中井栄三郎の立志伝

ファミリアの創業者・坂野惇子の生涯を描く「ファミリア創業者-坂野惇子の生涯」の登場人物を紹介する「村井ミヨ子(中井ミヨ子)の父・中井栄三郎の立志伝」編です。

中井栄三郎の略歴

中井栄三郎は、子供服ブランド「ファミリア」を創業メンバー村井ミヨ子(中井ミヨ子)の父親で、日綿実業(ニチメン→総合商社「双日」)の東京支店長や日華油脂の社長を務めた人物です。

スポンサードリンク

中井栄三郎の立志伝

中井栄三郎の画像中井栄三郎(なかい・えいざぶろう)は明治18年(1885年)12月に大阪府で、中井孫四郎の次男として生まれた。

中井栄三郎は、明治40年(1965年)に大阪高等商業学校を卒業して日綿実業(ニチメン→双日)に入社し、各地の支店を経て東京支店長に就任。ミャンマーやインド勤務を経て大阪勤務となる。

さて、昭和初期の日本は、関東大震災に伴う金融混乱や、第一次世界大戦終結による反動により、未曾有の不況(昭和恐慌)を迎え、有名な鈴木商店も昭和2年(1927年)に倒産した。

日綿実業は何とか最低限の融資を取り付けており、倒産は免れたものの、昭和恐慌の影響で昭和5年に大欠損を出し倒産の危機を迎えた。

日綿実業の社長・喜多又蔵は、南郷三郎を監査役に招いて、日綿実業の立て直しを図るが、昭和7年(1932年)に死去してしまう。このため、南郷三郎が喜多社長の後を引き継いで社長に就任した。

昭和3年(1928年)6月に日綿実業の取締役に就任していた中井栄三郎は、こうしたなかで頭角を現して昭和9年(1934年)6月に常務取締役に就任し、業績回復に尽力して日綿実業で中心的な人物となった。

そして、南郷三郎が率いる日綿実業は、日中戦争と第二次世界大戦の影響もあり、昭和15年(1940年)には歴史的な業績を上げ、日綿実業の立て直しに成功した。

南郷三郎は、日綿実業での活躍が認められ、日本政府の推薦により、日本貿易振興会社の社長に抜擢され、昭和16年(1941年)6月に日綿実業の社長を辞任し、日本貿易振興会社の社長に就任する。

このとき、南郷三郎は日綿実業の社長を塩崎喜八郎に任せた。さらに、南郷三郎は日綿実業と関連会社の関係を強化するため、日綿実業の中井栄三郎を日華油脂の社長に、日綿実業の八木清太郎を辻紡績の社長に送り込んだ。

こうして、中井栄三郎は昭和16年6月、南郷三郎の辞任に共って日綿実業の常務取締役を辞任して日華油脂の社長に就任。その後も日華油脂で活躍して、大阪財界に名を連ね、立志伝を成し遂げた。

中井栄三郎の妻

中井栄三郎は、栃木県の足利で綿業を営む富豪・田原家の原田定助の娘(長女)・原田キヨ(中井キヨ)と結婚した。

この富豪・田原家は、明治23年(1890年)に栃木県日光市足尾地区で起きた足尾銅山鉱毒事件で奔走した衆議院議員・田中正造の親族で、原田定助は田中正造を金銭的に支援し続け、足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した人物である。

三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)が生まれる

中井栄三郎が日綿実業(現在の総合商社「双日」)の東京支店長をしていた大正12年(1923年)3月4日に、三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)が生まれた。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)はクビにへその緒が巻き付いた状態で、仮死状態で生まれたうえ、未熟児だった。

中井栄三郎は「美代子」と名付けようとしたが、ミヨ子の祖父が3月4日という誕生日を記念して「三四子」と名付ける言い、意見が分かれたので、最終的に「ミヨ子」と名付けた。

さて、中井栄三郎は、村井ミヨ子(中井ミヨ子)が生まれた翌年、ビルマ(ミャンマー)へ赴任することになった。

中井栄三郎は、長女と次女を自分の実家に預け、長男を妻の実家に預けが、幼い三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)を連れ、妻・原田キヨ(中井キヨ)と共にビルマ(ミャンマー)へと赴任した。

父・中井栄三郎は、ビルマ(ミャンマー)で1~2年ほど過ごした後、インドへと赴任し、インドで次男が生まれました。

やがて、三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)が小学校に入る年齢になったので、妻・原田キヨ(中井キヨ)と三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)と次男は一足先に日本へ帰国した。

帰国した三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)らは、実家に預けていた預けていた長男・長女・次女と合流し、兵庫県神戸市の芦屋付近に住み、三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)は芦屋の精道小学校へ入学した。

やがて、父・中井栄三郎は大阪勤務になって帰国して家族と合流し、芦屋時代に三男が生まれた。

その後、医師の勧めも有り、空気の良い兵庫県芦屋市山手町の竹林の中に家を建て、一家はそこへ引っ越した。

スポンサードリンク

三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)の結婚

昭和19年(1944年)ごろ、中井栄三郎は三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)に、縁談を勧めた。

結婚相手は、大阪・船場の旧家・村井家の村井完一である。

三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、まだまだ学びたい事ががあったので、「まだ結婚はしたくない。ましてや、村井のおじさんだけは絶対に嫌」といって結婚を拒否した。

しかし、中井栄三郎が「嫌なら、いつでも戻ってきてもいい」と説得したので、三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)は昭和19年(1944年)に村井完一と結婚した。

三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)を応援する

戦後、三女・村井ミヨ子(中井ミヨ子)は坂野惇子からベビーショップ・モトヤ(後のファミリア)の創業に誘われると、中井栄三郎は「ご迷惑を掛けない程度なら」と言って応援した。

村井ミヨ子(中井ミヨ子)の夫・村井完一も、初めは村井ミヨ子(中井ミヨ子)が仕事を持つことに賛成していたが、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は体が弱かったので、主治医が仕事を持つことに反対すると、夫・村井完一は一転してベビーショップ・モトヤへの参加を反対した。

そのとき、中井栄三郎が「無理をしないで、ご迷惑を掛けない程度なら仕事をもった方がいい。今後の世の中は女性も家の中に閉じこもるべきではない」と言って村井完一を説得したので、村井ミヨ子(中井ミヨ子)は、坂野惇子のベビーショップ・モトヤ(後のファミリア)を手伝うことになった。

なお、小説「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の登場人物の一覧は「ファミリア創業者-(坂野惇子)の生涯-登場人物のまとめ」をご覧ください。

スポンサードリンク