っていた。
神山清子は「この頃は娘十八番茶も出花という頃でしたが、お化粧などしたことがありません。現代の子供には、こんな話とうてい理解できないでしょう」と苦労を語る。
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神山清子が「近江化学陶器」に入って1年が過ぎ、デザイン部が拡大され、神山清子は主任的な立場になった。正式な役職ではないが、近江化学陶器では女性初で、ようやく給料も人並みになった。
このとき、型押し部に居た神山易久がデザイン部へと移ってきた。神山易久は、中学時代の1年先輩だった。
神山易久は中学時代の美術コンクールで、いつも2位で、1位が神山清子だった。
このため、神山易久はライバル視していたが、神山清子は自分の絵に必死で神山易久のことを知らなかったという。
さて、神山易久が神山清子のデザイン画を褒めたので、神山清子は神山易久に好意を持つようになった。若い2人が恋に落ちるのには、それほど時間はかからなかった。
しかし、父親が結婚に反対した。父親は苦労して土地を手にしていたので、結婚するなら養子が欲しかったし、神山家の金銭的な事情も気に入らなかったようである。
神山易久は養子に入る事を承諾したが、神山清子が養子に反対し、最終的に神山清子が神山易久の籍に入り、2人は金場家で同居するということで、結婚した。神山清子が21歳のことだった。
結婚しても仕事を続けたが、それでも生活が苦しいので、和服や反物を売りながら生活をしていた。
やがて、神山清子は、長女・神山久美子と長男・神山賢一を儲けたが、仕事を辞めることは出来ず、子供を負ぶって出勤し、工場にむしろをしいて子供を寝かせ、仕事に励んだ。
それでも、1度も休んだことがなく、度々皆勤賞をもらい、残業代を目当てに、遅くまで仕事をさせてもらったので、「働き者の清ちゃん」と呼ばれていた。
神山清子が「近江化学陶器」に就職してから10年が過ぎたころ、家電の発達により、電気式の暖房器具が普及してくると、火鉢の需要が激減し、「近江化学陶器」は経営が傾き始めた。
このころ、「近江化学陶器」では、火鉢からタイル製品や植木鉢に転換しており、絵付け師の需要も減っていた。
このため、神山清子はアッサリと会社を辞め、信楽焼の伝統的な狸や灯籠の型押しの下請けを始めたが、初めは狸の置物を10個作っても、8個は潰れて前にお辞儀してしまうという有様だった。
時間が経つと手慣れてきたが、下請けなので、大したお金にもならず、他に仕事はないものかと考えるようになっていた。
そのようななか、台所で考え事をしていた神山清子は、「台所用品を一番知っているのは私たち女だ。信楽焼には食器は無いけれど、信楽の土で食器を焼けないだろうか」と思った。女性ならではの発想だった。
そこで、皿を作って知り合いの窯で焼かせてもらうと、味のある皿が焼けた。
皿は毎日、料理を盛り付けるのに使うので、神山清子は日々研究して、次々に新しい皿を焼いていたとき、子供たちが泥遊びをしているのを見て、「編み込み」という手法を思いつき、「編み込み皿」を焼いた。
すると、知り合いから公募展に出品することを勧められたので、公募展に出品してみると、日本クラフト展や朝日陶芸展に入選して、神山清子は信楽の女流陶芸家として一気に注目を集め、陶芸家として華々しいスタートを切ったのである。
神山清子は、絵の世界を目指していたが、陶芸の道に進むことには何の抵抗もなかったという。
神山清子は自分の窯を持っておらず、酒やお金を持っていき、知り合いの電気釜で焼かせてもらっていた。
しかし、作品がコンクールに入選したとき、審査員が窯を見たいというので、慌てて15キロの小さな電気釜を30万円で購入することにした。
展覧会に出品した作品を1つ5万円で売って購入費用に充てようとしたが、全く売れないので3万円まで値下げして10万円を用意し、残りは月賦にしてようやく、電気釜を購入した。
応援してくれる人も居たが、女性が窯に入ると「汚れる」と言われていたので、女性で窯まで持つ人は居らず、「植木鉢を焼くような汚い土で食器を作っても売れない」「女なのに生意気だ」という批判も起こった。
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夫・神山易久は、「近江化学陶器」に残っていたが、神山清子が辞めた8年後にライバル会社「日本陶飾」の社長に引き抜かれ、ライバル会社「日本陶飾」に移った。
夫・神山易久は自分のデザインを持って「日本陶飾」に移ったので、「近江化学陶器」の社長が激怒したという。
夫・神山易久は「日本陶飾」の社長から、重役の次にぐらいの待遇をだと言われていたので、自由気ままに重役出勤をしていた。
しかし、社長以外は誰も夫・神山易久を偉いと思っていなかったので、人間関係が上手くいかず、「日本陶飾」も4年ほどで辞めた。
そして、神山清子が堅実に仕事を増やしていたので、夫・神山易久も神山清子の工房で食器を作るようになった。
食器類は値段が安いので、数をこなさなければならず、2人は懸命に働いた。
やがて、神山清子は、電気釜ではなく、古代穴窯で信楽焼を作りたいと思うようになるが、穴窯を作る資金が無かった。
幸い、父親の山を買ってくれるという人があったので、父親が山を売り、資金として提供してくれた。
神山清子は、そのお金で、夫・神山易久と共に、レンガを重ねて土を被せた半地上式の穴窯を作り、「寸越窯(ずんごえがま)」と名付けた。
この「寸越窯」が神山清子の運命を大きく変えることになる。
「寸越窯」が完成してしばらくすると、高山という陶芸家が、自分の作品を古式穴窯で焼いて欲しいと頼んできたので、「寸越窯」で焼いてあげた。
すると、高山が、京都に信楽焼の好きな美術商が居ると言い、美術商のK氏を紹介してくれたので、神山清子らは夫・神山易久の作品を持っていった。
すると、K氏が夫・神山易久の作品を気に入り、支援を約束して、芸術家がお金の心配なんかしてはいけないと言い、無条件で大金を貸してくれた。売る方は引き受けるので、どんどん焼けというのである。
K氏が無条件で次々にお金を貸してくれるので、夫・神山易久はK氏をいつでもお金を引き出せる銀行と勘違いして、一躍スター気取りとなった。
夫婦で個展を開いて「おしどり展」などと呼ばれていたのだが・・・。
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K氏から支援を受けるようになった頃から、夫・神山易久は弟子の女性と不倫関係になった。
神山清子が弟子の女性に「陶器の勉強をやるのか、恋愛をやるのか。主人との関係は知っているけど、いまさら何も言わない。陶芸をやるのなら、ここへ来ている間は恋愛関係をストップしなさい」と注意すると、弟子の女性は「陶芸をやります」と答えた。
しかし、女性が夫・神山易久に言いつけたらしく、神山清子は夫・神山易久から激しく叱責された。弟子の女性は甘えるように夫・神山易久に寄り添った。
そうした一方で、夫婦で展覧会に出品するが、入選するのはいつも神山清子の方だった。
夫・神山易久は、神山清子が展覧会で入選する度に不機嫌になっていき、終いには、窯に縄を張って「生理のある女は入るな」と言い、神山清子を閉め出して、窯への立ち入りを禁じた。
神山清子は、真冬に水をかけられたり、鉄の棒を振り回された事もあったという。
弟子は上手く立ち回り、神山清子だけが孤立し、妻の座も陶芸活動も奪われてしまった。
神山清子は自分の作品を作るために、みんなが寝静まるのを待って、土置き場の隅っこで隠れて展覧会に出品する作品を作った。
さて、夫・神山易久が交通事故に巻き込まれたことから、弟子との不倫が明るみになった。信楽町は小さい町だったので、直ぐに噂は広まった。
離婚問題で2年間、苦しみ抜いた神山清子は、ある冬の日、何時間も裸足で森をさまよったが、死のうとした瞬間に足が動かなくなったという。
そんな神山清子を救ったのが、長男・神山賢一だった。
長男・神山賢一が「お母さん、お父さんのことは忘れて、良い仕事をして欲しい」と言ってくれたので、離婚を決心し、夫・神山易久と離婚した。38歳のことである。
神山清子は陶芸の師匠がいなかったが、離婚後は色々な陶芸家が尋ねてきて助言をしてくれるようになった。中には、言い寄ってくる男もいた。
このころ、陶芸家は男性ばかりだったので、神山清子の事を男性だと思い、「かみやま・せいし」と読み、「かみやま・せいし先生は居られますか」と尋ねてきた。
応対に出た神山清子は、「かみやま・せいし先生」の弟子と間違われたので、気まずくなって適当に誤魔化して帰ってもらった。
その人は何度、会いに来ても「かみやま・せいし先生」が会ってくれないため、終いに怒りだしてしまった。
そこで、神山清子が仕方なく、「かみやま・せいし」ではなく、「こうやま・きよこ」と読むことを教え、自分が「こうやま・きよこ」だと明かすと、その人は絶句した。
神山清子が夫と離婚して間もなく、長男・神山賢一が古い寸越窯跡で陶器の破片を見つけた。
それは、釉薬(うわぐすり)などを使わない古代の自然釉(しぜんゆう)で、なんとも綺麗な色をしていた。
すると、神山清子は、自然釉(しぜんゆう)に魅入られ、自然釉の研究に没頭した。
離婚の後でお金が無く、弟子から借金をして、子供のお年玉を使い込み、パンの耳を食べ、農家にキャベツをもらいに行き、全てを自然釉につぎ込んだ。
しかし、失敗の連続で、まったく色が出なかった。
そこで、今度、色が出なかったら、しばらく休業して出稼ぎに出ようと思い、最後は全財産をはたいて薪を買い、通常なら3日から6日間のところを、ヤケクソで16日間も炊き続けた。
すると、16日間も炊き続けたことが功を奏し、釉薬(うわぐすり)を使わずに色を出すことに成功した。土の中の石が溶け出して、焼き物にかかった灰と反応し、宝石のような色に変化したのだ。
こうして、神山清子は自然釉(しぜんゆう)による古代の信楽焼きの再現に成功し、「信楽自然釉」と名付けた。
そして、古代の信楽焼きを再現したことがNHKなどで取り上げられ、神山清子の名前は全国へと広まっていくのだった。
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神山清子は44歳の時に、韓国の窯場から陶芸の指導して欲しいという依頼を受けた。
神山清子は、韓国の陶芸に憧れており、韓国の土や職人の仕事を見たいと思っていた。
また、戦時中に父親が警察に追われて逃げ出したとき、行く先々で朝鮮人に匿ってもらっていたので、韓国人(朝鮮人)を尊敬しており、韓国人への恩返しとして、陶芸の指導を引き受けた。
神山清子は、韓国で半月ほど滞在して窯場で陶芸を教え、韓国人と交流を深めて、帰国後も韓国人との文通を始め、次回の交流を楽しみにしていたのだが、朴大統領暗殺事件などの影響もあり、文通も途絶えてしまった。
神山清子の長男・神山賢一は、小さい頃から信楽焼を手伝っていたこともあり、自然と信楽焼の道を目指し、信楽工業高校(信楽高校)の窯業科を卒業して、滋賀県立信楽窯業試験場でロクロや釉薬などを学んだ。
そして、長男・神山賢一は滋賀県立信楽窯業試験場で3年の修行を経て、神山清子の元に戻り、天目茶碗の制作に励み、陶芸家として歩み始めた。
平成2年(1990年)2月16日、長男・神山賢一は29歳の誕生日を迎えたが、その4日後の2月20日に作品を作っている最終に倒れ、病院に運ばれた。
そして、検査の結果、長男・神山賢一は慢性骨髄性白血病と診断された。神山清子が54歳のことである。
2日後、長男・神山賢一は大津市の赤十字病院に転院し、神山清子は改めて、医師から、白血病は血液のガンだと教えられた。
赤血球の形(HLA)が合ったドナーから骨髄を移植するしか治療方法は無く、ドナーが見つからなければ、長男・神山賢一は死ぬと言い、2年半の余命宣告を受けた。
神山清子は医師からの説明を聞いて激しく動揺するが、長男・神山賢一は、自分が白血病だと気づいていたのだった。
兄弟間でHLAが適合する確率は約25%と言われるが、長男・神山賢一と長女・神山久美子のHLAは適合しなかった。
このとき、公的な骨髄バンクは存在しておらず、民間の「東海骨髄バンク」が存在するのみだったが、ドナー数も少なく、時間もかかった。
そこで、長男・神山賢一の知人らが平成2年(1990年)7月に「神山賢一君を救う会」を設立し、ドナー探しと募金活動を開始した。
さらに、市民団体などの協力により、「神山賢一君支援団体連絡協議会」が発足した。
そのようななか、神山賢一の名前を公表したことにより、「私たちも救って欲しい」「募金を使う権利は私たちにもある」として、全国の白血病患者からHLAのデータが送られてきた。
そこで、長男・神山賢一は、他の白血病患者も救うことに決め、活動の範囲を拡大し、骨髄バンク運動を開始する。
神山清子と神山賢一は、親子展を開いて骨髄バンクの必要性を訴え、ドナー提供を呼びかけ、4ヶ月で約3000人のドナー希望者が集まった。
しかし、非血縁者でHLAが適合する確率は数万分の1とも言われており、長男・神山賢一の適合者は見つからなかった。
血液検査の費用は1人につき1万3500円。現在は血液検査の費用は国が負担してくれるが、当時は保険も適用されず、全額が個人負担だったため、「神山賢一君を救う会」は総額7000万円という借金を抱えて解散した。
神山清子は、全国各地の白血病患者に借金返済を強力して欲しかったが、自分で借金を被ることにして、「神山賢一君を救う会」の解散後も、作品を売りながら借金を返済し続けた。
その一方で、骨髄バンク設立を期待する声は大きくなっており、神山賢一は、全国各地の白血病患者を「救う会」の拠点となる「骨髄バンクと患者を結ぶ会」を設立し、会長に就任して、骨髄バンク設立運動を本格的に開始するのだった。
神山賢一は骨髄バンク運動を続ける一方で、陶芸にも励み、「滋賀県立陶芸の森」で開催された「世界陶芸祭」に天目茶碗、神山清は壺を出展した。
神山賢一は世界の陶芸を間近で見られる事を楽しみにしていたが、信楽高原鉄道が脱線事故を起こして大騒ぎになったため、翌日、世界陶芸祭は途中で中止となった。
さらに、それから数日後に、神山賢一と交流していた白血病患者と母親が、無理心中するという悲劇が起きた。
その後、神山賢一は急性白血病へ転化したため、赤十字病院に再入院。民間の「東海骨髄バンク」でも適合者が見つからなかったため、叔母・静子の骨髄を移植することになった。
このころ、神山清子は牛尼瑞香を弟子を取り、牛尼瑞香の協力を得て、陶芸を続けなら病院に通う一方で、骨髄バンクの必要性を訴える活動を続けた。
神山清子の妹・静子は二座不一致でHLAが完全に一致はしなかったが、完全に一致していなくても骨髄移植すれば、白血病が治るケースがあった。
そこで、神山清子が妹・静子に相談すると、妹・静子が協力を約束してくれたので、長男・神山賢一は名古屋の赤十字病院へ移って骨髄移植を受け、容体は回復に向かった。
さらに、その年(1991年)の12月に、骨髄バンク運動が実を結び、念願の「骨髄移植推進財団(骨髄バンク)」が設立された。
しかし、平成4年(1992年)2月に長男・神山賢一は白血病が再発してしまう。
そこで、神山清子は献体登録すると言い、長男・神山賢一にも献体登録を勧め、2人で献体登録をした。
医学に貢献したいという気持ちもあったが、献体すれば、遺体は死後2年間はそのままの状態で安置されるので、病院へ行けば、いつでも長男・神山賢一に会えると言う理由が大きかった。
さて、神山清子は、神山賢一の生き様を信楽自然釉で残しておこうと思い、入院前に神山賢一が作った壺を信楽自然釉で焼き、病院へ持って行った。
既に神山賢一は信楽自然釉の壺を見て嬉しそうだったが、もう壺を持つ力もなくなっており、目から出血していたので、血の涙を流しているように見えた。
ある日、長男・神山賢一が国宝級の「天目茶碗」が展示されている徳川美術館に行ってみたいと言うので、神山清子は長男・神山賢一を車椅子に乗せて、徳川美術館へ連れて行ったが、休館日だったため、入る事が出来ず、名古屋城を観に行った。
その後、神山賢一は衰退していき、神山清子の子守歌を聴きながら、平成4年(1992年)4月21日に死去した。神山賢一は31歳、神山清子は56歳だった。
長男・神山賢一は献体登録していたので、死後、滋賀医科大学に献体に出され、2年後に役目を終えると、比叡山延暦寺で献体法要され、帰宅した。
さて、長男・神山賢一は生前に「(骨髄バンク運動は)僕で終わっていい。あとは自分の仕事をして」と言っていた。
しかし、神山清子は白血病患者から電話を受けたり、関係者が尋ねてきたりするので、平成6年(1994年)に「滋賀骨髄献血の和を広げる会」が発足すると、会長に就任し、陶芸の制作活動を行いながら、骨髄バンクの普及のために活動を続けた。
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