松島寛治が満州へ行くモデルは藤山寛美の実話

NHKの朝ドラ「おちょやん」の松島寛治(まつしま・かんじ)が満州へ行くことになったので、その実話を紹介する。

松島寛治が満州へ行く実話

松島寛治のモデル藤山寛美は、父・藤山秋美は新派「成美団」の二枚目俳優だったが、巡業先の名古屋で結核で倒れ、藤山寛美が幼いときに死去した。

花柳章太郎が、子供が5人も居るのだから、1人くらいは役者にした方が死んだ藤山秋美も喜ぶのではないかというので、末っ子の藤山寛美に白羽の矢が立ち、藤山寛美は5歳の時に初舞台を踏んで役者の世界に入った。

そして、藤山寛美が昭和16年(1941年)に子役の助っ人として松竹家庭劇に出演したとき、2代目・渋谷天外から「おまえはどう見ても新派向きの顔やない。このまま新派にいても『婦系図』の主税の役はっとまらんやろ」と誘われ、松竹家庭劇に入った。

やがて、戦争が激しくなってくると、同い年の子供達が海軍飛行予科練習生や陸軍少年航空兵に志願しているのに、藤山寛美は白粉をぬって芝居を続けていたので、自分は非国民なのではないかと思うようになる。

そのようななか、藤山寛美は満州の皇軍慰問隊に誘われると、給料が20円多いこともあり、渡りに船と考え、満州の皇軍慰問隊に参加を決めた。

そこで、2代目・渋谷天外に許可を求めるのだが、給料が20円多いと言う理由では、2代目・渋谷天外に怒られる事は目に見えているので、「いまが大事な時だから勉強に専念したい。学校へ行きたい」と嘘を付いた。

すると、2代目・渋谷天外とその妻・浪花千栄子は話しを良く聞いてくれ、「戦争が終わったら、きっと帰ってくるんだぞ」と言い、松竹家庭劇の退団を許してくれた。

昭和20年3月13日に大阪が空襲を受け、道頓堀は焼け野原となると、藤山寛美は大阪に中途半端な
子役は必要ないと思い、3月17日に満州へと旅立った。

このように、松島寛治が満州慰問団に参加する経緯は、藤山寛美の実話をモデルとしているのである。

なお、藤山寛美の生涯については「藤山寛美の立志伝」で紹介しています。

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