朝ドラ「なつぞら」に登場する菓子店「雪月(せつげつ)」のモデル「六花亭(帯広千秋庵)」の歴史を紹介します。
朝ドラ「なつぞら」に登場する菓子店「雪月」は、小畑雪之助(安田顕)の父親が創業した菓子屋で、小畑雪之助(安田顕)が2代目である。
小畑雪之助(安田顕)は、東京のパン屋「川村屋」で修行した優秀な菓子職人で、戦後は様々なアイデアで、北海道十勝にちなんだお菓子を作り、菓子店「雪月」を北海道で有数のお菓子メーカーへと成長させる。
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菓子店「雪月」のモデルは、北海道の菓子メーカ「六花亭」なのですが、「六花亭」は「帯広千秋庵」から社名を変更しており、少し複雑になるのですが、「六花亭」が設立される経緯を紹介します。
万延元年(1860年)に秋田藩の下級藩士・佐々木吉兵衛が函館港で甘い物を売り始めたのが、「千秋庵」の始まりである。
「千秋庵」から、暖簾分けして「小樽千秋庵」が創業し、さらに「小樽千秋庵」から暖簾分けして岡部武二が「札幌千秋庵」を創業した。
そして、「札幌千秋庵」の支店という形で、昭和8年(1933年)に岡部勇吉が「帯広千秋庵」を創業した。この「帯広千秋庵」が後の「六花亭製菓」である。
しかし、支店「帯広千秋庵」の経営者・岡部勇吉は結核により、店の継続が困難となり、昭和12年(1937年)に閉店を決めた。
ところが、本店「札幌千秋庵」の岡部トヨが、「どうせ閉店するのなら、1度、小田豊四郎に任せてみよう。ダメでも勉強になる」と言うので、本店「札幌千秋庵」で働いていた甥・小田豊四郎に支店「帯広千秋庵」を任せることにした。
こうして、小田豊四郎が支店「帯広千秋庵」を引き継いで、支店「帯広千秋庵」の経営を開始した。
朝ドラ「なつぞら」に登場する小畑雪之助(安田顕)のモデルとなるのが、この小田豊四郎である。
さて、小田豊四郎は、砂糖を使わずとも作れるアイスクリームやカボチャ饅頭で戦後の物資不足を乗り切りると、闇市で本物の砂糖を購入して菓子を作るようなり、次第に和菓子から洋菓子へと路線を変更し、昭和27年(1952年)に「帯広千秋庵製菓株式会社」を設立した。
そして、小田豊四郎は、帯広の銘菓を作ろうと考え、十勝地方に由来するネーミングのお菓子を次々と発売した。
その後、小田豊四郎はチョコレートに目を付け、チョコレートの製造販売を開始。このとき、日本初のホワイトチョコレートを販売する。
しかし、チョコレートと言えば、黒か茶色が常識だったので、ホワイトチョコレートは全く売れなかった。
ところが、鉄道会社のキャンペーンによって、北海道に旅行する若者が増えてくると、旅行者の間でホワイトチョコレートが話題となり、ホワイトチョコレートが売れ始めた。
すると、ホワイトチョコレートの類似品が販売されるようになったため、「帯広千秋庵」に類似品に関する苦情が寄せられるようになった。
こうした苦情の大半は千歳空港だったので、「帯広千秋庵」は千歳空港へ進出しようとするが、千歳空港は本店「札幌千秋庵」の商圏だったため、本店「札幌千秋庵」が許可しなかった。
そこで、小田豊四郎は「株式会社ふきのとう」を設立し、「株式会社ふきのとう」として千歳空港に進出しようとしたが、本店「札幌千秋庵」は認めず、「帯広千秋庵」の暖簾を返上するように要求した。
小田豊四郎は本店との商圏問題に悩んだが、母親や眼鏡販売「イワキ」の会長・岩城二郎に背中を押されて、暖簾を返上した。
そして、妻・小田淳子の助言により、東大寺管長の清水公照師に新しい名前を付けてもらうことにした。
すると、清水公照師は、北海道にちなんで、雪の結晶の別称である「六花(りっか/ろっか)」を使うことにして、「六花堂」「六花家」「六花庵」「六花亭」と順番に言っていき、「うーん。・・・六花亭だ。お菓子屋に行き詰まったら、料亭でもやれ」と言い、「六花亭」と名付けた。
こうして、小田豊四郎は昭和52年(1977年)5月に「六花亭製菓」へと社名を変更したのである。
そして、「六花亭製菓」の誕生を記念して、十勝を開拓した依田勉三の「晩成社」が製造した「マルセイバタ」から名前を付けた「マルセイバターサンド」を作った。
北海道には菓子メーカー「柳月」もあるが、「六花」が雪の結晶の別称ということから考えても、朝ドラ「なつぞら」に登場する菓子店「雪月」のモデルは「六花亭」と考えられる。
なお、朝ドラ「なつぞら」の登場人物の各モデルは「なつぞら-実在のモデル」をご覧ください。
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