安藤百福が田中龍夫を支援

日清食品の創業者の生涯を描く「安藤百福の立志伝」の「安藤百福が田中龍夫を支援」編です。

このページは「在日台湾人の安藤百福(呉百福)は日本一の大金持ち」からの続きです。

最初から読みたい方は「日清食品の創業者・安藤百福の立志伝」をご覧ください。

安藤百福が田中龍夫を支援

日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)は、山口県出身の内閣総理大臣・田中義一と親しくしていた関係で、戦前から大物政治家と親交を持っていた。

安藤百福と田中義一の出会いは、戦前、安藤百福が台湾から日本に来て事業をしていたときのことである。

安藤百福の叔父は、内閣総理大臣・田中義一と親しくしていたので、「商売をやるなら顔が広い方がよかろう」と言い、安藤百福を田中義一に会わせた。これが切っ掛けで、安藤百福と田中家の交流が始まった。

田中義一の長男・田中龍夫は、安藤百福と同い年だったこともあり、安藤百福と田中龍夫は意気投合した。

また、田中義一には、久原房之助という強力な支援者が居た。久原房之助は、日立グループの基礎となる久原財閥の創始者で、支援していた田中義一の誘いに応じて政界に転じ、「政界の黒幕」と呼ばれた人物である。

安藤百福は、田中義一との交流を通じて久原房之助などの大物政治家と出会い、戦前から大物政治家と親しくしていたのである。

さて、戦後、貴族院議員として日本国憲法の制定に関わった田中龍夫は、GHQ主導で制定された日本国憲法に不満を持っていた。

このため、貴族院議員が廃止されると、GHQの目の届かない地方からGHQに抵抗しようと考え、山口県知事選挙に出馬した。

田中義一の死後、田中義一に代わって田中龍夫の親代わりとなっていた久原房之助は、このとき、戦争犯罪人に指定されており、政治活動が禁止されていたため、田中龍夫の出馬を支援することが出来なかった。

そこで、久原房之助は、「日本一の金持ち」と呼ばれていた華僑(在日台湾人)の安藤百福に、田中龍夫の支援を依頼した。

安藤百福は、これを引き受け、友人の田中龍夫を支援し、田中龍夫は見事に昭和22年(1947年)の山口県知事に当選した。

その後、田中龍夫は国政へと打って出て、昭和28年(1953年)に山口1区から衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たし、その後も13回連続当選した。

安藤百福は田中龍夫に多額の政治資金を支援しており、田中龍夫を通じて佐藤栄作や福田赳夫などの有力政治家と知り合い、親交を持つのだった。

日清食品の創業者・安藤百福を脱税で逮捕」へ続く。

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