朝ドラ「なつぞら」に登場する仲努(井浦新)のモデルとなる伝説のアニメーター森康二(もり・やすじ)の生涯を描く立志伝です。
森康二は大正14年(1925年)1月28日に鳥取県鳥取市で生まれた。
森康二は幼少期を日本統治下の台湾で過ごした。中学時代にミケランジェロの伝記を愛読して建築家を志すようになり、昭和17年に帰国して東京美術学校(東京芸術大学)を受験した。
1度目の受験は失敗したが、浪人を経て、2度目の受験で東京美術学校の建築科に合格する。
昭和20年(1945年)に召集令状を受けて千葉県の鉄道隊に入隊するが、九州で終戦を迎えて昭和21年に復学する。既に校内は学生に占領されており、校舎の地下のボイラー室に住んだ。
森康二は、戦時中に政岡憲三が演出を手がけたアニメ「くもとちゅうりっぷ」を観て感銘を受けた。
さらに、卒業間際に、浅草の映画館でポール・アリーの短編アニメ「マイティマウス」シリーズの「グリーンライン」を観て衝撃を受け、アニメの道へ進むことを決意した。
そこで、森康二は政岡憲三にアニメの仕事がしたいと直訴すると、政岡憲三は「給料は安いし仕事が大変だ」と止めたが、森康二の熱意に負けて入社を認め、森康二(23歳)は昭和23年(1948年)に「日本動画」に入社する。
「日本動画」は、政岡憲三と山本早苗(山本善次郎)が「日本漫画映画」から独立して、昭和23年(1948年)に設立したアニメ映画制作会社だった。
日本動画に入社した森康二は、政岡憲三の「トラちゃんと花嫁」で彩色を担当して政岡憲三の訓導を受け、次に熊川正雄の「ポッポやさん・のんき駅長」で動画を務めた。
しかし、日本動画は経営不振が続いており、昭和24年(1949年)に政岡憲三が退社。昭和25年(1950年)には社員は全員解雇となる。
森康二は25歳にして失業してしまったが、日本動画で彩色を担当していた森縫と結婚し、家具設計事務所や西武百貨店の宣伝部などで生活費を稼ぎながら、イラストの持ち込みなどをした。
一方、経営不振に陥っていた「日本動画」は、再建されて「日動映画」へと改組しており、森康二は昭和28年(1953年)から「日動映画」のアニメ映画を手がけるようになり、昭和31年(1956年)に「日動映画」に入社する。
しかし、「日動映画」の経営状態は良くなかったようで、「日動映画」は東映の傘下に入り、昭和31年7月に「東洋のディズニー」を目指す「東映動画(東映アニメーション)」が設立された。
森康二は「東映動画」の第1作となる「こねこのらくがき」で、絵コンテと原画チーフを務め、続く日本初の長編カラーアニメ映画「白蛇伝」でも原画を担当した。
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「白蛇伝」を制作するスタッフは約40名で、原画を担当できるのは森康二と大工原章の2人だけで、スタップのほとんどが新人だった。奥山玲子や大田朱美なども新人として「白蛇伝」の制作に加わっている。
森康二と大工原章は、新人を指導しながら大量の原画を描かねばならないため、2人の負担を減らすため、「セカンド(第2原画)」という役職が設けられ、坂本雄作・紺野修司・喜多真佐武・寺千賀雄・中村和子・大塚康生がセカンドに就いた。
セカンドは、森班と大工原班に分かれるのだが、森康二と大工原章は作風も仕事ぶりも対照的だった。
森康二は、政岡憲三に師事した正統派で、細部に至るまで人には任せず、デリケートな絵を描き、セカンドが清書に困るほど、緻密に仕上げられおり、部下の絵に対しても、じっくりと時間をかけた絵しか認めず、自宅に持ち帰って手直した。
これに対して、大工原章は我流で、荒々しく誇張されており、これはと思った人には原画から任せ、時間が無いときは多少は荒い絵でもOKを出した。
このように2人は対照的で、会社としては融通の利く、大工原章の方が使いやすいという評価になったようだ。
森康二は、「こねこのらくがき」と「白蛇伝」を成功させた後、長編アニメ「こねこのトランペット」を制作する予定だったが、上層部からの横やりが入り、「こねこのスタジオ」へと変更され、精彩を欠く。
さらに、森康二は、過激の暴力や過度な感情表現を極端に嫌ったため、「少年猿飛佐助」でも才能を発揮することは出来なかった。
続く「安寿と厨子王丸」は会社から強引に押しつけられた企画だったうえ、リアリティーのある絵を求められた。
デフォルメされた絵を得意とする森康二は、「安寿と厨子王丸」の絵を、無駄なリアリティーの追求と痛烈に批判しており、相当なストレスを感じていたのだろう。「安寿と厨子王丸」の制作中に十二指腸潰瘍を起こして入院した。
軽度の十二指腸潰瘍だったので、手術の必要は無かったが、本人が早期復帰を強く望んだため、手術が行われた。
しかし、この手術が原因で、森康二は3年後に腸閉塞を発症し、病気と闘いながらアニメを制作することになるのだった。
制作スタッフは、会社に頭を押さえつけられて不満を持ちながらも、新しいアニメのスタイルを模索しており、これまで監督務めてきた藪下泰司に変わって、新人の芹川有吾が監督に起用された。
さらに、これまではバラバラだった作画の画風を統一するために「作画監督」が設けられ、昭和38年(1963年)公開のアニメ「わんぱく王子の大蛇退治」で、森康二が日本初の作画監督を務めた。
さらに、小山礼司の提案により、平面的な演出が採用されたので、森康二は本領を発揮することができ、「わんぱく王子の大蛇退治」は大作となり、大きな評価を得た。
「わんぱく王子の大蛇退治」の成功により、以降の作品からは画作監督が置かれるようになり、森康二は近代日本アニメの基礎を確立した。
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このようななか、昭和38年(1963年)に手塚治虫がテレビアニメ番組「鉄腕アトム」の放送を開始し、テレビアニメ時代が到来する。
TVアニメは過酷なスケジュールに追われたうえ、これまでのフルアニメーションが2コマ撮りだったのに対して、TVアニメは3コマ撮りだったので、描写の変更を余儀なくされた。
これまでアニメ界を牽引してきた森康二は38歳、大工原章は48歳になっており、過酷なスケジュールや技術的な違いに苦労し、TVアニメは若手が中心となって制作することいなった。
特に森康二は、仕事が緻密だったが故に仕事が遅く、1週間に1本のアニメを作るという過酷なスケジュールは致命的で、TVアニメに対応できず、精彩を欠くようになったと言われる。
昭和43年(1968年)公開の長編アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」は、高畑勲が初監督を務め、大塚康生が作画監督を務めた。さらに、宮崎駿が場面設計を担当し、森康二・奥山玲子・小田部羊一・宮崎駿・大田朱美などが原画を担当した。
このとき、森康二が手がけたのがヒロイン「ヒルダ」で、ヒロイン「ヒルダ」が日本初の美少女アニメとして大きな話題を呼んだ。奥山玲子も「ビルダ」を森康二の最高傑作と評した。
しかし、長編アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」は労働組合の主導で作られており、イメージも暗く、興行的には大失敗に終わったため、監督の高畑勲は降格処分となり、仕事を干された。
そこで、森康二は、今度は楽しいアニメを作ろうと考え、昭和44年(1969年)のアニメ「長靴をはいた猫」で2度目の作画監督を担当し、アニメ「どうぶつ宝島」で3度目の作画監督を担当した。
動物を擬人化した作品は森康二が最も得意とするところであり、「長靴をはいた猫」の評価は高く、主人公の猫「ペロ」が後に東映動画(東映アニメーション)のシンボルマークに採用された。
森康二は、東映動画時代に、高畑勲・宮崎駿・奥山玲子・小田部羊一・大田朱美など数多くのアニメーターを育てた。
しかし、「東映動画」は会社側と労働組合の対立を抱えており、良い作品が作れる状況ではなく、高畑勲・宮崎駿・小田部羊一といった優秀な人材が続々と「東映動画」を辞めていった。
そのようななか、昭和46年(1971年)に東映の社長・大川博が死去すると、赤字部門だった球団「東映フライャーズ」と「東映動画」がやり玉に挙がり、「東映動画」がリストラを開始。「東映動画」と労働組合が対立して、労使紛争に発展した。
森康二は「東映動画」に残っていたが、会社の理不尽さに腹を立て、長編アニメの依頼を断ったため、労使紛争が解決すると、退職を勧告された。
そこで、森康二(48歳)は昭和48年(1973年)に「東映動画」を退社してズイヨー映像(日本アニメーション)へ入社し、テレビアニメ番組「山ねずみロッキーチャック」に途中参加し、画作監督を務めた。
森康二は仕事が遅かったので、毎週1本のアニメを作るという過酷なスケジュールに追われたが、「山ねずみロッキーチャック」は動物を主役とするハートフルな物語だったので、本領を遺憾なく発揮した。
しかし、激務の影響で突然、視力が低下。治療法は無く、5年で失明すると診断され、アニメーターとしての余命宣告を受けてしまう。
幸い、失明は免れたが、激務に耐えられる視力ほどの視力は回復しなかった。
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高畑勲・宮崎駿・小田部羊一の3人は、Aプロからズイヨー映像(日本アニメーション)に移籍してきて、テレビアニメ番組「アルプスの少女ハイジ」で合流した。
森康二は「アルプスの少女ハイジ」の試作フィルムでは絵コンテ清書や作画を担当したが、放送ではオープニングの原画を手伝うにとどまった。
次の「フランダースの犬」では、森康二はキャラクターデザインを担当した。
その後、森康二は腸閉塞と視力低下に悩まされながらも、数々のアニメ番組を手がけるとともに、新人の指導にあたった。
ただ、森康二は、自分は作家ではなく職人だと言いながらも、原作漫画に依存するテレビアニメという現状に、自分の目指したアニメーションとは大きな違いを感じており、原作漫画のアニメには「マジンガーZ」と「ちびまる子ちゃん」くらいしか関わっていない。
森康二は、アニメや絵本を手がける一方で、藪下泰司に招かれて昭和56年(1981年)に東京デザイナー学院アニメーション科の講師に就任した。
そして、昭和60年(1985年)には小田部羊一・奥山玲子夫婦を東京デザイナー学院アニメーション科の講師に招き入れた。
平成元年(1989年)に3度目の手術を受けて自宅療養に入るが、病身を押して、平成2年(1990年)のアニメ「ちびまる子ちゃん」のパイロット版の原画を手がけたほか、平成3年(1991年)のアニメ「おおかみと7ひきのこやぎ」の監督とキャラクターデザインを務めた。
森康二は、ガンだったが、本人には告知されておらず、その後も次回作に向けて打ち合わせを行っていた。しかし、平成4年(1992年)9月5日に死去した。
森康二は、高畑勲・宮崎駿・小田部羊一など次世代を担うアニメーターを数多く育て、「アニメの神様」と称された。
なお、朝ドラ「なつぞら」の登場人物の各モデルは「なつぞら-実在のモデル」をご覧ください。
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