北海道十勝地方の製菓店「六花亭製菓」の初代社長である小田豊四郎(おだ・とよしろう)の立志伝です。
注釈:立花亭の創業者を小田豊四郎とする資料もあるのですが、当サイト「立志伝」では立花亭の創業者は岡部勇吉とします。
小田豊四郎は、大正5年(1916年)3月13日に北海道函館市で、小田佐太郎の長男として生まれた。母は小田トシである。
「豊四郎」という名前なので、4男だと勘違いされることが多いが、父親が姓名判断に凝っていたため、長男なのに「豊四郎」と名付けられた。四人兄弟の2番目だが、長女と次男は夭折している。
母・小田トシが岡部家の出身で、母方の祖父が北海道の製粉の基板を築いた岡部多古で、母方の親戚に札幌千秋庵の創業者・岡部武二が居るという家系だった。
父・小田佐太郎は、愛知県の出身で、函館の海産物問屋で番頭を務めていたが、大正9年(1920年)に野付牛町(北海道北見市)で雑穀商の会社を興した。
父・小田佐太郎は会社が成功して大儲けしていたが、酒に溺れたあげく、ハッカ相場で失敗し、会社が倒産してしまい、家族は離散することになった。
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小田豊四郎は、旧制・野付牛中学校(北見北斗高校)を卒業して、エリートが集まる富山県の薬学専門学校を受験したが、受験に失敗してしまう。
小田豊四郎は受験から戻ってくると、父・小田佐太郎の会社が倒産したことを聞かされた。家族がバラバラに生活する事になり、小田豊四郎は、叔父・岡部武二が経営する菓子店「札幌千秋庵」で働くことになった。
そこで、叔父・岡部武二は菓子屋「札幌千秋庵」にパン部門を設立しようと考え、小田豊四郎を東京・銀座のパン屋「中村屋」に5年間の修行に出すことにした。
しかし、パン屋「中村屋」は、既に新人店員の採用選考を終えていたので、小田豊四郎の採用を断った。
このため、小田豊四郎は、昭和8年(1933年)3月に札幌千秋庵に入店し、配達や掃除などの下働きに始まり、入店1年後に菓子修行を開始した。
札幌千秋庵帯を経営する叔父・岡部武二は、お菓子を作ることが人生の全てだという人で、小田豊四郎は叔父・岡部武二を見て「もし、他の人から、君の道楽は何ですか、と聞かれたとき、お菓子を作ることです、と自信を持って言えるような人生を歩みたいものだ」と心に誓った。
入店4年目の昭和12年(1937年)、札幌千秋庵の支店「帯広千秋庵」を経営していた叔父・岡部勇吉が病気(結核)で店の経営が続けられなくなり廃業することにした。
元々、支店の「帯広千秋庵」は経営難だったので、廃業で話がまとまっていたのだが、叔母・岡部トヨが、「どうせ店をたたむのなら、小田豊四郎に任せてみよう。ダメでも勉強になる」と提案した。
小田豊四郎は修行中の身だったが、離散した家族が一つになれる事が嬉しくて、帯広千秋庵の経営を引き継いだが、支那事変が勃発した影響で、戦時色が強くなっており、贅沢品の菓子は全く売れなかった。
それでも、小田豊四郎は、叔父・岡部武二の「どんなに高くてもよいから品質の一番よい原料を使って、美味しいお菓子を作りなさい」「一所懸命、働いたら必ず経営はできる」という言葉を守り、最高の材料を使っていたので、材料費が嵩んで経営は火の車だった。
小田豊四郎は方々を回って葬式や出産祝いなどの注文を取り、母親と励まし合って2年間、何とか自転車操業で頑張ったが、限界に達し、昭和14年(1939年)に「次に支払いが出来なくなれば廃業しよう」と決めた。
そのようななか、取引していた塚本食糧興業の社長・鎌田長市が来て、「豊ちゃん、金が欲しいんだな、顔に書いてある。いくら欲しいんだ」と言うので、小田豊四郎は500円と答えた。
すると、社長・鎌田長市が500円を貸してくれたが、500円を貸す条件として「借金を返済してはいけないよ。砂糖を買いなさい」と言った。
小田豊四郎は、500円で借金を返済したかったが、鎌田長市に言われた通り、500円で大量の砂糖を購入した。倉庫に入らなかったので、大工に頼んで物置を作ってもらうほどの量だった。
それからまもなくして、日中戦争の影響にる物資不足から、昭和14年(1939年)10月に「価格統制令」が公布されたたため、砂糖が配給制になってしまい、砂糖の入手が困難になり、甘い菓子が作れなくなってしまった。
しかし、小田豊四郎は鎌田長市の助言に従って大量の砂糖を購入していたので、菓子が作れたため、客が帯広千秋庵に詰めかけるようになり、帯広千秋庵は大繁盛して借金を返済することが出来た。
小田豊四郎は昭和18年(26歳のとき)に三浦淳子と結婚したが、翌年に召集令状を受けて徴兵され中国へと出征し、中国で終戦を迎え、昭和21年(1946年)6月に復員した。
幸いなことに、帯広千秋庵は戦時中の建物疎開で解体されていたが、丁寧に解体されていたので、再建が可能だった。
さて、砂糖などは統制物資で入手困難だったが、比較的、簡単に入手可能な蜂蜜や牛乳や卵でアイスクリームが作れることが分かったので、中古の機材を買い求めて、苦労の末、アイスクリームを販売した。
小田豊四郎は、闇市のようにボッタリ価格ではなく、公定価格を守ったので、アイスクリームは飛ぶように売れた。
その後、カボチャ饅頭を作って売った。甘みがあれば売れた時代だったので、カボチャ饅頭も飛ぶように売れた。
しかし、カボチャが腐ってきたこともあり、最高の材料で最高の菓子を作ろうと思い直し、闇市で砂糖や小麦を仕入れて菓子を作り、販売を開始した。
他の業者が粗悪な甘味料を使ってボッタクリ価格で販売するなか、小田豊四郎は砂糖を使っても適正価格で販売したので、評判となり、帯広千秋庵は大いに繁盛した。
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昭和26年(1951年)、関西大学名誉教授の山崎紀男が、北海道帯広市で行った講演で、「知らない町に行って、その町を代表するようなお菓子を食べると、大体その町の文化の程度が分かる。お菓子は文化のバロメーターである」と話した。
さらに、山崎紀男は、お菓子の名前についても言及し、菓子の名前は土地の歴史とロマンを感じさせるような響きを持たせることが好ましいと話した。
それを聞いた小田豊四郎は、帯広市には銘菓と呼べるような菓子がないことに気づき、帯広を代表するような銘菓を作ることが自分の使命だと思うようになった。35歳のことだった。
そして、昭和27年(1952年)に「帯広千秋庵製菓株式会社」を設立して、社長に就任した。
戦後は、「サッカリン」や「ズルチン」という粗悪な甘味料が横行しており、菓子業者は粗悪な甘味料を使って利益を上げていた。
しかし、小田豊四郎は、叔父・岡部武二の「どんなに高くてもよいから品質の一番よい原料を使って、美味しいお菓子を作りなさい」という言葉を守り、本物の砂糖や最高の材料を使って菓子を作り続けていた。
昭和27年(1952年)、小田豊四郎の誠実さが帯広市から認められ、帯広開拓70周年・帯広市試行20周年記念式典の記念品の菓子を一任された。
小田豊四郎の独占契約だったので、市議や顔役から苦情が出たが、帯広市の担当者は、「ずっと注視してきたが、最上の菓子を作ってきたのは小田豊四郎だけだった」と言い、苦情を一蹴したという。
さて、小田豊四郎は、帯広の記念式典なので、帯広にちなんだ菓子を作ろうと考え、帯広を開拓した依田勉三の句「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」から「ひとつ鍋」という菓子(もなか)を作り、式典で配った。
すると、この「ひとつ鍋」が千秋庵創業以来のヒット商品となり、小田豊四郎は以降、物語を持たせた商品を次々と作っていくのだった。
なお、昭和43年(1968年)の北海道百年記念祝典のとき、天皇・皇后両陛下が帯広市を訪れ、「帯広千秋庵」の「ひとつ鍋」「らんらん納豆」「大平原」を買い求めている。
昭和34年(1959年)、小田豊四郎は福島県郡山市の菓子店「柏屋」が発行した子供の詩集「青い窓」に感銘を受け、次男・小田静司の担任・松田稔が家庭訪問に来たとき、子供の詩集を作りたいと相談した。
すると、担任・松田稔は、教員の仲間と、子供の詩を発表する場は無いかと話し合っていたのだが、資金の問題で実現に至らないことを明かした。
それを聞いた小田豊四郎は「費用は私がもちましょう。思う存分におやりください」と言った。
こうして教職員が子供たちの詩を編集し、小田豊四郎が資金を負担して、昭和34年(1959年)に子供の詩集「サイロ」を創刊することになった。
編集に加わっていた教員・草野尋匡の発案で、表紙とカットは画家・坂本直行(坂本龍馬の子孫)に頼むことになり、小田豊四郎が相談に行くと、坂本直行は子供の詩集に賛同し、無償で表紙とカットを引き受けた。
これが縁で、小田豊四郎は帯広千秋庵の包装紙のデザインを坂本直行に依頼し、昭和36年(1961年)秋から帯広千秋庵は坂本直行がデザインした包装紙を使い始めた。
このとき、花柄の包装紙を使っていた菓子店は無く、花柄の包装紙は評判を呼び、花柄の包装紙は帯広千秋庵のトレードマークとなった。
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昭和42年(1967年)、小田豊四郎(51歳)は欧米視察旅行をしたとき、ハワイで日本人が大量にチョコレートを購入しているのを見て、日本でチョコレートがヒットすると考えた。
そこで、帰国すると、チョコレートの権威・松田兼一から助言を得て工場を新築し、チョコレート部門を設置した。
このとき、松田兼一から、日本で生産されていなかったホワイトチョコレートの製造方法も教わった。
小田豊四郎は苦労の末、日本初のホワイトチョコレートの開発に成功し、販売を開始するが、チョコレートと言えば茶色や黒であり、ホワイトチョコレートは見慣れていなかったため、全く売れなかった。
特許の取得を考えていたが、全く売れないため、特許の取得も辞めたほどだった。
しかし、鉄道会社のキャンペーンの影響で北海道に若者の旅行者(通称「カニ族」)が増えると、旅行者の間でホワイトチョコレートが噂になり、昭和46年(1971年)秋からホワイトチョコレートは帯広千秋庵を代表するヒット商品となった。
ところが、特許を取得していなかったため、昭和47年(1972年)ごろから全国でホワイトチョコレートの類似品が販売されるようになった。北海道だけでも30社以上の菓子業者がホワイトチョコレートを作っていた。
やがて、類似品を購入した人たちから、「どうして売っていないんだ」「味が違う」などと苦情が来るようになった。主に千歳空港を利用した客からの苦情だった。
これらの苦情は「帯広千秋庵」が千歳空港に出店すれば、解決する話だが、千歳空港は本店「札幌千秋庵」の商圏だった問題は複雑だ。
「千秋庵」の暖簾を掲げる店には、お互いの商圏を犯さないという決まりがあったため、本店「札幌千秋庵」は「帯広千秋庵」が十勝地方から出ることを認めなかったのである。
このため、小田豊四郎は昭和51年(1976年)に関連会社「ふきのとう」を設立して、千歳空港へ進出しようとしたが、商標権を持つ本店「札幌千秋庵」が「千秋庵の暖簾(のれん)を使う以上は、十勝地方以外で販売することは許さない」と言い、暖簾の返上を要求した。
「帯広千秋庵」という看板を掲げている限りは、十勝地方から出来る事が出来ないが、長年使ってきた暖簾を返上すれば、一気に店が傾く恐れもある。
小田豊四郎は商圏問題で半年間、眠れないほどに悩み続けたが、母親に相談すると、母はアッサリと「暖簾を返上しなさい」と言った。
さらに、めがね販売「イワキ」の会長・岩城二郎に相談すると、岩城二郎は「暖簾にぶら下がって商売をしているのなら、札幌の言う通りにしなさい。でも、小田さんは暖簾に頼って商売をしてきたわけではないでしょう」と言い、暖簾の返上を勧めた。
小田豊四郎は母親と岩城二郎に背中を押されて、暖簾を返上すると、東大寺管長の清水公照師に店の名前を付けて欲しいと頼んだ。
すると、清水公照師は「北海道なら雪だ」と言い、雪の結晶の別称「六花(ろっか/りっか)」を使う事に決め、「六花堂」「六花家」「六花庵」「六花亭」と順番に言っていき、「うーん。・・・六花亭だ。お菓子屋に行き詰まったら、料亭でもやれ」と言い、「六花亭」と名付けた。
こうして、小田豊四郎は45年間も使っていた千秋庵の暖簾を返上し、昭和52年(1977年)5月に「六花亭製菓」へと社名を変更した。
このとき、小田豊四郎は記念の菓子を作ろうと思い、郷土史家に相談すると、郷土史家が十勝地方を開拓した依田勉三の「晩成社」が北海道で初めて製品化したバター「マルセイバタ」があることを教えた。
そこで、小田豊四郎が開発したのが「マルセイバターサンド」である。「マルセイバターサンド」は六花亭のロングセラー人気商品となり、現在も六花亭の売り上げの約半分を占めている。
小田豊四郎が「帯広千秋庵」の暖簾を返上すると、帯広市に千秋庵が無くなったため、「札幌千秋庵」が帯広市に進出してきた。
名前を変更したばかりの「六花亭」は、北海道随一の「札幌千秋庵」と対決することになってしまうが、帯広の市民が六花亭を支持した。坂本直行の包装紙はそのまま使っていたので、旅行者の売り上げも落ちなかった。
「六花亭製菓」は千歳空港への進出も成功し、続々と店舗を展開して販路を拡大していくが、この頃になると、副社長を務める長男・小田豊に会社の実務を任せていたようだ。
また、昭和56年(1981年)に釧路へ進出したのを機に、「株式会社・六花亭釧路」を設立し、次男・小田静司に会社を任せた。
昭和57年(1982年)には、お菓子作りや詩誌「サイロ」の発行のほか、寄席や演奏会の開催など、数々の功績が認められ、小田豊四郎は帯広市文化賞に選ばれた。
また、昭和57年(1982年)5月、坂本直行が膵臓がんで死去。詩誌「サイロ」の絵をどうするのか問題になったが、幸い、坂本直行は数多くのスケッチを残していたので、それを使わせて貰うことにした。
そして、小田豊四郎は坂本直行の作品を展示したくなり、着想から10年がかかったが、平成4年(1992年)に坂本直行記念館をオープンした。
坂本直行の絵は、詩誌「サイロ」創刊50周年にあたる平成22年(2010年)1月の600号まで使用された。
小田豊四郎は平成7年(1995年)に社長を退いて会長に就任したのを機に、お菓子を研究する「六花亭研究所」を設立して所長に就任し、お菓子の研究に励んだ。
また、日本洋菓子連合の副会長など数々の要職を歴任する一方で、平成15年(2003年)には食文化の発展を目的として「小田豊四郎記念基金」を設立して、食文化の発展に貢献した。
しかし、平成16年(2004年)ごろから介護生活を送るようになり、平成18年(2006年)8月6日に病院で死亡した。死因は老衰だった。90歳だった。
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