NHKラジオドラマ「アチャコ青春手帖」「お父さんはお人好し」などを手がけた放送作家・長沖一(ながおき・まこと)の生涯を描く立志伝です。
長沖一は明治37年(1904年)1月30日に大阪府大阪市南区北炭屋町で商人・長沖英一の長男として生まれた。母は長沖サトである。
長沖家は加賀藩の下級藩士という家系で、祖父の時に明治維新を迎えて没落したため、祖父が大阪に出てきて商売を始めたのだが、商売が上手くいったのか、かなりの借家を持っていて、父親の代には商売を辞めて家賃収入で生活していたようだ。
さて、長沖一は、御津尋常小学校を卒業して府立天王寺中学校へ入学したが、三高の受験に2度も失敗し、大正12年、19歳の時に大阪高校文科乙類に入学した。
1年上に藤澤桓夫・小野勇・崎山正毅が居り、同級生に秋田実・上道直夫・中山正善が居た。長沖一は同人誌に加わり、始めて小説「窓から」を発表し、文筆活動を開始する。
大正15年、大阪高校を卒業して、東京帝国大学文学部美学美術史学科へ入学すると、社会運動の拠点の1つ「新人会」に入る一方で、同人誌を発行し、やがて、藤澤桓夫らが発行する「辻馬車」に編集責任者として参加する。
昭和3年、中学時代の同級生・秋田実が東京帝国大学に入学してきたので、長沖一は本郷の学生寮「長栄館」で秋田実と同じ部屋に同居し、貧乏生活を送って友情を深めた。
昭和4年、長沖一は東京帝国大学を卒業後も、「長栄館」で暮らしながら、労働運動や執筆活動を続けた。
昭和5年に招集され、大阪歩兵第三十七連隊に甲種幹部候補生とし入隊し、10ヶ月後に除隊すると、東京へ戻り、文筆活動や労働活動を続けた。
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昭和7年(1932年)10月、吉本興業の林正之助が、吉本興業の東京支社で舞台監督をしていた橋本鐵彦(橋本鉄彦)を、参謀として大阪に呼び寄せ、吉本興業に入社させる。
秋田実は、昭和9年9月の室戸台風を切っ掛けに、大阪へ戻っており、一コマ漫画に面白い解説を書いていたところ、橋本鉄彦の目にとまり、吉本興業へスカウトされた。
このとき、秋田実が、長沖一の面倒も見て欲しいと頼んだので、橋本鉄彦は東京に居る長沖一と吉田留三郎を吉本興業に招き入れた。
こうして、長沖一は、昭和10年の春頃から、東京と大阪を往復しながら、吉本興業の仕事を手がけるようになるが、漫才の台本は書かず、「漫才の相談所」という表札を上げ、芸人の相談相手になっていた。
そのようななか、長沖一は、入営の体験を元に書いた小説「肉体交響楽」を書き上げるが、「肉体交響楽」を編集者に送った日に226事件が起きており、出版社は検閲を恐れて「肉体交響楽」の掲載を見送った。
長沖一は、これに落胆してペンを折り、拠点を大阪へと移して、吉本興業の仕事に専念するようになり、吉本興業の頭脳陣として活躍した。
また、昭和13年に発足した吉本興業の戦地慰問団「わらわし隊」の名付け親となり、「わらわし隊」を引率して、各地を巡った。
昭和16年に再招集され、朝鮮半島へと派遣されたが、昭和17年に召集解除となり無事に帰国し、昭和18年、39歳の時に、秋田実の紹介で医師の娘・皆吉和子と結婚した。
翌年の昭和19年に再び招集され、和歌山県の中部第二十四部隊に入隊し、そのまま終戦を迎えた。
昭和20年、長沖一は、終戦により召集解除となり、吉本興業に復帰すると、GHQの検閲に奔走する。
昭和21年にチフスに感染して死にかけるが、回復すると、執筆活動を再開する一方で、帝塚山学院高等学校と高等女学校の講師に就任し、昭和22年に吉本興業を退社した。
昭和25年、帝塚山学院短期大学の開校に伴い、教授と文芸専攻主任に就任する。
また、執筆活動の一方で、秋田実と共に、横山エンタツのラジオ番組「気まぐれショウボート」を手がけてヒットさせる。
すると、NHKはラジオで伝説の漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」を復活させようと思い、花菱アチャコにラジオ出演を依頼するが、花菱アチャコは元相方・横山エンタツの二番煎じに成る事を危惧して、ラジオ出演を拒否し続けていた。
しかし、花菱アチャコは尊敬する長沖一が脚本を書くと知ると、一転してラジオ出演をOKする。
長沖一は覚えていなかったのだが、1度だけ、花菱アチャコ劇団のために「ぼたん雪」という芝居の脚本を書いたことがあり、花菱アチャコが「ぼたん雪」の脚本を気に入っていたのだ。
このため、秋田実が横山エンタツの担当となり、長沖一は花菱アチャコの担当となった。
こうして、昭和27年(1952年)1月、長沖一が脚本を手がけるNHKラジオドラマ「アチャコ青春手帖」の放送を開始するのだった。
「アチャコ青春手帖」の放送を開始するにあたり、主演の花菱アチャコは、大阪弁が喋れて自分のアドリブに対応できる相手役(母親役)として、「松竹新喜劇」に居た浪花千栄子の名前を挙げていた。
浪花千栄子は、「アドリブ王」と呼ばれた曾我廼家十吾に鍛えられていたので、アドリブの対応が上手かった。
しかし、浪花千栄子は、弟子のように可愛がっていた女優・九重京子に夫の2代目・渋谷天外を寝取られたため、2代目・渋谷天外と離婚し、「松竹新喜劇」を辞めて、行方不明になっていた。
このため、花菱アチャコは月宮乙女を相手役として「アチャコ青春手帖」の放送を開始したのだが、月宮乙女が2回で降板してしまう。
すると、長沖一は、花菱アチャコが推薦した浪花千栄子の方が良いというので、行方不明の浪花千栄子を探すことになった。
浪花千栄子は京都にいるという噂はあったので、NHKのプロデューサー富久進治郎は、その噂を手がかりに京都へ行き、浪花千栄子を探すのだが、見つからずにタイムリミットを迎えた。
しかし、もう1日だけ待ってみようと言うことになり、富久進治郎は再び京都で浪花千栄子を探しても、やはり見つからなかった。
ところが、富久進治郎は偶然、入った一杯飲み屋で、「この辺に浪花千栄子がいるはずなのだが」と漏らすと、店主が「浪花さんなら、さっき、銭湯に入っていきましたよ」と教えてくれ、銭湯で浪花千栄子を発見する事が出来た。
浪花千栄子は、京都公演に行く度に世話になっていた花の師匠の2階に住んでいたのだが、大阪へ行く電車賃も無い程に落ちぶれていたという。
こうして、花菱アチャコは、相手役に浪花千栄子を迎えると、浪花千栄子の柔らかい大阪弁が話題となり、「アチャコ青春手帖」は大ヒットし、映画化もされた。
戦後、菊田一夫が手がけたラジオドラマ「君の名は」が大ヒットした事は有名だが、「アチャコ青春手帖」は「君の名は」に負けず劣らぬの大ヒットだった。
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「アチャコ青春手帖」が終わると、再び花菱アチャコと浪花千栄子のコンビで、昭和29年4月からNHKラジオドラマ「アチャコほろにが物語-波を枕に」が始まるが、これは短命に終わった。
そこで、昭和29年11月から、花菱アチャコと浪花千栄子のコンビで、NHKラジオドラマ「お父さんはお人好し」が開始する。
「お父さんはお人好し」は国民的な人気番組となり、昭和40年3月まで続いた。
長沖一は、ラジオドラマを手がけてる間も、帝塚山学院で教鞭を執りながら執筆活動も続けるほか、日本放送作家協会の理事に就任。「NHK放送文化賞」「大阪府芸術賞」「日本放送協会放送文化賞」「大阪市民文化賞」も受賞している。
さて、長沖一は、「お父さんはお人好し」が終了した翌年の昭和41年に帝塚山学院大学が開校し、初代文学部長に就任する。
さらに、昭和50年4月にに帝塚山学院短期大学の学長に就任に、大学の教授と兼務する。
このころから、長沖一は癌の転移で腰痛を訴えるようになるが、このときはヘルニアと診断され、原因が不明の腰痛に苦しむようになり、昭和51(1976年)年7月に入院し、昭和51年8月に肺がんで死去した。72歳だった。死後、勲四等旭日小綬章が叙された。
長沖一は、晩年、井原西鶴の小説を書きたいと言っていたが、井原西鶴の小説を書くことは出来なかった。
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