宝塚少女歌劇団の月組娘役スターとして活躍した雲野かよ子(鳥居華子)の立志伝です。
雲野かよ子(本名は鳥居華子/結婚後は川口華子)は、明治41年(1908年)8月20日に東京市神田区小川町一番地(東京都千代田区)で、鳥居政吉(水野政吉)の次女(2男4女)として生まれた。
鳥居家は二コライ堂の坂の下にあり、雲野かよ子(鳥居華子)はニコライ堂の鐘を聞きながら育った。
父・鳥居政吉も母・鳥居静(鳥居しず)も共に尾張藩(愛知県名古屋市)の出身で、非常に芝居好きだったため、子供達は芝居を見る機会が多かった。
さて、大正7年(1918年)5月に宝塚少女歌劇団が東京初公演を果たす。
この年、3歳上の天津乙女(鳥居栄子)は青山尋常小学校を卒業したが、天津乙女(鳥居栄子)は病弱だったので、師範学校へと進めなかった。
ちょうど、宝塚少女歌劇団は、関西弁になるのを防ぐため、東京から採用する試みが行われており、東京で団員を採用しており、姉・天津乙女(鳥居栄子)は、知り合いのジャーナリスト結城礼一郎の勧めによって宝塚少女歌劇団の面接を受けた。
そして、天津乙女(鳥居栄子)は、面接に合格し、初瀬音羽子(本名は村田八重)・関守千鳥(本名は澤靜子)・久方静子(本名は調査中)と共に東京採用組の第1号となり、家族を離れて兵庫県宝塚市へと渡った。
それから2年後の大正9年(1920年)10月、姉・天津乙女(鳥居栄子)は雲野かよ子(鳥居華子)の入団に反対したが、雲野かよ子(鳥居華子)は姉・天津乙女(鳥居栄子)の反対を押し切り、宝塚少女歌劇団に入団する。
父・鳥居政吉は、長女・天津乙女(鳥居栄子)が宝津少女歌劇団に入団して以降、東京から関西まで足繁く通っていたので、宝塚の創始者・小林一三から「「そう、度々、東京と大阪を往復していては旄費もばかにならない。いっそのこと、家族全部が移っては」と誘われていた。
父・鳥居政吉は仕事の株屋が倒産した事もあり、次女・雲野かよ子(鳥居華子)が宝塚少女歌劇団に入団した事を切っ掛けに、小林一三の招きを受け、大正10年(1921年)に一家揃って兵庫県宝塚市へと引っ越し、阪急電鉄に入り、阪急マーケットで勤務した。
このおかげで、一家は関東大震災に遭わずにすんだ。
雲野かよ子(鳥居華子)は宝塚少女歌劇団で頭角を現し、姉の天津乙女(鳥居栄子)は月組の組長、妹の雲野かよ子(鳥居華子)は月組の娘役として活躍した。
昭和17年(1942年)、雲野かよ子(鳥居華子)は川口正と結婚し、宝塚を退団して上海へと渡る。
雲野かよ子(鳥居華子)が退団・結婚した昭和17年(1942年)の4月18日に東京が初空襲を受ける。
東京が初空襲を受けたとき、父・鳥居政吉は東京で天津乙女(鳥居栄子)と芝居を見ており、東京発空襲のショックにより、昭和17年(1942年)8月11日に死去した。
雲野かよ子(鳥居華子)は上海で終戦を迎え、戦後、上海から引き上げ、宝塚音楽学校古典演劇の講師、宝塚歌劇団の日本舞踊振付家などを務めた。
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鳥居政吉 | 父 | 妻・鳥居政吉は尾張藩・水野家の出身。結婚して鳥居家の養子に入る。京外語専門学校を卒業後、四谷第四尋常小学校。その後、小林一三の招きを受けて関西へと引っ越し、阪急電鉄の阪急マーケット(阪急百貨店)に勤務する。 |
鳥居静 | 母 | 妻・鳥居静(鳥居しず)は尾張藩の出身。非常に明るい性格で話し好きだったので、「静」という名前を不幸に思い、「鳥居しず」と書いていた。夫・鳥居政吉の定年後、東京へ戻って天ぷら屋を始める。 |
鳥居栄子 | 姉 | 鳥居家の長女・鳥居栄子は宝塚に入り、「天津乙女」の芸名で日本舞踊の名手として活躍し、団員のまま宝塚の理事を務め、宝塚に在籍したまま死去した。 |
鳥居文子 | 妹 | 鳥居家の三女・鳥居文子は「見るのは好きだが、やるのは嫌」と言って、宝塚歌劇団には入らなかった。 |
鳥居久代 | 末妹 | 鳥居家の四女・鳥居久代は、小林一三の勧めで宝塚歌劇団に入り、「池辺鶴子」の名前で舞台に立ったが、病に倒れたため、舞台には2年足らずしか立てず、昭和21年(1946年)に死去した。 |
鳥居正一郎 | 弟 | 鳥居家の長男・鳥居正一郎は、昭和11年に京都帝国大学を卒業し、小林一三の勧めで阪急鉄道に入社。戦後、阪急百貨店が阪急電鉄から独立した時に阪急百貨店へと移り、昭和56年(1981年)に阪急百貨店の3代目社長を務めた |
鳥居欽也 | 弟 | 鳥居家の次男・鳥居欽也は関西学院大学を卒業。陸軍を嫌って海軍を志願し、硫黄島の高射砲部隊に配属され、硫黄島で戦死した。 |
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