映画「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」などを手がけた宮崎駿(みやざき・はやお)の立志伝です。
宮崎駿は、昭和16年(1941年)1月5日に東京都墨田区本所石原町で、宮崎勝次の次男(4人兄弟)として生まれた。母親は宮崎美子である。
宮崎家は祖父・宮崎富次郎が町工場を経営していた。祖父・宮崎富次郎はランプの特許などを持つ発明家で、裕福な暮らしをしていたという。
宮崎駿が生まれた頃には祖父・宮崎富次郎は死んでおり、父・宮崎勝次と伯父・2代目富次郎(宮崎芳太郎)が町工場を経営していた。
一方、母・宮崎美子は山梨県の山本家の出身で、この山本家は武田勝頼の家来の家系だという。
さて、昭和17年(1942年)末ごろ、中島飛行機の下請け工場になる話があり、父・宮崎勝次と伯父・2代目富次郎(宮崎芳太郎)は、栃木県鹿沼市に本社を移転して「宮崎航空機製作所」を設立し、宮崎家は昭和18年(1943年)に茨城県宇都宮市へと引っ越した。
社長は伯父・2代目富次郎(宮崎芳太郎)で、父・宮崎勝次は工場長だったが、伯父・2代目富次郎(宮崎芳太郎)は肺結核になったので、父・宮崎勝次が実質的な社長を務めた。
「宮崎航空機製作所」は最盛期の従業員が2800人という大企業で、軍需産業だったため、宮崎一族で戦争に行った者は居らず、戦時中でもガソリン自動車に乗り、裕福な暮らしをしていたという。
昭和20年(1945年)7月、宇都宮大空襲に遭う。4歳の宮崎駿は、母親と叔父に連れられ、トラックで逃げた。
このとき、近所の人が助けを求めたが、宮崎家は近所の人を見捨てて自分たちだけで、トラックで逃げたので、宮崎駿の心の中に重くのしかかることになる。
さて、宮崎家は、自宅も難を逃れたが、焼け出された人たちに占領されていたため、栃木県鹿沼市の別荘へと移り、ここで終戦を迎えた。
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昭和22年(1947年)、宮崎駿は宇都宮市立西小学校に入学する。この年、母・宮崎美子が難病の脊椎カリエスを発症し、以降9年間、自宅療養をすることになる。
療養する母・宮崎美子が、後に映画「となりのトトロ」のモデルになったとされる。
さて、宮崎駿は子供の頃から飛行機の絵を描くことが好きで、お小遣いは全て本につぎ込み、手塚治虫の「新宝島」などを読んでいた。
宮崎家は昭和25年(1950年)4月に東京都杉並区福永に自宅を購入して引っ越した。この家が映画「となりのトトロ」のモデルとなった家である。
宮崎駿は、上京に伴い、大宮小学校へ転向。昭和26年(1951年)に地元に福小学校が開校したため、永福小学校へと転入。小学校を卒業すると、杉並区立大宮中学校へと進学した。
宮崎駿は、大宮中学校で生涯の師となる美術教師・佐藤文雄と出会い、佐藤文雄に師事して油絵を学んだ。
昭和31年(1956年)、宮崎駿は都立豊多摩高校へ進学した。宮崎駿は、手塚治虫の影響を強く受けており、漫画家になることを宣言し、高校時代に漫画を描いた。
昭和32年(1957年)、新しい抗生物質で、母・宮崎美子の病気が治り、母親に対する不安が解消される。
しかし、その一方で、自分の将来への不安が大きくなり、漫画家になるという漠然とした目標に向かい、漫画を描き続けた。
昭和33年(1958年)、日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」が公開され、高校3年生の宮崎駿は、映画館で「白蛇伝」を観て、ヒロイン白娘(パイニャン)に恋をした。
すると、宮崎駿は、劇画(大人向けの漫画)を描いていた自分の愚かさを思い知らされ、真面目に何を作るかを考えるようになり、劇画を描くのを止め、子供の素直さやおおらかさを描くため、再び漫画を描き始めたのだった。
昭和34年(1959年)、宮崎駿は、学習院大学の政治経済学部へと進学する。
当初は美術大学への進学を希望していたが、父親が「絵で身を立てるのは大変である。そういう学校に行く気なら、金は出さない」と言うので、絵を描くための猶予期間として、学習院大学へと進学したのである。
学習院大学には漫画研究会が無かったので、児童文学研究会へ入り、人形劇の公演したり、機関誌を作ったりしていた。
その一方で、デッサン・クロッキー・油絵に通いながら、漫画を描いて貸本用の出版社などに持ち込んでいた。
そのようななか、60年安保闘争が起こり、学生運動が盛んになる。
宮崎駿は、60年安保闘争には批判的で傍観していたが、60年安保闘争が下火になった頃に、雑誌「アサヒクラブ」の写真を見て政治的興味を持ち、デモに参加するようになった。
そして、宮崎駿は、無党派で彼方こちらの集会に顔を出していたため、「お前たちは鵺(ヌエ)だ」と批判されたのだという。
宮崎駿は大学4年生の7月、漫画を描きたいという夢を持ちながらも、東映動画に入ろうと思い、東映に漫画を持ち込んだところ、東映と東映動画は別会社だと言われてしまった。
そこで、東映動画へ行くと、ちょうどアニメーターを募集中で、東映動画の最後の定期採用試験を受けて合格し、学習院大学を卒業して、昭和38年(1963年)4月に正社員として東映動画に入社した。
この年(昭和38年)1月に国産初のTVアニメ番組「鉄腕アトム」の放送が開始されており、アニメ界に大きな波が訪れ、長編映画を作っていた東映動画もTVアニメ「狼少年ケン」へTVアニメに進出することになる。
さて、3ヶ月で研修を終えた宮崎駿は、小田部羊一の班に加わり、映画「ワンワン忠臣蔵」を手がけ、その後、TVアニメ「狼少年ケン」を手がけた。
その一方で、宮崎駿は、漫画への未練を断ち切れていなかったが、労働組合が上映したアニメ「雪の女王」を観て、本気でアニメーションをやろうと決意するのだった。
なお、宮崎駿は間もなく1人の女性に恋をして、失恋してしまったというが、その相手は不明である。
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宮崎駿は、昭和39年(1964年)に労働組合の2代目書記長に就任し、副委員長の高畑勲と出会い、高畑勲と交流を開始する。
そして、昭和40年(1965年)公開の映画「ガリバーの宇宙旅行」で、大塚康生の班に加わり、動画を担当する。
このとき、宮崎駿は新人の動画担当だったが、演出家や作画監督に自分の意見を押し通し、ラストシーンの絵コンテを書き換え、実質的な原画を担当した。
これが認められて宮崎駿は、TVアニメ「少年忍者・風のフジ丸」で原画へと昇格した。
その一方で、宮崎駿は、共働きをするという約束で、昭和40年(1965年)10月に同僚の先輩アニメーター大田朱美と結婚するのだった。
手塚治虫のTVアニメ「鉄腕アトム」に始まるTVアニメ時代の到来により、「東映動画」の長編アニメは年2本体制となり、縮小傾向にあった。
このようななか、映画「太陽の王子・ホルスの大冒険」で作画監督を務めることになった大塚康生が、会社の反対を押し切り、無名の高畑勲を演出に抜擢した。
宮崎駿は、高畑勲が作るのであれば、労働組合が作るのと同じ事だと思い、参加するのは当然として、「太陽の王子・ホルスの大冒険」で原画を担当した。
そして、宮崎駿・大塚康生・高畑勲の3人は「多少スケジュールが伸びても、もう長編を作るチャンスはなくなるかもしれないから、頑張ろう」と一致団結したが、制作が大幅に遅れ、会社から制作の中断を命じられ、中断を余儀なくされる。
しかし、宮崎駿は「映画は半分出来ているのだから、これは人質だ」と言い、制作再開を確信していたという。
その後、制作が再開され、中断を含めて3年がかりで、「太陽の王子・ホルスの大冒険」は完成する。
高畑勲は、宮崎駿の才能を評価し、宮崎駿のために「場面設定」というポストを作り、スタッフロールに載せた。
さて、アニメは子供のものという時代だったが、「太陽の王子・ホルスの大冒険」は労働組合の主導で作られたのでユーモアが無く、面白くなかった。
しかも、当時、泥沼化されていたベトナム戦争の影響を受けていたこともあり、「太陽の王子・ホルスの大冒険」は世間に受け入れられず、東映の長編史上で最低を記録してしまうのだった。
「太陽の王子・ホルスの大冒険」の後、宮崎駿は映画「長靴をはいた猫」「空飛ぶゆうれい船」「どうぶつ宝島」を手がけた。
昭和46年(1971年)公開の映画「どうぶつ宝島」は、東映動画で久しぶりとなるフルアニメーションを使った正統派アニメで、東映動画の長編スタッフが集結され、宮崎駿はアイデア構成と原画を担当した。
しかし、「どうぶつ宝島」は興行的に失敗したため、「どうぶつ宝島」を最後に、東映動画ではTVアニメが中心となり、長編スタッフは活動の場を求めて東映動画を去っていった。
このようななか、宮崎駿と小田部羊一も、高畑勲に誘われ、TVアニメ「さるとびエッちゃん」を最後に、「Aプロダクション」へと移籍するのだった。
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昭和46年(1971年)、宮崎駿らは、アニメ「長くつ下のピッピ」を制作するために「Aプロダクション」へと移籍した。
しかし、ロケハンまで行われたものの、「長くつ下のピッピ」は原作者の許可が得られなかったため、企画が中止となってしまった。
ところで、一足先に東映動画から「Aプロダクション」へ移籍していた大塚康生は、TVアニメ第1シリーズ「ルパン三世」を手がけていた。
しかし、「ルパン三世」は大人向けのハードボイルド調だったため、視聴率がとれず、スポンサーの意向により、第3話で子供向けへと路線変更を余儀なくされ、路線変更に不満を持った演出家・大隅正秋が降板した。
このため、宮崎駿と高畑勲は、大塚康生に頼まれて、「ルパン三世」に参加し、共同演出を務めた。クレジット上は演出だが、宮崎駿は事実上の監督を務めた。
ルパンはベンツSSKに乗っていたのだが、ベンツSSKを描ける人が少なかったので、宮崎駿は「泥棒が成功しないのに、この連中は何で食ってるのだろう?」と言い、ヨーロッパで庶民の足として使用され、誰でも描くことが出来るフィァット500を採用した。
機関車やジープマニアの大塚康生が機関車や車を担当し、飛行機マニアの宮崎駿が飛行機や船を担当するというテリトリーができ、戦車は競合したので、お互いに触れなかった。
こうして、宮崎駿と高畑勲により、「ルパン三世」はハードボイルド路線から子供向け路線へと切り替えられたが、視聴率は伸びず、結局、第23話で打ちきりとなった。
宮崎駿と高畑勲は、他人の作品に手を加えた事に配慮して、クレジットへの記載を辞退したが、会社としては記載しないわけにもいかないので、クレジットには「Aプロダクション演出グループ」と表記された。
宮崎駿は「Aプロダクション」へ移籍したが、妻・大田朱美は東映動画に残っていた。
「Aプロダクション」は夜型のスタジオだったので、朝はゆっくりしており、宮崎駿は子供2人を保育園に送ってから出勤していたが、保育園に迎えに行くことは無理で、妻・大田朱美が保育園に子供を迎えに行っていた。
そして、妻・大田朱美は、子供1人を背負い、眠りながら歩いている子供1人の手を引きながら帰っていた。
それを知った宮崎駿は、共働きは無理だと思い、妻・大田朱美に仕事を辞めるように頼んだので、妻・大田朱美はアニメーターを引退し、子育てに専念した。
宮崎駿は結婚するときに共働きを約束していたので、妻・大田朱美は仕事を辞めらされたことに不満をおもっており、時々、思い出しては腹を立てた。
宮崎駿・高畑勲・小田部羊一は、「Aプロダクション」で、アニメ「パンダコパンダ」「パンダコパンダ・雨降りサーカスの巻」を手がけた後、昭和48年(1973年)6月、「ズイヨー映像(日本アニメーション)」へ移籍した。
さて、宮崎駿・高畑勲・小田部羊一の3人は、ズイヨー映像で、TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」を手がけた。
この「アルプスの少女ハイジ」が大ヒットを記録したので、フジテレビの「世界名作劇場」が始まり、宮崎駿は「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」を手がけた。
しかし、宮崎駿はレイアウトに戻り無くないと苦悩しており、「あらいぐまラスカル」を途中で抜け、高畑勲・大塚康生と共に、NHKのTVアニメ「未来少年コナン」を手がけ、演出や場面設定などを担当し、実質的な監督を務めた。
「未来少年コナン」は視聴率は振るわなかったものの、宮崎駿は関係者の間で評判を高めた。
その後、宮崎駿と高畑勲はTVアニメ「赤毛のアン」を手がけた。
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宮崎駿らが手がけたTVアニメ第1シリーズ「ルパン三世」は打ち切りになったが、再放送がヒットしたため、TVアニメ第2シリーズが作られた。
そして、第2シリーズのヒットで映画化が決まり、映画第1作「ルパン三世・ルパンVS複製人間」が公開され、大塚康生が映画第2作「ルパン三世・カリオストロの城」を手がけることになった。
しかし、大塚康生は「ルパン三世・カリオストロの城」の脚本がイメージと違ったため、困っていた。
このころ、宮崎駿は、高畑勲の手がけるTVアニメ「赤毛のアン」で場面設定・画面構成を担当していたが、「未来少年コナン」で演出家への道を歩み始めていたので、場面設定へ戻る事に苦悩していた。
このようななか、宮崎駿は、「テレコム・アニメーションフィルム」の大塚康生がルパン三世の映画を手がけると聞きつけたので、ルパン三世の脚本と監督を引き受けた。
そして、「赤毛のアン」を途中で抜け、「日本アニメーション」を退社して「テレコム・アニメーションフィルム」へ移籍し、「ルパン三世・カリオストロの城」で映画初監督を務めた。
宮崎駿にとって、「ルパン三世・カリオストロの城」は、第1シリーズ「ルパン三世」や東映動画時代の「大なたざらえ」だったが、世間はロボットアニメや宇宙戦艦アニメなどに熱中しており、「ルパン三世・カリオストロの城」は客が入らず、興行に失敗した。
この失敗により、宮崎駿は大きく評判を落としてしまうのだった。
その後、宮崎駿は、いくつかのアニメを経て、高畑勲や大塚康生と共に、日米合作の映画「リトル・ニモ」の準備班に加わるが、日米の政策方針の違いなどもあり、遅々として準備は進まなかった。
その間、宮崎駿は「となりのトトロ」「もののけ姫」「戦国魔城」などのオリジナル企画の映画化や、漫画「ロルフ」の映画化を提案するが、いずれも企画はも却下され、映画監督の仕事は無く、行き詰まっていた。
その一方で、イタリアのテレビ局との合作で、TVアニメ「名探偵ホームズ」を制作することになり、宮崎駿は監督を務めることになったが、「名探偵ホームズ」も企画が進まずに仕事の無い状態が続いた。
このころ、大塚康生が徳間書店のアニメ雑誌「アニメージュ」で「画作まみれ」を連載していたことから、「アニメージュ」が宮崎駿の特集を組んだ。
これを切っ掛けに、「アニメージュ」の鈴木敏夫は、宮崎駿の才能を認め、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の映画化を企画したが、原作が無いものはダメだと言われ、企画は会議で却下された。
そこで、鈴木敏夫は、「自分で原作漫画を描いてヒットさせれば、映画化できる」と宮崎駿を説得した。
宮崎駿は、「風の谷のナウシカ」を映画にしたかったわけではなかったが、もう「風の谷のナウシカ」しか映画に出来るものがないので、やるしかないと思い、不本意ながら連載を開始した。
その直後、企画が停滞していた「名探偵ホームズ」の制作が始まった。宮崎駿は「名探偵ホームズ」の制作に集中するため、「アニメージュ」に連載の中止を申し出た。
しかし、大塚康生の説得もあり、宮崎駿はページ数を減らすとともに、鉛筆画にして、「風の谷のナウシカ」の連載を続け、「名探偵ホームズ」と掛け持ちをした。
ところが、「名探偵ホームズ」は第5話の途中で、権利関係の問題から制作を中断を余儀なくされた。
その後、宮崎駿は、日米合作の映画「リトル・ニモ」のために渡米までしたが、制作は進まなかったので、「リトル・ニモ」の制作を諦めて降板し、「テレコム・アニメーションフィルム」も退社した。
その直後、「風の谷のナウシカ」の映画化が正式に決定した。当初は5分程度のアニメだったが、制作費などで折り合いがつかず、宮崎駿は「いっそのこと劇場版にしてはどうか」と提案した。
「アニメージュ」の尾形英夫が宮崎駿の提案を受け入れて社内で奔走し、徳間書店の社長・徳間康快が映画化を認め、徳間書店がパートナーとして博報堂を迎え入れた。
宮崎駿の弟・宮崎至朗が博報堂に勤務しており、弟・宮崎至朗が博報堂の「風の谷のナウシカ」プロジェクトチームに加わっていたのだが、これは全くの偶然だった。
さて、「風の谷のナウシカ」の制作が決まるが、制作するスタジオも決まっていない状態で、宮崎駿は、膨大な仕事をこなさなければならない状態だった。
そこで、宮崎駿は、打開策として盟友・高畑勲をプロデューサーとして迎え入れる。
高畑勲は日米合作の映画「リトル・ニモ」の準備班に加わっていたが、米国側とのトラブルから降板して、「テレコム・アニメーションフィルム」も退社していた。
そして、宮崎駿は、東映動画出身の原徹が設立した「トップクラフト」に制作を依頼した。
「トップクラフト」は断ったが、高畑勲の説得もあり、制作を引き受け、ようやく「風の谷のナウシカ」の制作が開始された。
そのようななか、「風の谷のナウシカ」の制作準備中の昭和58年(1983年)7月27日に、宮崎駿の母・宮崎美子が死去した。
宮崎駿は母親の死を乗り越えて「風の谷のナウシカ」を完成させ、「風の谷のナウシカ」は昭和59年(1984年)3月に公開されたが、小ヒット程度だった。
宮崎駿は、中高生をターゲットにしていたが、観客席には小学生以下の子供が多かったことから、子供に向けた作品を作るべきだったのではないかと後悔するのだった。
宮崎駿は、昭和59年(1984年)4月に個人事務所として「二馬力」を設立した。「二馬力」の名前の由来は、愛車「シトロエン2CV」の愛称である。
徳間書店は映画のヒットを受けて「風の谷のナウシカ」の続編を依頼したが、宮崎駿は、「仲間に言いたくないことを言い、多くの仲間を失って辛い。アニメーターに戻りたい。二度と作品は作りたくない」と言い、続編を拒否した。
そして、宮崎駿は高畑勲と共に福岡県柳川市を舞台としたアニメ「水の流れ街」の制作を提案した。
しかし、高畑勲が、ドブ川だった柳川が民間協力の浄化運動によって美しい川に回復したことに感銘を受け、アニメではなく、記録映画として制作することを提案した。
このとき、宮崎駿は「家を建て替えたいし、車も買いたいけど、そんな事をやったらみんなから後ろ指をさされるのではないか」と思い、「風の谷のナウシカ」で得た6000万円の使い道に困っていた。
そこで、「アニメージュ」の鈴木敏夫が、高畑勲の「水の流れ街」に出資することを提案した。
すると、宮崎駿は「これなら俺もいい事に使ったと評判がよくなる」と喜び、「風の谷のナウシカ」の利益を使い、個人事務所「二馬力」の自主制作で、実写映画「柳川堀割物語」の制作を開始した。
ところが、高畑勲は早々に制作費を使い果たしてしまう。
困った宮崎駿が「アニメージュ」の鈴木敏夫に相談すると、鈴木敏夫は「簡単な解決方法がある。もう1本映画を作ればいい」と言うので、宮崎駿はその場で決断し、「天空の城ラピュタ」のストーリーを5分で説明した。
鈴木敏夫が驚いて「考えていたんですか?」と尋ねると、宮崎駿は「小学生の時に考えた」と答えたという。
そうした一方で、高畑勲が「アニメージュ」に「徳間書店が今後も宮崎駿を起用してアニメを作るのであればスタジオを作るべきだ」と意見しており、徳間書店の社長・徳間康快が高畑勲の意見を受け入れ、徳間書店の出資で「スタジオジブリ」の設立を決定する。
「スタジオジブリ」の設立は早い段階で決まっていたが、正式に設立されたのは昭和60年(1985年)5月で、徳間書店の社長・徳間康快が「スタジオジブリ」の社長に就任した。
「スタジオジブリ」は、高畑勲の提案により、スタジオだけを用意して、正社員は雇わず、スタッフは作品ごとに集め、作品が完成すると解散するという方式がとられた。
こうして、「スタジオジブリ」の第1作となる「天空の城ラピュタ」が制作された。
「天空の城ラピュタ」は作画枚数でも、美術でも、「風の谷のナウシカ」を圧倒的に上回る大作だが、興行的には「風の谷のナウシカ」を超えることが出来ず、興行は失敗に終わった。
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昭和61年(1986年)公開の「天空の城ラピュタ」の興行は失敗に終わったが、一定の反響があったことから、徳間書店は次作の制作を決定する。
そこで、宮崎駿は、押井守を招いて映画「アンカー」の制作を企画するが、宮崎駿・高畑勲・押井守の3人がそれぞれに主張を譲らなかったので喧嘩別れして、企画は中止となってしまう。
そこで、宮崎駿は、日本人の自分たちが日本を避けてアニメを作り続けていることを批判し、日本を舞台とした「となりのトトロ」を制作することにした。
「となりのトトロ」は、宮崎駿が「母を訪ねて三千里」を制作中に企画した絵本の構想をベースとしたオリジナル作品である。
しかし、徳間書店は、宮崎駿が企画した「となりのトトロ」が地味だったことから、難色を示した。
このため、「アニメージュ」の鈴木敏夫が奔走して、新潮社の出資で高畑勲も「火垂るの墓」を手がけることになり、最終的に「となりのトトロ」と「火垂るの墓」を同時上映する方針が決まった。
同時上映ということは、制作費は2本分かかるが、入場料は1本分なので、徳間書店が試算すると、どう考えても2本で5000万円ずつの赤字になった。
しかし、徳間書店の社長・徳間康快が「新潮社には迷惑をかけることになる」と言いながらも、ゴーサインを出し、新潮社も承諾したので、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の制作が開始された。
しかし、1つのスタジオで映画2本を同時制作という全体未聞の事態で、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の制作班はライバル関係になった。
このため、スタッフの取り合いになり、双方から頼まれた保田道世は両方の映画を掛け持ちしている。
また、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の同時上映は、東映が「お化けと墓では、自社のイメージにそぐわない」として、配給を拒否したので、スタジオジブリの社長・徳間康快が東宝にかけあい、東宝で配給が決まった。
こうして昭和63年(1988年)4月に公開された映画「となりのトトロ」は、興行に失敗して赤字だったが、公開当初から絶賛されており、国内の映画賞を総なめにした。
さらに、関連本や関連グッズが爆発的に売れて赤字が解消され、スタジオジブリの安定経営の基盤を確立したのだった。
なお、「火垂るの墓」は予定までに間に合わなくなったため、高畑勲は一部をモノクロシーンにして、未完成のまま公開するという失態を犯した。
何の相談も受けていなかった仕上げ(色彩設計)の保田道世は、高畑勲に激怒し、「火垂るの墓」の公開後も色を塗り続け、出来たシーンから差し替えていき、公開中に完成させた。
映画企画会社「グループ風土舎」は、角野栄子の児童文学「魔女の宅急便」をアニメ化するため、「宅急便」の商標を持つヤマト運輸に出資を打診した。
ヤマト運輸は当初、難色を示していたが、作品中に黒猫が登場することから、前向きに検討を始め、1億円の出資を決めた。
「グループ風土舎」は、予算2億円を想定していたので、電通を通じてスポンサーを探し、徳間書店が加わることになり、制作の主導権は徳間書店へと移っていった。
さて、「グループ風土舎」は、宮崎駿か高畑勲を、監督かプロデューサーにしたいと要請したが、このとき、宮崎駿は「となりのトトロ」、高畑勲は「火垂るの墓」を制作中で、兼任は無理だった。
そこで、宮崎駿がプロデューサーを務め、監督は有望な若手から選ぶことになり、脚本を一色伸幸が務め、監督は片渕須直が務めることになった。
しかし、一色伸幸が作った脚本は苦労するシーンが多かったため、イメージにそぐわないとして、「となりのトトロ」を終えた宮崎駿が、一部の要素を残して、脚本を書き換えた。
また、スポンサー企業から、宮崎作品以外に出資する気は無いとの意向があり、片渕須直は身を引く形で、監督を降りて演出補佐に回ったので、宮崎駿が監督を兼任することになった。
しかし、監督とプロデューサーの兼任は無理なので、実質的なプロデューサーを務めていた「アニメージュ」の鈴木敏夫がプロデューサーを務めることになった。
そして、「魔女の宅急便」は、元々は小品の予定だったが、制作が進むにつれて100分を超える大作になっていくのだった。
そうした一方で、映画配給は東映に戻るが、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の興行の失敗を受けて、ジブリ作品からの撤退を通告した。
「アニメージュ」の鈴木敏夫は、これに奮発して、TVでの宣伝を思いつき、ジブリ作品の放映権を持つ日本テレビに相談すると、日本テレビがこれに応じ、大々的に宣伝が行われた。
その結果、連日の満員が続き、「魔女の宅急便」はスタジオジブリで初の大ヒットとなり、アニメーションで過去最高の配給収益を記録した。
しかし、東映でジブリアニメを上映するのはこれが最後で、以降、ジブリ作品は東宝で上映されることになる。
さて、「魔女の宅急便」の成功により、世間から期待された宮崎駿は、良い作品を作るために、作品ごとに解散していたスタッフを社員化しするのだが、それは作品を作り続けなければならないということを意味していた。
また、「アニメージュ」の鈴木敏夫も、この社員化にともない、徳間書店からスタジオジブリに移籍するのだった
高畑勲は、「火垂るの墓」を未完成のまま公開して以降、監督業から遠ざかっていた。
そこで、宮崎駿は、高畑勲を監督に復帰させるために、「おもひでぽろぽろ」の監督を高畑勲に任せ、自身はプロデューサーを務めた。
こうして、高畑勲は3年ぶりに「おもひでぽろぽろ」で監督に復帰し、「おもひでぽろぽろ」をヒットさせた。
宮崎駿は「魔女の宅急便」の成功により、周囲から大きな期待を寄せられていたが、スタジオジブリが採用した新人が研修中だった。
そこで、新人のテストを兼ねた小品を作ることにして、「紅の豚」の原作となる漫画「飛行艇時代」を描いた。
宮崎駿は、「雑想ノート」に、戦車乗りの豚を主人公とした「多砲塔の出番」というアイデアを書いていた。
その「多砲塔の出番」を元に、映画「突撃!アイアンポーク」を企画したことがあったが、映画「突撃!アイアンポーク」は企画の段階で頓挫していた。
そこで、豚の主人公という設定を生かしつつ、戦車を飛行艇に変えたのが漫画「飛行艇時代」で、この「飛行艇時代」をアニメ化したものが「紅の豚」である。
さて、アニメ「紅の豚」は、日本航空の機内放送用として、30分程度の作品として制作することが決まるが、「おもひでぽろぽろ」の制作が遅れたので、制作開始は大幅に遅れた。
やがて、「おもひでぽろぽろ」が完成し、「紅の豚」の制作が開始されるが、「紅の豚」の舞台となったユーゴスラビアでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発する。
宮崎駿は、フィクションとは言え、紛争が起きている地域をモデルにした娯楽映画を作ることに躊躇し、娯楽映画とリアリズムに揺れ、作品は次第に伸びていき、大作になってしまった。
こうして公開された「紅の豚」は大ヒットを記録したが、宮崎駿は新人の育成に失敗して大量解雇したり、現場を取り仕切っていたプロデューサー原徹がスタジオの運営方針を巡って宮崎駿と対立し、スタジオジブリを去るなど、大きな痛みを伴った。
「平成狸合戦ぽんぽこ」は、宮崎駿の企画、高畑勲の監督で制作された。宮崎駿は企画の段階で「次は狸で行こう」と提案しただけで、制作には関わっていない。
しかし、一般的に宮崎駿が狸というアイデアを出したとされているが、鈴木敏夫によると、実際は高畑勲が先に狸のアイデアを出していたという。
最初に高畑勲が民話「阿波の狸合戦」をベースにしたアイデアを出すと、これに対抗する形で、宮崎駿が民話「八百八狸」を持ち出してきた。
それから5年後に、宮崎駿が「次は狸で行こう」と提案し、「平成狸合戦ぽんぽこ」が制作された。
妻・大田朱美の父親が信州に簡易な別荘を建てており、宮崎駿は夏になると友達を集めて信州の別荘を利用していた。この友達の中に押井守や庵野秀明も居たという。
この別荘には、宮崎駿の姪が読んでいた少女漫画が残されており、宮崎駿は少女漫画を読みあさっていた。
そして、雑誌「りぼん」に掲載されていた「柊あおい」の連載漫画「耳をすませば」を読んだ。
漫画「耳をすませば」は第2話しかなく、前後が分からないので、宮崎駿は東京へ戻ると単行本を購入したのだが、想像していたストーリーとは違った。
このため、宮崎駿は独自に話を膨らませていき、映画「耳をすませば」を作ることにした。
映画「耳をすませば」の監督は近藤喜文に任せ、宮崎駿は絵コンテを担当したが、結局は色々と口を出して問題を起こしたという。
その後、宮崎駿は「耳をすませば」の絵コンテを終えると、次作「もののけ姫」の準備に入った。
そのようななか、音楽ユニット「CHAGE&ASKA」が新曲のプロモーションビデオをスタジオジブリに依頼した。
そこで、スタジオジブリで準備班が発足したが、準備班が紛糾したため、宮崎駿が監督を務めることになった。
そして、「CHAGE&ASKA」の曲を研究した宮崎駿が曲「On Your Mark」に変更を申し出て、「CHAGE&ASKA」側がこれを承諾した。
こして、宮崎駿は「耳をすませば」に口を出しながら、アニメ「On Your Mark」の制作を開始した。
アニメ「On Your Mark」は、「CHAGE&ASKA」のライブでのみ上映される予定だったが、急遽、映画「耳をすませば」と同時上映されることになった。
こうして、平成7年(1995年)に公開された映画「耳をすませば」は大ヒットを記録して、数々の賞に選ばれたのだった。
「もののけ姫」は、宮崎駿が「ルパン三世・カリオストロの城」の次作として企画したが、当時はSFアニメ全盛期だったことから、「もののけ姫」は実現しなかった。
その後、「風の谷のナウシカ」の次作として、「もののけ姫」が検討されたが、これも実現しなかった。
「紅の豚」の完成後、宮崎駿が時代劇を念願としていることを知っていた鈴木敏夫は、体力的のもこれが最後のチャンスだとして、「もののけ姫」の制作を打診したが、宮崎駿は勝算が見えない「もののけ姫」に難色を示し、「毛虫のボロ」を作ると言い出した。
鈴木敏夫は、「紅の豚」の大成功で多額の予算が使えると言い、これが最後のチャンスだと説得すると、宮崎駿は苦悩した末、「もののけ姫」の制作を決めた。
さて、スタジオジブリでも、デジタル化の波を受けて、CG室が発足しており、「もののけ姫」でも一部のシーンにCGが使用された。
その一方で、色彩設定の保田道世は、期限までに色を塗りおえられないことから、デジタルペイントを導入して、「仕上げ」を間に合わせた。
デジタルペンは、絵の具の問題も解決で、様々な面で「仕上げ」を効率化できることから、保田道世はデジタルペイントの導入を決めた。
宮崎駿は「俺の時代にコンピューターは使わない」と公言していたが、保田道世には頭が上がらなかったので、保田道世の鶴の一声で、デジタル化を認め、スタジオジブリは全面的にデジタル化へと移行することになる。
さらに、スタジオジブリは徳間書店と合併し、「徳間書店スタジオジブリ・カンパニー」が発足した(その後、「徳間書店・スタジオジブリ事業本部」となる)。
なお、平成9年(1997)公開の「もののけ姫」は、莫大な宣伝費に加え、宮崎駿が方々で引退宣言を繰り返したこともあり、大ヒットし、日本記録を更新した。
宮崎駿は信州に山小屋を持っており、関係者の娘を招いて合宿を行っていた。「もののけ姫」が公開され、映画が大ヒットするなか、宮崎駿は信州の山小屋で、関係者の娘が来るのを楽しみにしていた。
その結果、宮崎駿は少女のための映画を作っていないことに気付き、少女のための映画の企画を考え始めた。
しかし、宮崎駿は、本当に引退を考えていたようで、監督は近藤喜文に任せて、自身は絵コンテやシナリオを手がけようとしていたらしく、平成10年(1998年)1月にスタジオジブリを退社した。
ところが、その直後に、監督を任せようとしていた近藤喜文が死去してしまう。
その後、以前からアニメ化が検討されていた柏葉幸子の児童文学「霧のむこうのふしぎな町」が企画に上がり、宮崎駿は「ゴチャガチャ通りのリナ」というタイトルで企画を練るが、「ゴチャガチャ通りのリナ」は早々に断念した。
そして、宮崎駿は「煙突描きのリン」の制作を開始し、平成11年(1999年)1月に所長としてスタジオジブリに復帰する。
しかし、映画「踊る大捜査線・THE MOVIE」を観てきた鈴木敏夫が、宮崎駿の作品に「踊る大捜査線・THE MOVIE」に匹敵するほどのリアリティーが出せるのかと疑問に思ったため、宮崎駿は「煙突描きのリン」の制作を中止した。
そして、宮崎駿は「不思議の町の千尋」を企画し、その後、正式に「千と千尋の神隠し」と決定した。
当初は安藤雅司に監督を任せ、共作にしようとしていたが、結局、宮崎駿が監督を務め、安藤雅司が作画監督を務めた。
しかし、宮崎駿が制作途中で安藤路線を変更し、従来の宮崎路線へと舵を切ったため、両者の間に確執が生まれ、宮崎駿は安藤雅司を後継者候補から除外した。
こうした制作中の混乱もありながらも、コンビニチェーン「ローソン」が宣言に加わったこともあり、平成13年(2001年)7月に公開された「千と千尋の神隠し」は「もののけ姫」を超える大ヒットを記録し、映画「タイタニック」が持つ日本記録を塗り替えたのだった。
しかし、「千と千尋の神隠し」の制作中に、理解者であった徳間書店の社長・徳間康快が死去してしまう。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説「魔法使いハウルと火の悪魔」の原題は「Howl's Moving Castle(ハウルの動く城)」だった。
宮崎駿は「動く城」というタイトルが面白いと言い、「動く城」の想像を膨らませてイメージボードを描ており、平成12年(2000年)に「ハウル」と「バロン」の制作が決まる。
そして、「ハウル」が「ハウルの動く城」というタイトルになり、東宝アニメーションの若手・細田守を監督に起用し、「バロン」が「猫の恩返し」となり、森田宏幸を監督に起用した。宮崎駿は両作品ともに企画だった。
しかし、何らかのトラブルがあったようで、細田守の「ハウルの動く城」班が解散してしまう。
宮崎駿は自分で演出するために「ハウルの動く城」を企画したわけではないので、自身の企画「毛虫のボロ」の制作準備に入っていたらしい。
しかし、「ハウルの動く城」で若手を監督に起用しようと模索したももの、若手の起用が実現しなかったので、宮崎駿が監督を手がけることになった。
しかし、宮崎駿は、イラク戦争の勃発により、戦争シーンを破棄したほか、ラストシーンが紛糾したため、作業が遅れてしまう。
このため、宮崎駿は「ハウルの動く城」の公開延期を決断。宮崎作品で初の公開延期で、初の失態となるが、公開を延期したことにより、各スタッフは無理なく作品に専念することができ、「ハウルの動く城」を完成させた。
その一方で、宮崎駿は「予備知識が無く、素直な状態で観て欲しい」として、映画の内容の紹介やテーマの解説を止め、本格的な宣伝も公開1ヶ月前からに限定し、宮崎駿もメディアには出なかった。
こうした異例の宣伝体制だったが、平成16年(2004年)11月「ハウルの動く城」は、「千と千尋の神隠し」を超えられなかったものの、大ヒットを記録した。
2005年、スタジオジブリが徳間書店から独立して、鈴木敏夫が代表取締役に就任し、宮崎駿は取締役に就任した。
その後、宮崎駿は映画「ゲド戦記」「崖の上のポニョ」「風立ちぬ」手がけ、「風立ちぬ」を最後に引退した。
しかし、東映動画時代の同僚で、スタジオジブリの色を作り続けた、色彩設計の保田道世が平成28年(2016年)10月5日に死去した。
この保田道世が病床で、宮崎駿に「次回作が観たい」と言っていたため、宮崎駿は保田道世の遺言を叶えるため、現役に復帰したと言われる(別説あり)。
さらに、平成30年(2018年)4月5日には高畑勲が死去した。
宮崎駿は、多くの仲間を失いながらも、「君たちはどう生きるか」の制作を続けている。
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