日清食品の社名の由来と日清製粉の関係

チキンラーメンやカップヌードルで有名な日清食品の社名の由来に関する通説や別説を紹介します。

日清食品の社名の由来(通説)

日清食品の創業者となる在日台湾人の安藤百福(呉百福)は、戦後、中国籍を得て戦勝国民となり、戦争被害の保険金として四千数百万円(平成の価値で数百億円)を得て「日本一の大金持ち」となった。

そこで、安藤百福は慈善事業として、街にあふれている若者を集め、製塩事業や漁業を開始したり、専門学校「中華交通技術専門学院」を設立したりした。

そして、安藤百福は、昭和23年(1954年)9月に大阪府泉大津市汐見町で、海産物加工やなどを手がける「中交総社」を設立したが、昭和23年(1948年)12月に脱税でGHQに逮捕され、「4年の重労働」という実刑判決を受け、東京の巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収容されてしまった。

「中交総社」は、安藤百福の投獄中の昭和24年9月に大阪市北区曾根崎へ移転し、「サンシー殖産」へと商号を変更したが、安藤百福の財産が差し押さえられたため、休眠会社となった。

その後、出所した安藤百福は、ある人から頼まれて、華僑向けの信用組合「大阪華銀」の理事長になるが、信用組合「大阪華銀」は昭和31年(1956年)に取り付け騒ぎを起こして倒産してしまう。

安藤百福は、理事長としての責任を問われ、全財産を差し押さえられ、無一文へと転落した。

しかし、安藤百福は全財産を失っても事業意欲が衰えておらず、借家の庭に小屋を建てて即席麺の開発に取り組み、昭和33年(1958年)8月25日に「チキンラーメン」の発売を開始した。

会社は、休眠会社となっていた「サンシー殖産」を復活させていたが、チキンラーメンの発売から4ヶ月後の昭和33年(1958年)12月20日に社名を「日清食品」へと変更した。

「日清食品」の社名には、「日々清らかに豊かな味をつくる」という思いが込められているという。

これが日清食品の社名の由来の通説なのだが、日清食品の社名の由来には別説があるので、別説も紹介する。

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日清食品の社名の由来(別説)

日本のインスタントラーメンは、屋台のラーメンから発祥したのではなく、台湾の麺料理「鶏糸麺(ケーシーメン)」から発展した料理である。

元々、在日台湾人が故郷の台湾から「鶏糸麺」を取り寄せて食べていたのだが、戦後、在日台湾人が日本で「鶏糸麺」を作って食べるようになった。

やがて、大和通商の陳栄泰という在日台湾人が、「鶏糸麺」を商品化し、昭和33年の春に東京の百貨店で「鶏糸麺」を発売した。

時を同じくして、大阪でも東明商行の張国文という在日台湾人が、インスタントラーメン「長寿麺」を発売している。

さて、在日台湾人の安藤百福(呉百福)は、華僑向けの信用組合「大阪華銀」の理事長をしていたが、大阪華銀の資金を大豆相場に投資をして損失を出し、信用組合「大阪華銀」を倒産させ、横領・背任の罪で執行猶予付きの有罪判決を受け、全財産を差し押さえられ、無一文になってしまった。

そのようななか、安藤百福は、信用組合「大阪華銀」で顧問をしていた在日台湾人の許災亭(井上災亭)と再会する。

許災亭(井上災亭)は、東京で「鶏糸麺」を販売している大和通商の陳栄泰と知り合いで、「鶏糸麺」を大阪で販売するために関西代理店「三倉物産」を設立していた。

許災亭が「鶏糸麺」を見せると、安藤百福は大いに興味を示したので、安藤百福に大和通商の陳栄泰を紹介した。

安藤百福は陳栄泰から「鶏糸麺」の作り方を学び、関西代理店「三倉物産」の株主となって、大阪で「鶏糸麺」を製造・販売するようになった。この「三倉物産」が日清食品の前身だという。

さて、「鶏糸麺」は素麺を油で揚げた料理で、「鶏」という字が入ってることからもわかるように、「チキン味」だったため、許災亭が「鶏糸麺」を関西で販売するときに「チキンラーメン」という名前で販売していた。

しかし、「鶏糸麺」は台湾料理だったので、ニンニクが効いており、日本人には合わなかったのか、関西でも、売れなかった。

そこで、安藤百福は、日本人の舌に合うように改良を加え、「鶏糸麺」の麺を太くし、ニンニクを取り除き、現在の「チキンラーメン」を完成させた。

すると、安藤百福は、脱税で逮捕されたときに休眠会社になっていた「サンシー殖産」を復活させ、大和通商の陳栄泰に1袋2円のロイヤリティーを払う契約で、関西代理店「三倉物産」から独立し、大阪で「チキンラーメン」の製造・販売を開始した。

しかし、改良を加えた「チキンラーメン」も全く売れなかったので、安藤百福は許災亭(井上災亭)に相談した。

ちょうど、このころ、民間人の正田美智子と皇太子・明仁親王(平成の今上天皇)の婚約が決まり、「ミッチーブーム」が起きていた。2人の成婚パレードを観るためにテレビが普及したというほどの大ブームだ。

そして、正田美智子の実家は日清製粉の創業家で、正田美智子の父親は日清製粉の社長・正田英三郎だったので、連日のように、日清製粉がマスコミに取り上げられていた。

そこで、許炎亭(井上災亭)が、登場したばかりの即席麺は安全性に不安があるので、正田美智子の実家の日清製粉にあやかった名前を付ければ、消費者も安心して買うだろうと助言すると、安藤百福は膝をたたいて「そうだ」といい、社名を「日清食品」へと変更した。

「サッポロ一番」ブランドで有名なインスタントラーメン大手「サンヨー食品」という社名も、当時の一流企業「三洋電機」にあやかって名付けられており、大企業から名前を付けることは、よくあることだった。

安藤百福は、「ミッチーブーム」に便乗する形で、「日清」という社名を前面に押し出して宣伝すると、皇室効果により、全く売れなかった「チキンラーメン」が爆発的に売れ出した。

さらに、安藤百福は「ミッチーラーメン」という商標を取得したが、日清製粉から待ったがかかったらしく、「ミッチーラーメン」という商標を使用しない代わりに、日清製粉から18金製の宝船の置物をもらい、日清製粉と本格的に取引を開始した。

こうして社名を「日清食品」へと変更した安藤百福は、「日清食品」という社名をフル活用して、昭和34年のミッチーブームに便乗してチキンラーメンの売り上げを伸ばして現在の地位を築いたのである。

なお、日清製粉が昭和37年(1962年)に食品事業に進出したさい、「日清食品」が既に使われていたので、「日清食品」という社名が使えず、「日清フーズ」とした。

すると、日清食品の安藤百福は、昭和45年(1970年)にアメリカへ進出したとき、再び日清効果にあやかったのか、アメリカで現地法人「ニッシンフーズ」を設立した。

アメリカの現地法人「ニッシンフーズ」は、日清製粉への配慮なのか、通称で「米国日清」「アメリカ日清」と呼ばれることが多い。

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