「マルちゃん」ブランドでお馴染みの東洋水産の創業者・森和夫の立志伝の後編です。
立志伝の前編は「東洋水産の創業者・森和夫の立志伝」です。
自転車操業を続けていた横須賀水産(東洋水産)の森和夫は、取引先の商社「第一物産(三井物産)」から3000万円を借りて、ハム・ソーセージ製造を開始し、冷凍マグロの専業から食品加工へと発展したのを機に、昭和31年(1956年)7月に「横須賀水産」から「東洋水産」へと社名を変更した。
東洋水産は、冷凍マグロの輸出専業だったので、魚肉ハムとソーセージ事業は難航したが、経験者の深川清司を他社からヘットハンティングすることに成功し、軌道に乗せることができた。
魚肉ハムとソーセージは利益率が良く、営業の頑張りもあって売り上げを伸ばし、魚肉ハムとソーセージは売上増加に伴って工場を増やしていき、東洋水産の主力業務へと成長していく。
その一方で、東洋水産はマグロの缶詰の製造も開始していたが、缶詰の輸出組合は排他的で、新規参入組の加入を拒んでいたため、東洋水産は輸出組合に入れず、缶詰事業は赤字だった。
さて、商社「第一物産(三井物産)」から3000万円を借りていた東洋水産は、第一物産から赤字会社の「東京水産興業」を押しつけられ、昭和35年(1960年)6月14日に「東京水産興業」を吸収合併した。
東洋水産が東京水産興業を吸収合併するときに、第一物産(三井物産)は東洋水産の経営には口を出さないと約束していたが、第一物産は東洋水産の株80%を所有しており、約束を反故にして東洋水産の経営に介入してきた。実質的な乗っ取りだった。
第一物産(三井物産)に株式の80%を握られていては安定した経営が出来ないので、森和夫は第一物産との交渉に奔走する。
このようななか、東洋水産の森和夫は当時、流行していた即席ラーメンに参入するのだった。
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「チキンラーメン」よりも前に即席麺は販売されていたが、いずれも商業的には成功しておらず、即席麺で初めて商業的に成功したのは、日清食品の創業者・呉百福(安藤百福)が昭和33年(1958年)に発売した「チキンラーメン」だった。
そして、「チキンラーメン」の成功により、多くの即席麺業者が誕生した。昭和34年(1959年)に梅新製菓(エースコック)が即席麺に参入し、昭和35年(1960年)には明星食品も即席麺に参入した。
そのようななか、東洋水産の森和夫は営業日誌を見て、毎日のように「即席麺が人気」と書いてあることに気づいて、これは面白いと思い、即席麺への参入を決め、昭和35年に即席ラーメンの研究に着手した。
東洋水産が即席麺に参入した理由は、主力のハム・ソーセージの閑散期となる冬場の工場を有効利用するめだった。ちょうど、即席麺は冬場が繁忙期になるので、いわゆる「裏作」として即席麺に参入したのである。
また、日清食品やサンヨー食品や明星食品などは社長が即席麺の開発の陣頭指揮を執るのだが、東洋水産の森和夫は魚屋なので即席麺の開発には関わっていない。
森和夫は開発した即席麺を試食するが、味の方は自信が無く、魚肉ハムやソーセージを手がけていた深川清司が即席麺の開発にあたった。
こうして、東洋水産は昭和36年(1961年)4月に東洋水産で即席麺の第1弾となる「マルト即席ラーメン味付」を発売したが、「マルト即席ラーメン味付」は失敗に終わった。
東洋水産は第一物産(三井物産)から押しつけられた赤字会社の東京水産興業と合併しており、これ以上、即席麺での失敗は許されず、背水の陣で新製品の開発に臨んだ。
そこで、東洋水産は、新たなブランド名「マルちゃん」を考案し、昭和37年(1962年)5月に即席麺の第2弾となる「マルちゃん・ハイラーメン」を発売した。
東洋水産は、マルの中に「と」を入れた「マルト」マークを使用していたので、「マルト」をブランド名としていたが、即席麺を食べるのは子供なのだから子供に親しまれないと行けないと言い、「マルト」を発展させて「マルちゃん」とした。これが「マルちゃん」ブランドの始まりである。
ところが、背水の陣で臨んだ「マルちゃん・ハイラーメン」から異臭がするというクレームが発生したが、原因は分からず、原因の究明に奔走する。
魚肉ハムやソーセージは腐るが即席麺は腐らない。開発陣はそう考えていたので、即席麺を簡単に思っていたが、即席麺も油が酸化するのである。
この酸敗問題は発売初期だったため、傷は浅く、東洋水産は酸敗問題をクリアして「マルちゃんハイラーメン」をヒットさせた。
続いて、東洋水産は昭和38年(1963年)8月に即席麺「マルちゃん・たぬきそば」を発売した。
これまでにも乾麺や味付麺の蕎麦は売られていたが、スープ別添付方式の即席麺の蕎麦としては東洋水産の「マルちゃん・たぬきそば」が日本初だった。
そして、「マルちゃん・たぬきそば」が大ヒットして、即席麺業界に和風ブームを起こし、即席麺はハムやソーセージに並ぶ東洋水産の収益の柱へと成長した。
この「マルちゃん・たぬきそば」が、後にマルちゃんの代名詞となる「赤いきつね」と「緑のたぬき」へと繋がっていくことになる。
ところで、各業界から続々と即席麺へ参入しており、水産業界も大手が即席麺へ参入したが、いずれも下請けへの発注で、水産業界で即席麺の自社生産をしていたは東洋水産だけだった。
このころの水産業界大手は儲かっていたので、即席麺に力を入れておらず、直ぐに即席麺から撤退してしまった。結局、水産業界で即席麺に残ったのは自社生産をしていた東洋水産だけだった。
また、東洋水産は、北海道で初の即席ラーメの工場を作ったこともあり、ピーク時には北海道のシェア8割を占めた。
第一物産(三井物産)から3000万円を借りた東洋水産は、第一物産から赤字会社の「東京水産興業」を押しつけられて東京水産興業を吸収合併するが、第一物産に株式の80%を握られてしまい、第一物産から干渉を受けていた。
東洋水産の森和夫は、東京水産興業を吸収する際に、東洋水産の独立性を確保する覚書を第一物産(三井物産)と交わしており、第一物産側から覚書にサインを得ていたが、第一物産は「正式な契約書ではない。覚書を読んだという意味でサインしたに過ぎない」と言い、約束を反故にしていた、
東洋水産の森和夫は、このままでは会社を安定経営できないため、第一物産(三井物産)に辞表の受理を迫ると、第一物産は覚書を交わすことを約束した。
森和夫あっての東洋水産であり、森和夫が辞めれば、社員まで一緒に辞めてしまう可能性があるため、第一物産(三井物産)としては森和夫に辞められては困るのである。
こうして、森和夫は第一物産(三井物産)と新たな覚書を交わして第一物産から株式を買い戻すことになる。
ところが、東洋水産は即席麺を大ヒットさせて業績を伸ばしており、東京水産興業から引き継いだ累積赤字も昭和37年度に一掃し、創業以来初となる配当を出したので、第一物産(三井物産)は東洋水産の株を売り渋るようになってしまった。
それでも、東洋水産の森和夫は、第一物産(三井物産)との折衝を続け、第一物産から東洋水産の株を買い取っていき、最終的に第一物産の持ち株比率は70%から20%に低下し、東洋水産は昭和38年(1963年)2月に第一物産から独立を果たした。
その後の増資で第一物産(三井物産)の持ち株比率は下がるが、今でも三井物産が東洋水産の株を持っているのは、この時の名残である。
ところで、東洋水産は、「マルちゃん・ハイラーメン」と「マルちゃん・たぬきそば」で「マルちゃん」ブランドを確立したが、「マルちゃん」ブランドを使用していたのは即席麺だけで、ハムやソーセージといった主力商品は第一物産(三井物産)の「こけし印」ブランドで販売していた。
このため、営業から、第一物産(三井物産)の下請けのようだという不満が出ていた。
そこで、東洋水産の森和夫は、第一物産(三井物産)に「こけし印」から「マルちゃん」へ切り替えたいと相談したが、第一物産は「こけし印を外して売れるのか?」と呆れた。
第一物産はハム・ソーセージが売れているのは第一物産というブランドが有るからだと言ってブランドの切り替えに反対したが、品質に絶大なる自信を持つ森和夫は商品が売れる理由は品質や味だと言い、ブランドの切り替えを主張した。
このブランド切り替え問題も長引くと思われたが、第一物産(三井物産)は一転して、ハム・ソーセージで苦戦していた曙漁業に「こけし印」を与えると言い、東洋水産のブランド切り替えを認めた。
こうして東洋水産は名実ともに第一物産(三井物産)からの独立を果たすと、東洋水産の営業は張り切り、「マルちゃん」のハム・ソーセージは大いに売り上げを伸ばした。対する「こけし印」は消滅していった。
ところで、東洋水産が第一物産と抗争してる最中の昭和36年(1961年)に、母親代わりになっていた2番目の姉・森ちかが死去しており、森和夫は心配してくれていた姉・森ちかの墓に東洋水産の独立を報告したという。
昭和39年(1964年)の東京オリンピックが終わると、日本は「昭和40年不況」を迎え、山崎豊子の小説「華麗なる一族」のモデルとなる山陽特殊鉄鋼が倒産し、山一証券が日銀から特別融資を受けるという事態に陥っていた。
しかし、東洋水産は不況の中でも業績を伸ばしており、昭和40年(1965年)2月に芝浦海苔組合が所有していた天王洲の土地2000坪を取得し、昭和41年(1966年)7月に大型冷蔵庫を完成させた。
そのようなか、従兄弟・鈴木治之助の知らせにより、長兄・森重衛が継いだ実家の田子製氷が散漫経営で倒産寸前であることが判明する。
森和夫は過去に見合いを破談にしたことから、長兄・森重衛とは絶縁関係にあったが、長兄・森重衛は田子製氷を潰すことを忍びなく思い、従兄弟・鈴木治之助を通じて森和夫に助けを求めたのである。
森和夫は長兄・森重衛に会って経営内容を聞くと、田子製氷の株式の55%を取得して東洋水産の傘下に収め、製氷・冷凍・冷蔵事業に加えて冷凍食品事業を開始して、翌年には田子製氷を黒字化させた。
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東洋水産は「マルちゃん」ブランドで快進撃を続け、日清食品・明星食品・サンヨー食品・エースコックに次ぎ、インスタントラーメン業界で第5位となり、魚肉ソーセージ・ハム業界でも、大洋漁業・日本水産に次ぐ業界3位に位置していた。
そして、東洋水産は昭和45年(1970年)9月に東証2部に上場を果たし、昭和48年(1973年)8月に東証1部に上場を果たした。
しかし、東証1部上場の直後にオイルショックが発生して次々に物資が高騰したうえ、魚肉ソーセージなどに使用していた食品添加物「フリルフラマイド(AF2)」が使用禁止となってしまう。
東洋水産は回収費用などが嵩み、主力の即席ラーメンとハム・ソーセージで大打撃を受けたが、なんとか苦境を乗り越えた。
そのようななか、東洋水産の社員が、「きつねうどん」をカップラーメンにするアイデアを提案する。
既に発売していたカップ入りの「天そば」が売れていたこともあり、2匹目のドジョウを狙い、きつねうどんのカップラーメン化が決まった。
こうして、昭和50年(1975年)9月に日本初の「カップうどん」となる「マルちゃん・カップきつねうどん」を発売し、さらに「マルちゃん・カップ天ぷらそば」を発売した。
「マルちゃん・カップきつねうどん」は、東洋水産の創業以来の大ヒットとなり、全国的な和風ブームを起こした。日清食品のお膝元・大阪でも飛ぶように売れ、九州でも売れて西日本でも大きくシェアを伸ばした。
「マルちゃん・カップきつねうどん」の大ヒットにより、愛知県の豊醤油の経営再建も引き受け、見事に豊醤油を再建することが出来た。
しかし、各社が和風ブームに便乗して類似商品を販売。日清食品も昭和51年(1976年)8月に「日清のどん兵衛・きつね」、昭和51年11月に「日清のどん兵衛・天そば」を発売し、テレビCMを流してゴリ押ししてきた。
その結果、東洋水産は「マルちゃん・カップきつねうどん」のシェアを奪われ、昭和52年度は減収減益という結果に終わった。
森和夫は周囲の人間から、特許を取得した方が良いと言われていたのだが、特許を取得しなかったので、日清食品にクレームを付けることが出来ず、このときばかりは悔しい思いをした。
そこで、東洋水産の森和夫は、CMの制作会社を変更し、新CMで盛り返す作戦に出た。
このとき、広告代理店がCMに出演するタレントとして、武田鉄矢と榊原郁恵の2人を候補に挙げた。
武田鉄矢は音楽グループ「海援隊」としてデビューし、当初は紅白歌合戦にも出場するほどの人気だったが、その後は人気が低迷。しかし、昭和52年の映画「幸福の黄色いハンカチ」に主演して再び注目を集めていた。
ただ、武田鉄矢は大日本除虫菊の殺虫剤「コックローチS」のCMに出演してゴキブリのかぶり物をしていたため、「ゴキブリの人」というイメージがあったうえ、長髪だったので、東洋水産の社内では食べ物のCMに武田鉄矢は適さないという反対意見が出ていた。
東洋水産の森和夫は武田鉄矢のことを知らなかったが、広告代理店の推薦もあって、最終的に武田鉄矢の起用が決まった。
さて、当初は「マルちゃんの熱いきつね」というキャッチコピーを考えていたが、日清食品がテレビCMで「熱いうどん」というキャッチフレーズを使っていた。
日清食品の安藤百福は類似品に厳しく対応していたため、「マルちゃんの熱いきつね」では日清食品からのクレームが来るかもしれないということで、キャッチコピーを変更することになった。
そこで、「マルちゃんの熱いきつね」を発展させ、「マルちゃんの赤いきつね」というキャッチコピーが生まれた。
また、キャッチコピーの変更に前後して、陳列したときに赤なら目立つということで、容器のパッケージも赤へと変更された。
こうして、昭和53年(1978年)の秋から武田鉄矢を起用したテレビCMを開始すると、「マルちゃん・カップきつねうどん」はテレビCMの影響もあり、シェアを回復した。
そして、昭和55年(1980年)には「マルちゃん緑のたぬき天そば」も発売された。
このテレビCMで武田鉄矢も大きく注目を詰め、昭和54年(1979年)から武田鉄矢の代表作となるTBSのドラマ「3年B組金八先生」が始まるのだった。武田鉄矢は後々まで、東洋水産のCMのおかげでマンションに住めるようになったと感謝したという。
日清食品は昭和45年(1970年)8月にカップラーメンの包装に関する実用新案を取得しており、東洋水産など各社は日清食品に実用新案使用料を払っていた。
しかし、日清食品の容器を手がけていた東京の容器メーカー「ニホン工缶」が日清食品の実用新案に対して異議申し立てを行い、特許庁は「発明性が認められない」として、日清食品の実用新案を無効とする審決を下した。
日清食品はこの審決を不服として裁判を起こしたが、東京高裁は日清食品の訴えを棄却した。日清食品は上告したが、最高裁判所も昭和55年(1980年)1月に日清食品の訴えを棄却した。
東洋水産は、昭和48年から昭和51年までの間、日清食品に実用新案使用料として計6800万円を支払っており、エビス産業も4500万円の実用新案使用料を払っていた。
そこで、東洋水産とエビス産業は、最高裁判所が日清食品の訴えを棄却したことを受けて、日清食品を相手取り、実用新案使用料の返還を求める訴訟を起こしたのでる。
しかし、日清食品との契約書に「いかなる場合も返還しない」という趣旨の文言が入っていたため、東洋水産は日清食品に負けてしまった。
既に即席麺の輸出は始まっており、東洋水産は昭和47年(1972年)に即席麺の輸出を本格化させ、昭和47年12月にアメリカに現地法人「マルチャンINC(インク)」を設立した。
そして、現地生産を始めるため、昭和48年(1973年)8月にアメリカのロサンゼルス郊外にあるアーバインで7000坪の工場建設予定地を購入した。
東洋水産は昭和48年8月に東証1部に上場を果たしており、森和夫は工場建設のタイミングを計っていたが、東証1部上場直後に東洋水産はオイルショックと食品添加物「フリルフラマイド(AF2)」問題に見舞われて経営が悪化してしまい、アメリカ進出は頓挫しようとしていた。
しかし、「マルちゃん・カップきつねうどん」が大ヒットにより、東洋水産は業績を回復したので、昭和50年(1975年)11月にアーバイン工場の建設が正式決定し、昭和51年(1976年)4月に工場の建設が開始された。
ところが、この直後、大きな問題が発生する。日本経済新聞が、日清食品がアメリカでカップラーメンの特許を取得したと報じたのである。
日清食品は一足先にアメリカへ進出しており、アメリカに現地法人「ニッシンフーズ」を設立し、アメリカで即席麺を製造していた。
(注釈:日清食品のアメリカ子会社「ニッシンフーズ」は、日本の「日清フーズ」とは関係無い。「日清フーズ」は日清製粉グループである。「日清フーズ」との混乱を避けるためか、「ニッシンフーズ」は「米国日清」「アメリカ日清」と呼ばれることが多い。)
日清食品の安藤百福(呉百福)は特許侵害には厳しく、日本で数々の訴訟を起こしていたので、東洋水産の森和夫は、日清食品から訴えられる前に先手を打ち、日清食品の特許無効と、特許を侵害していないことの確認を求めてアメリカ連邦地裁に提訴した。
これにより、東洋水産が日清食品の第1特許を侵害していないことが確認されたが、日清食品の安藤百福は「マルチャンINC」が第2特許を侵害しているとして提訴した。
さらに、日清食品の安藤百福は、東洋水産が日清食品のアメリカ法人「ニッシンフーズ」から社員を引き抜いて企業秘密を盗んだとして提訴したため、東洋水産と日清食品はアメリカで泥沼の裁判へともつれ込んだのである。
その一方で、日清食品から和解の話が持ちかけられ、和解の話し合いが行われており、日清食品が東洋水産に「あいさつ料」として1億円要求していた。
東洋水産の幹部の話によると、法廷での決着を望んでいた東洋水産が「あいさつ料なんて聞いたことが無い。全て公表する」と言ったため、日清食品は一転して和解が成立した。こうして、アメリカでの特許紛争は実質的な東洋水産の勝利に終わったという。
日清食品の安藤百福は、インスタントラーメンに関して数々の訴訟を起こしており、多くの企業が弱腰になるなか、東洋水産の森和夫は一歩も引かずに安藤百福を退けており、日清食品の安藤百福の唯一の天敵とされるようになった。
日清食品の安藤百福と訴訟経験のある明星食品の八原昌元も、東洋水産の森和夫を「森さんは食品業界では珍しく気骨のある人」と高く評価している。
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東洋水産の森和夫は、苦労してアメリカで起きた日清食品との特許紛争に勝ったものの、アメリカ法人「マルチャンINC(インク)」は、債務超過に陥っていた。
森和夫は商社から紹介して貰ったアメリカ人にマルチャンINCの経営を任せていたのだが、このアメリカ人が散漫経営をしていたので、マルチャンINCは赤字に陥っていた。
そのアメリカ人をクビにしてマルチャンINCの経営陣を入れ替えたのだが、そのときの散漫経営が尾を引いており、マルチャンINCは赤字経営を続け、債務超過に陥っていたのである。
流石の森和夫も弱気になり、マルチャンINCの撤退を考え、アメリカのキャンベル・スープ社に身売りしようとしたが、売却には至らなかった。
そして、公認会計士や周囲の助言もあったので、「マルチャンINC」の撤退を考えなおし、森和夫は自らアメリカに乗り込んで「マルチャンINC」の立て直しに動こうとしていた。
その矢先、森和夫は、昭和55年(1980年)3月14日の昼に、会社の食堂で食事をしていた時に軽い脳梗塞で倒れて入院を余儀なくされてしまう。
幸い、3週間の入院で退院することができ、森和夫は東洋水産に復帰したが、自分でアメリカへ行くのは難しいため、腹心の深川清司をアメリカへ派遣し、深川清司が昭和56年(1981年)1月からマルチャンINCの経営に当たった。
深川清司はアメリカで苦労するが、現地社員を励ましながら、他社が進出していない、アメリカ中西部や南部へと進出。ウォールマートやコストコなどの新興勢力に販路を広めて、マルチャンINCは黒字転換し、昭和57年(1982年)には好決算を記録した。
こうして赤字を脱したマルチャンINCは、その後も好調を維持し、昭和59年(1984年()のロサンゼルスオリンピックでは、オリンピックのシンボルマークを使用できるオフィシャル・サプライヤーに選ばれた。
マルチャンはアメリカで人気ブランドとなり、昭和61年(1986年)には累積赤字を一掃した。さらに、南米にも進出し、マルチャンはメキシコでシェア8割から9割という国民的ブラントになり、メキシコでは「マルチャン」という言葉が「知らない間に出来ていた」「早い」などの意味で日常会話にも使われるようになった。
東洋水産は「横須賀冷蔵庫」から独立して、「横須賀水産」として創業し、冷凍マグロの輸出を手がけていたが、ハムやソーセージなど生産を開始して食品加工へと進出したのを機に、「東洋水産」という社名へと変更していた。
その後、東洋水産は即席麺へ参入するのだが、ハムやソーセージの閑散期となる冬場の工場の有効活用する副業として、即席麺を始めたに過ぎない。
しかし、今や、副業だったインスタントラーメンが売り上げの半分を占めるるようになっており、ブランド名の「マルちゃん」は知っていても、「東洋水産」という社名を知らない人も多く、社長の森和夫は歯がゆい思いをしていた。
そこで、森和夫は「東洋水産」という社名の変更しようとしたのだが、社名変更への反対の声は根強く、実現しなかった。
日清食品が縦型カップラーメン「カップヌードル」を販売したのは昭和46年(1971年)9月のことで、20年後の平成3年(1991年)に縦型カップラーメンの特許が切れた。
そこで、東洋水産は平成3年(1991年)に縦型カップラーメン「アベレージ・ヌードル」を発売して、縦型カップラーメンに参入した。
アベレージ・ヌードルは全く売れなかったが、翌年の平成4年(1992年)に発売した縦型カップラーメン「ホット・ヌードル」がジワジワと売れ行きを伸ばした。
そのうようななか、東洋水産は平成6年(1994年)6月20日に新商品「マルちゃん・ホット・ヌードル・シーフード・北海道チャウダー」を発売することになる。
しかし、シーフードヌードルを発売していた日清食品が「マルちゃん・ホット・ヌードル・シーフード・北海道チャウダー」の発売を察知して、デザインが類似しているとして発売を停止を求めてきた。
しかし、東洋水産が日清食品の要請に応じなかったため、日清食品は不正競争防止法と商標法に違反しているとして、製造販売の差し止めを求め、平成6年(1994年)6月14日に大阪地裁に提訴したのである。
これにし対して東洋水産は、真っ向から対立し、「マルちゃん・ホット・ヌードル・シーフード・北海道チャウダー」を販売して、平成6年(1994年)10月に日清食品に販売差し止めの権利が無いことの確認を求めて提訴した。
東洋水産は日清食品に対して一歩も引かないうえ、日清食品が東洋水産を提訴する直前に、不正競争防止法が改正されたこともあり、この裁判は改正後初の訴訟として世間の注目を集めたが、結局、和解に終わった。
しかし、東洋水産と日清食品の対立は場外にまでおよび、和泉清が安藤百福の伝記小説「食文化を変えた男-安藤百福」を発売すると、東洋水産の森和夫は平成8年(1996年)に、和泉清の伝記小説「食文化を変えた男-安藤百福」の内容に事実と異なる部分があるとして、作者の和泉清を提訴した。
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さて、東洋水産の森和夫は、ノモンハン事件の生き残りを自負しており、昭和55年(1980年)3月に脳梗塞で倒れるで、後継者のことなど考えたことも無かった。
そこで、森和夫は、脳梗塞で倒れたことを切っ掛けに、後継者のことを考えるようなり、遺言書を制作するようになった。1年も経てば考えが変わるので、毎年、正月ごろに新しい遺言書を作成して、古い遺書は捨てるのだという。
そして、日清食品の安藤百福やサンヨー食品の井田毅のように、自分の子供を後継者する経営者が多いなか、森和夫は「会社は公器」と公言し、子供を後継者には指名せず、平成7年(1995年)5月に三井物産出身の橋本晃明に社長を譲り、会長へと退いた。
そして、森和夫は、深川清司のことが嫌いだったが、公私は混同せず、自分の後継者に深川清司を指名し、平成11年(1999年)3月に深川清司に会長を譲り、相談役へと退いた。
森和夫は相談役を退いた後も東洋水産に顔を出していたが、平成23年(2011年)平成23年7月14日に肺炎で死去した。
森和夫は、東洋水産を東証一部上場企業へと育て上げ、即席麺業界で第2位、アメリカ子会社の「マルチャンINC(インク)」をアメリカで業界1位へと成長させた。
普通なら20億円以上の退職金を受け取れる計算になるが、森和夫は退職金が高いとクレームを付けた。
しかし、創業者で社長の森和夫が退職金を減額しすぎては、他の重役が退職金を受け取りにくくなるため、担当者が相談に来ると、森和夫は指を3本出し、3億円しか退職金を受け取らなかった。
森和夫は会社として接待を禁止していたので、一般的な会社の社長が交際費で落とすような経費も自費で出しており、仮払金が1億円ほどあったらいく、退職金を貰った森和夫は「これで精算できる」と喜んでいたという。
森和夫は勲章拒否の人として有名で、「ロシアの物は赤が多くワッペン(勲章)としては最高だ」と言い、シアトルへ行くたびに、旧ソ連軍の勲章を購入して警備員などにプレゼントしたが、自身は戦後の勲章の受け取りを拒否した。
ときどき、森和夫が勲章拒否の人で、1つも勲章を持っていないように紹介されることがあるが、軍隊時代に勲章を貰っており、勲章を貰ってありがたいと思っている(ただし、軍隊時代に貰った勲章は行方不明となった)。
森和夫が受け取りを拒否したのは戦後の勲章で、戦後の勲章はどれほど高級でも、ありがたいと思わなかった。
ただし、森和夫は、戦後の勲章自体を否定しているわけではなく、勲章を貰って感謝する人を否定せず、勲章を貰って感謝する人とは供に喜びを分かち合っている。
森和夫が賛成できないのは、勲章を貰うと、忙しい時期にもかかわらず、一流ホテルの大広間を借り切り、会社の金を使って祝賀パーティーを開催することだという。
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