チキンラーメンと日清焼そばの食中毒事件

日清食品の創業者・安藤百福の生涯を描く「安藤百福の立志伝」の「チキンラーメンと日清焼そばの食中毒事件」です。

このページは「日清食品の日清焼そば-歴史と誕生秘話」からの続きです。

チキンラーメンと日清焼そばの食中毒事件

日清食品安藤百福(呉百福)は、即席ラーメン業界で起きた泥沼の特許紛争を制して、業界一本化に向けて動いていた。

そのようななか、昭和39年(1964年)5月に日清食品が販売する即席ラーメン「チキンラーメン」で、食中毒が発生する。

それを聞いた日清食品の安藤百福(呉百福)は驚いた。チキンラーメンは、160度の油で揚げているため、食中毒など起こらないはずなのだ。

そこで詳しく調べてみると、食中毒を起こしたチキンラーメンは、袋こそチキンラーメンと同じだが、中身は粗悪品というチキンラーメンの偽造商品だったと判明し、1ヶ月後にチキンラーメンの偽造団が逮捕され、事件は解決した。

ところが、チキンラーメン食中毒事件から3ヶ月後の昭和39年(1964年)8月1日に、今度は日清食品の「日清焼そば」で食中毒事件が発生する。

安藤百福(呉百福)は、業界団体「日本ラーメン工業協会」を設立して、理事長に就任し、即席ラーメン業界のトップに君臨した矢先のことだった。

前回、食中毒を起こした「チキンラーメン」は偽造品だったが、今回、食中毒を起こした「日清焼そば」は、偽造品ではなく、日清食品が製造した正真正銘の「日清焼そば」で、食中毒の原因は油の酸化だった。

汁物の即席ラーメンは夏になると売り上げが落ちていたが、汁の無い「日清焼そば」は夏でも爆発的に売れていたため、小売店は夏に「日清焼そば」を大量に仕入れていた。
そして、小売店が、真夏の炎天下でも、仕入れた「日清焼そば」を段ボールに入れたまま、日の当たる店先に積んでいたため、「日清焼そば」の油が酸化し、食中毒が発生したのだ。

保健所の調査でも、食中毒の原因は小売店側の管理方法にあると判断された。

そこで、安藤百福(呉百福)が小売店の調査に乗り出すと、商品管理についての知識が無い小売店が多いと判明する。

小売店は新しく届いた「日清焼そば」を古い在庫の上に積み増しており、上に置いた新しい在庫から陳列していくので、下になった古い在庫は相当な期間が過ぎていた。

また、日清食品は出荷する段ボールに製造年月日を書いた小さな紙を入れていたが、小売店は製造年月日を書いた紙を気にしていなかったのである。

食中毒の責任は小売店にあったが、日清食品の安藤百福(呉百福)は、理由の如何を問わず、批判を受けなければならないのはメーカーだとし、全社を挙げて商品を回収し、材料や製造工程を再検討するとともに、小売店を回って商品の管理方法などを指導した。

(注釈:安藤百福は商品を回収したが、痛んでいない商品は再出荷したと証言している。)

このころ、即席ラーメン業界では、安売り合戦による乱売が激化しており、安いだけの粗悪品が横行していたので、ときどき、インスタントラーメンによる食中毒は起きていたのだが、昭和39年(1964年)に各地で食中毒が相次いだ。

チキンラーメンの食中毒も日清焼そばの食中毒も日清食品の責任では無かったが、昭和39年(1964年)に食中毒が集中したうえ、業界トップの日清食品が食中毒を出したことで、即席ラーメンのイメージは悪化し、日清食品の評判は地に落ちた。

このため、倍々ゲームで伸び続けてきた即席ラーメンの需要は、食中毒が多発した昭和39年(1964年)をきっかけに頭打ちとなり、成長率が鈍化した。

そこで、日清食品の安藤百福(呉百福)は、窮地を打開するため、「日清焼そば」に製造年月日を刻印することを思いついたのだった。

「安藤百福が即席ラーメンに製造年月日の導入」へ続く。

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