松方真の立志伝

日本の既製服業界にアメリカ式のサイズを導入して革命を起こした松方真(まつかた・まこと)の立志伝です。

松方真の立志伝

松方真は、アメリカで、松方正熊と松方ミヨ(新井ミヨ)の息子として生まれた。

父方の祖父・松方正義(まさよし)は、明治時代に内閣総理大臣を2度務めたほか、大蔵大臣などを務めた政府要人である。

一方、母方の祖父・新井領一郎は、日本人の事業家として始めてアメリカ東部に住み、日本で初の生糸の直輸入を行い、財を成した実業家である。

さらに、松方真の姉・松方春子(ハル・ライシャワー)は、駐日アメリカ大使エドウィン・オールドファザー・ライシャワーの妻であり、松方家は華麗なる一族である。

さて、松方真は、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、戦後、GHQの通訳として来日し、民政局などで務めた後に退官した。

松方真は、アメリカで既製服について学んでいたので、その経歴を買われ、退官後はアメリカのインペリアル・ハウス社の日本工場の責任者となり、日本に残った。

さて、昭和31年(1956年)の経済白書は「もはや戦後ではない」と結び、名実ともに日本は新たな時代を迎えた。

レナウン商事(現在のレナウン)の社長・尾上清は、戦後いち早く洋服時代の到来を予見し、ファッションデザイナー伊藤すま子(後の皇室デザイナー)の指導の元で昭和31年(1956年)に既製服の研究を開始した。

さらに、レナウン商事の尾上清は、時期は不明ながら、インペリアル・ハウス社の日本工場に在籍していた松方真を迎え入れた。

一方、婦人服で業界トップを走っていた百貨店「伊勢丹」も、既製服に注目し、昭和31年(1956年)に衣装研究室を発足させた。

こうしてファッション業界は既製服時代へ足を踏み入れたが、当時の婦人服は「S」「M」「L」と大ざっぱなサイズしか展開していないうえ、各社が独自にサイズを設定していたため、既製服は普及しなかった。

そのようななか、松方真がインペリアル・ハウス社の日本工場で製造していたドレスが伊勢丹で販売される。

このドレスは「5」「7」「9」「11」というアメリカ式のサイズで作られており、松方真によってアメリカ式のサイズが日本にもたらされた。

アメリカ式のサイズに衝撃を受けた伊勢丹の衣装研究室は、各種のデーターを集め、日本人の標準体型を調査し、昭和33年(1958年)の暮れに「100万人の既製服」として発表した。

当時、日本の洋服はフランス式だったが、松方真は昭和36年(1961年)に伊勢丹に招かれて、伊勢丹の衣装研究室に在籍すると、アメリカ式のサイズを採用する事を提唱した。

これを受けた伊勢丹は、日本人の標準体型を基に「5号」「7号」「9号」「11号」「13号」「15号」というアメリカ式を採用したサイズを制定した。

さらに、松方真は各社で規格を統一しなければ既製服は普及しないと考え、百貨店やアパレルメーカーに規格の統一を呼びかけた。

こうして、伊勢丹・高島屋・西武百貨店・レナウン商事・オンワード樫山・山陽商事など各社が協賛し、昭和38年(1963年)11月に「5号」「7号」「9号」「11号」「13号」「15号」という婦人服サイズの統一規格と、各サイズに異なる色のタグを付けて販売する事が発表された。

さらに、伊勢丹は紳士服でも統一規格にも奔走し、昭和40年(1965年)8年には紳士服の統一規格も制定された。

この時に制定された統一規格は、JIS規格に引き継がれ、JIS規格の基礎となった。

こうして、松方真によってアメリカ式のサイズが日本で導入され、日本のファッション業界で大きな革命が起り、本格的な既製服時代が到来し、服は作る時代から買う時代へと変化していったのである。

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ファミリアの量産システムを開発

昭和39年(1964年)、松方真は東京のホテルで、子供服ブランド「ファミリア」の創業者・坂野惇子と偶然に会った。

このとき、松方真はレナウンを辞めて時間があったので、坂野惇子から「ファミリアも見て欲しい」と頼まれ、昭和39年(1964年)6月から1ヶ月間の予定でファミリアに在籍した。

このとき、ファミリアに対する需要は増加の一途をたどっていたが、ファミリアは手間暇を掛けて3年は着られる良質な子供服を作っていたため、生産が追いつかず、常に商品不足の状態だった。

また、大量生産・大量消費時代を迎え、ファミリアに対しても、服は1年も着られれば良いというニーズが大きくなっていた。

ファミリアを訪れた松方真は、ファミリアに興味を持ち、3ヶ月ほど在籍し、ファミリアにアメリカ式の生産方法を導入した。

しかし、ファミリアの創業メンバーで生産責任者の田村光子は、「画一的で潤いの無い商品になってしまう」と言い、アメリカ式の生産方法を良しとしなかった。

アメリカ式の生産方法は、売れる価格帯を算出し、そこから原価を割り出し、原価に沿ったデザインを起こし、服を作っていく。

しかし、ファミリアは納得のいく商品を作り、かかった原価から販売価格を設定しており、アメリカ式とは対極的だった。

松家真は田村光子の要請で、ファミリアの良さを生かしつつ量産化する生産システムの開発に取り組み、最終的にファミリアに1年間も在籍し、生産ラインを研究した。

こうして、松家真の尽力により、ファミリアに、時代のニーズに合わせた「プロパーソン部門」と標準の「オリジナル部門」が誕生した。

そして、量産化に成功したファミリアは、昭和42年(1967年)から順次、直営店を出店し、店舗を拡大していったのである。

さて、その後の詳しい動向は分からないが、松家真は昭和45年(1970年)に旅行先のタブリンで急死した。享年49だった。

なお、ファミリアは、従来の生産方法を望む声も根強いことから、昭和46年(1971年)に従来の生産方法を復活させた「ブテック部門」を設置した。

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