大八会と宮崎八十八の立志伝

色物中心の芸能プロダクション「大八会」を発足した宮崎八十八の生涯を描く立志伝です。

宮崎八十八の生涯

宮崎八十八は、しがない易者だったが、大阪の天満天神(天満宮)裏に出店したことが運の付き始めとなり、みるみるうちに易者として成功し、株式相場で大儲けした資金で、大正3年(1914年)1月に天満天神裏の寄席を買収して、「宮崎亭」の席亭となった。

天満天神裏といえば、吉本興業(吉本興行部)の創業である吉本泰三吉本せい(林せい)夫婦が1足先に天満天神裏の三流の寄席「第二文芸館」を買収して、明治45年(大正元年)4月1日に「文芸館」として寄席の経営を始めている。

そして、吉本泰三は、新内・怪口・音曲踊り・剣舞・琵琶・奇術など、二流・三流の扱いを受けていた色物を中心とした岡田政太郎の「反対派(岡田興行部)」と提携して格安路線をとって寄席を繁盛させた。

そして、吉本泰三・吉本せい夫婦は、大正3年に松島の「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収して、寄席のチェーン店展開を始めている。

さて、吉本泰三より3年遅れて寄席の経営を始めた宮崎八十八は、最初は「宮崎亭」を落語の「三友派」の寄席にしていたが、大正時代の初めに、落ち目になっている落語界で勢力の再編があり、落語界はゴタゴタが続いた。

こうした落ち目の落語勢に対して、二流・三流と蔑まれていた色物を中心とした「反対派」が台頭していたので、宮崎八十八は色物に着目し、活動写真館(映画館)を経営していた弁士の大山孝之と共同経営で、色物中心の芸能プロダクション「大八会」を旗揚げした。

「大八会」という名前の由来は、大山孝之の「大」と、宮崎八十八の「八」の1字を取ったものである。

「大八会」は小さな団体だが、万歳(漫才)のミスワカナ花菱アチャコや漫談の花月亭九里丸など、後に吉本興業で活躍するスター在籍しており、なかなか繁盛していた。

そして、「大八会」は落語界の再編によって流出してきた落語家を吸収して、「三友派」「反対派」に次ぐ三大勢力に成長したものの、「三友派」や「反対派」と比べると、月とスッポンという弱小勢力に過ぎなかった。

その後も宮崎八十八が株式相場で出した利益を元手にして寄席を買収して、「大八会」の勢力を拡大していたが、宮崎八十八は株式相場で莫大な損失を出して大正9年(1920年)に失踪してしまう(その後の消息は不明で大阪の演芸界から消えた)。

その後、「大八会」は講釈師・平野三栄に乗っ取られ、千日前へと進出したが、大阪の演芸界を制覇した吉本興行部(吉本興業)に迎撃され、「大八会」は昭和5年(1930年)に消滅した。

なお、吉本興業の関係者の立志伝を知りたい方は、「わろてんか-吉本せいの関係者の立志伝」をご覧ください。

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