ヒロポンに溺れて死んだ悲劇の天才漫才師「ミス・ワカナ」と相方・玉松一郎の生涯を描く立志伝です。
ミスワカナ(川本杉子/川本キクノ)は、明治44年(1911年)に鳥取県で生まれた。
ミスワカナは、幼少期より父親と巡業に出ていたが、4歳の時に父親が死去した。10歳の時に京都に嫁いだ姉の家に居候する一方で、安来節の山村出雲に12歳まで師事した。
その後、ミスワカナは東京に出て、「酸月桜とり三」とコンビを組んで活動していたが、関東大震災に遭い、京都へと逃げ帰り、14歳の時に漫才師・河内家芳春(荒川芳春)に入門して「小芳」を名乗り、漫才を始めた。
このころ、「漫才」は「万歳」「萬歳」と書いており、歌や踊りや楽器の間に喋りが入るというスタイルが一般的で、「万歳」のメーンは歌や踊りや楽器だった。
現在のような喋りだけで構成される「漫才」が確立するのは、昭和5年(1930年)に「エンタツ・アチャコ」が登場してからである。
さて、万歳の道に進んだミスワカナは、師匠の斡旋により、平成ニコニコと万歳コンビを結成し、「大八会」の寄席に出演していた。
既にこの頃から、ミスワカナは1人で喋りまくるという女性上位方の漫才を確立しており、相方の平成ニコニコは横に立って抵当に相づちを打つだけでよかったという。
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さて、漫才の発掘に力を入れていた吉本興行部(吉本興業)の林正之助は、ミスワカナの漫才を見て、体に衝撃が走り、ミスワカナを吉本興行部(吉本興業)にスカウトした。
しかし、林正之助はそれなりに給料を与えていたのに、自由奔放なミスワカナは着物を二反も三反も買って金を払わないという始末だった。
このため、林正之助が「お前みたいなもんは、辞めさらせ」と激怒し、ミスワカナは吉本興行部(吉本興業)を飛び出して、広島の清水興行に入った。
その後、林正之助が大阪に戻ってきたミスワカナを見ると、ミスワカナは格段に漫才良くなっていたので、林正之助は再びミスワカナを吉本興行部(吉本興業)に呼び戻し、「郡家若菜」という芸名に改めさせ、新天地の寄席にあげた。
このとき、ミスワカナは、楽天地で無声映画の伴奏(楽士/バンドマン)をしていた玉松一郎(河内山一二)と出会い、大恋愛に陥った。
玉松一郎は、大阪府大阪市淡路町の出身で、大阪貿易語学院を卒業したインテリである。明治39年(1906年)生まれなので、ミスワカナよりも4歳年下である。
玉松一郎というのは後に付ける芸名で、この時は本名の「河内山一二」を名乗り、音楽家を目指して楽天地で無声映画の伴奏をしていた。
やがて、2人の熱愛を知った師匠・河内家芳春(荒川芳春)が激怒してミスワカナを破門したので、ミスワカナは師匠・河内家芳春(荒川芳春)の元を飛び出して、玉松一郎の2軒隣の部屋に下宿した。
ミスワカナは、読み書きが出来ないと言われているが、この時にラブレターを書いたという逸話も残っているので、平仮名程度は書けたのではないかという説もある。
さて、この恋愛が玉松一郎は両親の知るところとなった。
当時の漫才は乞食、同様の扱いを受けていたので、玉松一郎は両親に交際を許されず、無声映画の伴奏の仕事も辞めさせられてしまった。
一方、ミスワカナも、両親が決めた許嫁が居たので、鳥取に居る許嫁の元へ強制送還させられ、許嫁と結婚して1女・三崎希於子を儲けた。
しかし、芸界を諦められないミスワカナは、3年後に故郷を逃げ出して再び大阪へと舞い戻り、玉造の三光館に出演していた。
ある日、玉造の三光館に出演していたミスワカナは、三光館の近くにある朝日座の前で、朝日座から出て来た玉松一郎と運命的に再会する。
このとき、玉松一郎は朝日座で伴奏の仕事をしており、普段は表門から出入りしないのだが、タバコが切れたため、表のタバコ屋に行くところだった。
玉松一郎は、何度も三光館の前を通っていたのだが、この頃は、寄席に出演する芸人の名前を貼りだしていなかったので、ミスワカナが出演していることなど、全く知らなかったのである。
こうして、運命的な再会を果たしたミスワカナは、玉松一郎に抱きついて大声を上げて泣いて再会を喜び、その日の夜に玉松一郎と一緒に駆け落ち同然で汽車に飛び乗り、広島へと向かった。
そして、広島へ向かう汽車のなかで、漫才で生活していくことを決め、ミスワカナが玉松一郎を説得して漫才コンビた誕生した。
再会した「玉造」の「玉」と、玉松一郎が住んでいた「松ヶ枝町」の「松」を取って、「玉松」として、「玉松若菜・玉松一郎」を名乗った。
広島に着くと、ミスワカナが主導し、玉松一郎がセロを弾いて受け答えするだけの、女性上位の漫才でデビューした。
何の芸も無いのに、一夜にして漫才師にされてしまった玉松一郎は、曲芸などの手伝いもして生活費を稼いだ。
その後、2人は巡業隊を転々としながら、西へと流れていき、九州から中国の青島へと渡った。
こうして2人は中国の青島へと渡ったが、玉松一郎は中国の青島で肝臓の病気にかかってしまい、働けなくなってしまう。
このため、ミスワカナは、青島で英語や中国語やダンスを覚え、怪しげな店でダンサーをしながら生計を立てた。
さて、ミスワカナと玉松一郎は、中国人の2階に居候していたのだが、ミスワカナは帰りが遅いので、帰ってくると既に中国人は寝ており、ドアを開けてくれなかった。
このため、ミスワカナは、寝たきりになっている玉松一郎の足首にロープを結んでおき、そのロープを窓から地面へ垂らしていた。
帰宅したミスワカナがロープを引っ張ると、玉松一郎がヨロヨロと起き上がり、玄関のドアを開けるのである。
やがて、玉松一郎は、異国の地でミスワカナに迷惑を掛けることを苦にして、首つり自殺をしようとしたが、ちょうと帰宅したミスワカナに見つかり、未遂に終わってしまう。
ミスワカナは玉松一郎をビンタして目を覚まさせると、ついに帰国する事を決意したのである。
こうして、九州に帰国したミスワカナと玉松一郎が漫才をやりながら、広島の清水興行に所属して全国巡業をしているときに、吉本興業の林正之助に招かれ、昭和12年(1937年)3月に再び吉本興業に入り、「ミスワカナ・玉松一郎」と改称した。
なお、この「ミス」は、女性に対する敬称「ミス」「ミセス」の「ミス」ではなく、ミステイクの「ミス」だという。
ミスワカナは昭和12年(1937年)3月に吉本興業へ入社し、3度目の吉本興業となるが、ミスワカナが不在の間に大阪の漫才はスッカリと変わっていた。
吉本興業の林正之助が漫才を発掘して育てていたので、吉本興業には約100組の漫才コンビが所属して、しのぎを削っており、喋くり漫才が定着していた。
ミスワカナは、地方巡業をしていたので、田舎の泥臭い漫才が染みついていたが、感性が鋭いので、たちまち、泥を吐き出して、大阪独特の喋くり漫才の要領を得ていく。
そして、ミスワカナは、女性漫才しては初の洋服を取り入れてウクレレを持ち、女性の視点から捉えた家庭ネタを披露した。玉松一郎も漫才師として初めてアコーディオンを取り入れており、喋くり漫才とは違った華やかさがあった。
こうして、「ミスワカナ・玉松一郎」は、吉本興業でも台頭し、吉本興業のトップ5に食い込むようになっていく。
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ミスワカナが吉本興業に入社した4ヶ月後の昭和12年(1937年)7月に日中戦争が勃発した。
すると、吉本興業の林正之助は、朝日新聞に戦地慰問団の派遣を打診した。
実は、林正之助は昭和6年(1931年)に朝日新聞の協賛で戦地慰問団を派遣しており、この戦地慰問団が切っ掛けで、三流扱いされていた漫才の格が上がり、「エンタツ・アチャコ」が人気漫才師へと躍進していた。
戦地慰問団は、朝日新聞が連日、現地の様子を報道してくれたので、相当な宣伝効果があったのだ。
ミスワカナは吉本興業で急成長していたが、旅巡業をしていたせいか、今ひとつ垢抜けないところがあった。
そこで、林正之助は寵愛するミスワカナを売り出すために、再び戦地慰問団を派遣しようと考えたのである。
こうして、吉本興業と朝日新聞は、昭和13年(1938年)1月に爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」を結成して派遣した。
この「わらわし隊」は、朝日新聞の主宰で、吉本興業は朝日新聞に芸人を貸すという形になっていた。
爆笑慰問突撃隊「わらわし隊」は、落語家の柳家金語楼を団長に、「北支那慰問班」と「中支那慰問班」に別れた。
北支那慰問班のメンバーは「柳家金語楼」「花菱アチャコ・千歳家今男」「柳家三亀松」「京山若丸」である。
一方、中支那慰問班は「石田一松」「横山エンタツ・杉浦エノスケ」「神田盧山」「ミスワカナ・玉松一郎」である。
新参者の「ミスワカナ・玉松一郎」が「わらわし隊」に抜擢されたため、「林田十郎・芦乃家雁玉」の芦乃家雁玉が漫才師を代表して抗議したが、吉本興業から「これからは上から1組、若手から1組、そういう編成でどんどん慰問をやる方針だ」と言われて引き下がった。
さて、第1回「わらわし隊」が派遣されるころ、一説によると、昭和12年12月から昭和13年2月ごろまでの間、中国の南京では、日本軍による南京大虐殺が行われていたとされている。
そのようななか、ミスワカナの居る「わらわし隊」の中支那慰問班は、昭和13年1月23日から27日まで南京に滞在し、国民大会堂や病院で漫才を行い、日本兵を爆笑の渦に包んだ。
特にミスワカナは紅一点ということもあり、絶大なる人気で、行く先々で日本兵に取り囲まれてサインを求められた。
朝鮮戦争の時にマリリン・モンローが米軍を慰問して絶大なる人気を集めたが、ミスワカナの人気はマリリン・モンロー以上だったという。
「ミスワカナ・玉松一郎」は、笑わせるだけではなく、「泣かせる漫才」をやり、慰問先でも帰国後の報告会でも絶大なる人気を得て、「喋くり漫才」の創始者「エンタツ・アチャコ」の全盛期を越える人気を誇り、吉本興業でナンバー1の漫才コンビへと成長した。
なお、ミスワカナによると、笑わせるのは難しいが、泣かせるのは簡単だったという。
その後、第1回「わらわし隊」が好評だったので、昭和13年(1938年)11月に第2回「わらわし隊」が発足し、中国へと慰問に向かった。
「ミスワカナ・玉松一郎」も第2回「わらわし隊」に参加して、中国へと渡っている。
そして、第2回「わらわし隊」の帰りを待たずして、第3回「わらわし隊」が昭和13年12月に発足し、中国南部へ向けて出発した。
この第3回「わらわし隊」が帰国した後、演芸界を揺るがす「新興キネマの引き抜き事件」が起きる。
昭和14年(1939年)に映画法が制定され、映画の輸入や上映時間が制限された。このため、映画業界は、映画館で出す演芸やアトラクションが重要になってきた。
そのようななか、吉本興業の林正之助が、東宝の小林一三から要請を受け、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場の取締役に就任した。
すると、演芸部門の貧弱な松竹は、これに危機感を覚え、昭和14年(1939年)3月、松竹系の新興キネマに「演芸部」を設立し、莫大な資金力を背景に、吉本興業の看板芸人を引き抜きにかかったのである。
「ミスワカナ・玉松一郎」は、全盛期の「エンタツ・アチャコ」を越える人気で、ラジオや舞台やレコードに大忙しだったが、吉本興業の給料はわずかに230円だった。
しかも、ミスワカナは、新参者だったので、古株から小娘扱いされており、楽屋での風当たりが強かった。
吉本興業の社員も、ミスワカナをプイッと居なくなる小娘扱いをしていたので、気の強いミスワカナは「今にきっと幹部社員に楽屋草履を揃えさせてやる」と激怒していた。
そこへ、新興キネマ演芸部が、「ミスワカナ・玉松一郎」に給料2000円の他に3年間の契約金7000円を提示したのである。
芸人らで話し合ってみると、横山エンタツも花菱アチャコも新興キネマ演芸部に移るというので、「ミスワカナ・玉松一郎」は、新興キネマ演芸部への移籍を決めた。
さて、ミスワカナは自由奔放で勝手気ままな性格だったので、吉本興業を2度も姿を消していたため、吉本興業の林正之助は監視のために、ミスワカナに見張りの事務員を付けていた。
そこで、「ミスワカナ・玉松一郎」は仕事が終わった後、自宅に帰るふりをして監視の事務員を騙し、そのまま姿を消して、新興キネマ演芸部へと走ったのである。
時を同じくして、東京では「香島ラッキー・御園セブン」が姿を消しており、吉本興業の林正之助がアッと思ったときには、「平和ラッパ・日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「西川ヒノデ・ミスワカバ」「あきれたほういず」と次々に新興キネマへ引き抜かれており、林正之助が寵愛した花菱アチャコまで新興キネマから金を受け取っていることまで判明した。
林正之助は花菱アチャコをホテルに連れ込んで説得を続けたが、花菱アチャコは天下のドケチだったので、頑として林正之助の脅しには屈せず、新興キネマへの移籍を決意していた。
しかし、吉本興業の吉本せい(林せい)が、花菱アチャコの父親を脅し、驚いた父親が花菱アチャコから大金の入った通帳を取り上げて、新興キネマに返させ、花菱アチャコの移籍を未然に防いだ。
一方、ミスワカナに新興キネマ行きを勧めた横山エンタツは、自分も新興キネマに行くと言っていたが、全部、嘘だった。ミスワカナを追い出すための策略だったのである。
横山エンタツは、絶大なる人気を誇った「エンタツ・アチャコ」を解散した後、杉浦エノスケと漫才コンビを組んで、吉本でナンバー1の座に君臨していた。
ところが、「ミスワカナ・玉松一郎」が彗星の如く現れ、たちまち吉本興業のナンバー1の座を奪われてしまった。
そこで、横山エンタツは、ミスワカナらが新興キネマに移籍すれば、再び吉本興業でナンバー1に返り咲けると考え、ミスワカナらに移籍をそそのかしていたのである。
さて、所属芸人を引き抜かれた吉本興業は、所属芸人から契約書を取っていたので、新興キネマに移籍した「ミスワカナ・玉松一郎」に対して出演禁止の仮処分申請を行った。
これに対して、「ミスワカナ・玉松一郎」は、吉本興業に契約解除の通知を送りつけ、ギャラは吉本興業に搾取され、わずか230円の給料で吉本興業に酷使されて体を壊した事を暴露して反論した。
吉本興業と新興キネマの争いは世間を大いに賑わせたが、日中戦争中だったこともあり、演芸界に良くないとして、京都府警・大阪府警が仲裁に乗り出した。
そして、吉本興業と新興キネマの間で、新興キネマが吉本興業へ芸人の育成料を払い、吉本興業は移籍を認め、今後は芸人を無断で引き抜かない事などを条件に和解が成立した。
こうして、「ミスワカナ・玉松一郎」は、正式に吉本興業から新興キネマへと移籍した。
吉本興業の林正之助は、抜けた「ミスワカナ・玉松一郎」の代わりに、旅芸人の一座に居たミヤコ蝶々をスカウトして、第2のミスワカナとして育てた。
ミヤコ蝶々は、声も姿もしゃべり方もミスワカナにソックリなうえ、ヒロポン中毒という所まで同じだったので、林正之助を大いに喜ばせたという。
なお、その後、新興キネマ演芸部は、吉本興業に居た漫才作家・秋田實も引き抜き、精力的に活動したが、吉本興業の迎撃に遭って消滅した。
ミスワカナは吉本興業に戻して欲しいと頼んだが、ミスワカナを寵愛していた林正之助も、「いっぺん、出て行った者が戻るのは、他の芸人に都合が悪い」と言って相手にしなかった。
昭和15年(1940年)に内務省の通達により、ふざけた芸名の改名を命じられ、ミスワカナも改名を迫られた。
ミスワカナは改名を拒否して、終いには改名を受け入れ、「玉松ワカナ」と改名した。
ミスワカナは、「ミス」がダメだと言われたので、「メス・ワカナ」に改名しようとしたという逸話も残っている。
なお、花菱アチャコは、改名を拒否し続け、国籍まで疑われたのだが、改名を免れ、「花菱アチャコ」で通している。
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ミスワカナは、新興キネマ演芸部に移籍した昭和15年(1940年)頃からヒロポンを使用するようになり、昭和18年(1943年)にはヒロポン中毒になっていた。
ミスワカナがヒロポンを使用し始めた切っ掛けは、相方・玉松一郎が勧めたからという通説になっている。
しかし、別説では、吉本興業主宰の「わらわし隊」で中国へ慰問に行った時に、現地の兵士に勧められて使用したとされる。
なお、ヒロポンが禁止されたのは戦後のことで、戦前は副作用についても知られておらず、普通に市販されており、エナジードリンク感覚で使用されていた。
ミスワカナは、東京から流れきた女癖の悪い妻子有りの役者を好きになり、玉松一郎に「退いてくれ」と言って離婚を求め、昭和19年(1944年)に玉松一郎と離婚したが、離婚後も漫才コンビは続けた。
昭和20年(1945年)8月15日、ミスワカナは、京都南座で「勝利の日まで、勝ち抜く日まで」という芝居を上演した初日に、玉音放送を聴いて終戦を迎えた。
そして、昭和21年(1946年)10月14日、ミスワカナは阪急西宮球場での野外演芸会の帰りに、阪急西宮北口駅のホームで心臓発作を起こして死去した。享年36だった。
当日、野外演芸会に出演していた森光子は、出番の前に、ミスワカナから、「これを持ってて」と白いハンカチ包みを渡されて着物のたもとに入れていた。
先に出番を終えたミスワカナが「おおきに、さっきの」と言って取りに来たので、森光子は預かっていた白いハンカチ包を渡した。その直後にミスワカナは死去したのだという。
なお、通説では死因はヒロポン中毒だと言われているが、既にヒロポンを止めていたとい説もある。
ミスワカナの死後、吉本興業の林正之助は、ミヤコ蝶々に二代目「ミスワカナ」を継がさせて、玉松一郎とコンビを組ませた。
しかし、ミヤコ蝶々はヒロポンに溺れていたうえ、ヒロポンを打った後に睡眠薬まで飲んでいたので、台詞も覚えられず、舞台はボロボロだったため、半年でコンビは解散した。
その後、玉松一郎は、ミスワカナの実の娘・三崎希於子を3代目ワカナにしてコンビを結成した。
解散後はミスワカナの弟子・河村節子を4代目ワカナとしてコンビを結成し、玉松一郎は晩年まで活動したが、泣かず飛ばすの末、昭和38年(1963年)5月30日に死去した。享年58だった。
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ミスワカナは読み書きは出来なかっが、耳は非常に良かったとされ、全国を巡業していたときに、ご当地の言葉を覚えて、漫才のネタに取り入れ、自由自在に方言を操る事が出来た。
ミスワカナは自由奔放で、中国での慰問中もプイッと居なくなくなるが、戻ってくると中国語を覚えてきており、ネタに取り入れた。
ミスワカナは現地の子供にお小遣いを渡して、中国語を喋ってもらい、中国語を覚えており、非常に勉強家だったという。
また、漫才作家の長沖一がネタのヒントを玉松一郎に教えると、玉松一郎がネタを漫才に仕立ててから、ミスワカナに教えていたというので、漫才のネタも玉松一郎から口移しで覚えていたようである。
ミスワカナは、気性が激しく、喜怒哀楽が明確で、自由奔放、傍若無人のジャジャ馬娘で、カッとなると、見境なくケツをまくる性格だったといい、こういうエピソードが残っている。
「わらわし隊」に参加していたとき、玉松一郎は、ミスワカナの余りの傍若無人ぶりに溜まりかねて、遠慮がちに注意した。
すると、ミスワカナは他にも芸人が居る前で、「なんや、お前、そら誰に向うて言うてんねん。いつの間に、そないええ顔になってんな」と玉松一郎を罵倒した。
玉松一郎は、「またか」という表情で、周囲の芸人に遠慮しながら、「そないに、えらそうに言わんかて、ええやないか」と言い、その場を納めた。
玉松一郎は親しい友人に医者がおり、その医者から注射に関する技術を全て教わり、注射器と栄養剤や疲労回復剤のアンプルを入れた容器を楽屋に持ってきて、みんなの前で自分の腕に注射した。
このころ、芸能界ではカメラが流行していたのだが、戦争の影響でフィルムが手に入らなくなっており、ちょうど、食糧事情も急速に悪化していた。
このため、楽屋では、玉松一郎が持ち込んだ注射器が流行し、各自、自分で注射してはアンプルの効能を話し合ったり、自慢し合ったりしていた。中には本職の医者よりもゴツイ注射器を持つような芸人も居た。
下手に「疲れた」となどと言ってしまうと、芸人が待ってましたとばかりに注射器を取り出して、無理矢理にでも注射するというほど、注射が流行っており、色々とエピソードが残っている。
ある日、事務員が「頭が痛い」と言ったので、それを聞いた「平和ラッパ・日佐丸」の浅田家日佐丸が喜んで事務員に注射をしてやった。
ところが、注射を打った後、浅田家日佐丸が「しもた。間違うて高い薬を注射してしもた」と叫んだ。
浅田家日佐丸は英語が読めないので、アンプルの容器に色紙を貼って、色でアンプルの種類を覚えており、浅田家日佐丸は間違えて事務員に「606号」という性病の薬(梅毒用の強い薬)を注射してしまったのである。
この玉松一郎によってもたらされた注射器ブームは、やがて、ヒロポンブームへと発展したのだった。
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