野庭高校・吹奏楽部を強豪校に育て上げた中澤忠雄の妻・中澤信子の立志伝です。
中澤信子は、元プロのチューバ奏者・中澤忠雄の妻で、夫・中澤忠雄が野庭高校の吹奏楽部を指導するようになったことより、野庭高校の吹奏楽部と関わるようになる。
夫・中澤忠雄は交通事故の後遺症の影響で、オーケストラを引退して音楽教室を開催しており、中澤信子は当初、「音楽教室と重ならないからしら」と心配する程度だったが、夫・中澤忠雄が次第に吹奏楽部の指導に熱を入れ、毎日のように吹奏楽部の部員を自宅に招くようになり、中澤家が合宿所のようになった。
野庭高校は偏差値の低い不良高校で、中澤信子はヤンキーやヤン姉といった
不良の吹奏楽部員に戸惑いながらも、吹奏楽部員と交流を深めていき、吹奏楽部員から「おくさん」と呼ばれて親しまれた。
中澤信子は吹奏楽部員のために食事を用意するのだが、食べ盛りの高校生なので食費などで苦労しながらも、夫・中澤忠雄や野庭高校の吹奏楽部を陰で支え続けた。
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夫・中澤忠雄は平成8年(1996年)3月に行われた野庭高校・吹奏楽部の期演奏会で最後の指揮を振るい、野庭高校・吹奏楽部から引退し、平成8年(1996年)8月18日に死去する。享年61で、死因は胃癌だった。
中澤忠雄が指導した14年間で野庭高校・吹奏楽部は全国大会で7度の金賞、1度の銀賞に輝いて吹奏楽部の強豪校になっていたが、中澤忠雄の死後、野庭高校・吹奏楽部は事件などを起こして低迷し、全国大会へ進出する事は無かった。
さらに、野庭高校は、少子化の影響で、平成15年(2003年)4月に横浜日野高校と合併して神奈川県立横浜南陵高校となり、野庭高校・吹奏楽部も消滅してしまう。
中澤信子は、夫・中澤忠雄の死後、飲食店を開業し、野庭高校・吹奏楽部の卒業生との交流を続けていたが、平成16年(2004年)8月に死去する。
死去する前年に野庭高校が合併によって消滅しており、中澤信子は野庭高校・吹奏楽部のOBに「野庭高校の音楽を残したい」と希望を託していた。
野庭高校・吹奏楽部のOBは、中澤信子の死を切っ掛けに、音楽サークル「ナカザワ・キネン野庭吹奏楽団」を結成し、「野庭の音」を引き継いだ。
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