浪花千栄子の立志伝-松竹家庭劇の旗揚げ

NHKの朝ドラ「おちょやん」のモデルとなる女優・浪花千栄子の生涯を描く立志伝の第12話「-松竹家庭劇の旗揚げ」です。

浪花千栄子の立志伝の目次は「おちょやん-浪花千栄子の立志伝の目次」です。

舞台女優に転向

浪花千栄子は、市川百々之助の金銭トラブルでプロダクションを辞めた後、森本登良夫のプロダクションと沢田義雄のプロダクションで映画に出た。

しかし、プロダクションの消滅を機に映画界を諦め、地方巡業の一座に加わって舞台女優に転向し、昭和4年に松竹の新潮劇に入り、新声劇、第一劇場に出演して、新興成美団に入った。

ところで、浪花千栄子は、この頃、大阪・道頓堀の芝居茶屋「岡島」に住み込みで女中として働きながら女優をしていた。

この「岡島」の3階に、渋谷一雄という青年が居候していた。この渋谷一雄が後の2代目・渋谷天外である。

元々、浪花千栄子は、子供の頃に「岡島」の向かいにある仕出し料理屋「浪花料理」で奉公をしていたので、渋谷一雄とは幼なじみであり、気心の知れた仲だった。

そして、この渋谷一雄が松竹家庭劇を旗揚げすることになる。

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松竹家庭劇の旗揚げと渋谷天外の襲名

喜劇界は、曾我廼家十郎と曽我廼家五郎が争っていたのだが、曾我廼家十郎の死後は曽我廼家五郎が喜劇界を独走していた。

松竹は曽我廼家五郎の独走をよしとせず、曽我廼家五郎のライバルを作って競わせるため、曾我廼家十吾と渋谷一雄を支援して、昭和3年(1928年)9月に喜劇団「松竹家庭劇」を旗揚げさせた。

しかし、名前が悪かった。当時、「家庭」という言葉は新しく出来た言葉なので、「家庭劇」が理解されなかったのである。

「松竹家庭劇」を「まつたけ・いえにわげき」と読み、「なんや、庭師の芝居か」と思われるという有様だった。

しかも、昭和不況のまっただ中だった事もあり、「松竹家庭劇」は不入りだった。

そこで、松竹の白井松次郎は、話題作りのため、渋谷一雄に父親の芸名「渋谷天外」を襲名するように命じた。

渋谷一雄の父親である初代・渋谷天外は、曾我廼家十郎・五郎をしのぐ人気を誇る喜劇俳優だったのである。

渋谷一雄は、「渋谷天外」の名前を継ぐことなど考えてもいなかったので、曾我廼家十吾に相談すると、曾我廼家十吾は賛成してくれた。

ところが、渋谷一雄が調べてみると、父・渋谷天外は当時の金額で1万3000円の借金が残っている事が判明した。

当時は1000円で家が建つという時代だったので、1万3000円といえば大金である。

父・渋谷天外の名前を襲名すると、借金まで引き継がなければならないということで、渋谷一雄は渋谷天外の名前の襲名を拒否したのだが、松竹に押し切られる形で、昭和4年1月に2代目・渋谷天外を襲名した。

(注釈:渋谷天外を「しぶや・てんがい」と読むのは戦後のことで、戦前は「しぶたに・てんがい」と読んでおり、「しぶたに・てんがい」が本来の読み方である。)

浪花千栄子も松竹家庭劇に配属

曾我廼家十吾と渋谷一雄が旗揚げした「松竹家庭劇」は、役者が不足していたので、松竹の「新興成美団」の役者が助っ人として「松竹家庭劇」に出演していた。

浪花千栄子も「新興成美団」に居たので、助っ人として「松竹新喜劇」に出演しており、喜劇など嫌で嫌でたまらなかったのだが、昭和5年に松竹の指示で正式に「松竹家庭劇」の配属となった。

さて、2代目・渋谷天外の襲名による効果は無かったが、なんとか「松竹家庭劇」は公演を続け、昭和6年8月に初めての上京を果たして東京の明治座で公演し、翌月の9月には大阪の浪花座で3周年記念興行を行った。

ところが、3周年記念興行の直後、昭和6年9月に「松竹家庭劇」は突然、解散した。原因は2代目・渋谷天外と曾我廼家十吾の喧嘩別れだと言われる。

浪花千栄子の立志伝-2代目・渋谷天外と結婚」へ続く。

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