ファミリア品質を守った田村光子と岡本研究所の立志伝

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の生涯を描く実話「ファミリアの創業者・坂野惇子の立志伝」の第40話「ファミリア品質を守った田村光子と岡本研究所の立志伝」です。

第39話より前のあらすじは、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

ファミリアの製造責任者・田村光子

子供服ブランド「ファミリア」の創業メンバーの1人・田村光子は、洋反物問屋「田村駒」を創業した初代・田村駒治郎の長女として生まれた。

洋反物問屋「田村駒」は船場の古く厳しい仕来りの残る商家で、母・田村フクは古い仕来りに苦労しており、苦労する母・田村フクを見て育った田村光子は、商家との結婚を嫌った。

そこで、田村光子はサラリーマンと結婚する事を望み、安田信託に勤務していた田村陽(飯田陽)と昭和4年(1929年)に結婚して兵庫県神戸市東灘区岡本に居を構え、4人の子供を儲けて幸せな家庭を築いていた。

しかし、1300坪を有する田村光子の豪邸は神戸大空襲で焼失してしまい、わずかに蔵と離れの男衆の部屋が焼け残るだけとなり、戦後、田村光子は自宅敷地内で畑にしていた場所に家を建て住んでいた。

そして、田村光子は、新しい生地が買えないため、自分の着物を解いて子供の服を作っていたが、このような状況を何とかしなければならないと思った。

そこで、木川章子の第1の門下生として洋裁に覚えのある田村光子は、人から頼まれて洋裁の仕事を引き受けるようになった。

そのようななか、坂野惇子(佐々木惇子)田村江つ子(榎並江つ子)に手芸店を開く相談を受け、田村光子は子供服店「べーショップ・モトヤ(後のファミリア)」へ参加する事を決めた。

開業の話がまとまると、田村江つ子(榎並江つ子)は妊娠・出産時期ということもあり、坂野惇子の自宅と田村光子の自宅に別れて商品作りが開始された。

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田村光子と岡本研究所の立志伝

坂野惇子(佐々木惇子)らに誘われてベビーショップ・モトヤ(後のファミリア)に加わる事になった田村光子は、自宅にミシンを持ち込み、友達数人を呼んで、商品の生産を開始した。

やがて、20万円分の商品が完成し、ベビーショップ・モトヤがオープンすると、坂野惇子が販売責任者となり、田村光子が生産責任者となった。

戦後の日本は粗悪品が横行していたが、創業当初から、「母親になったつもりで作りましょう」「自分たちの子供に着せる服を作るつもりで作りましょう」を合い言葉に、子供の事を考えて手間暇をかけて服を作っていたため、商品は飛ぶように売れ、ベビーショップ・モトヤは常に商品不足であった。

田村光子は深夜まで作業し、店に居る坂野惇子や村井ミヨ子(中井ミヨ子)もお客様の前で仕上げ、店頭に並べる側から、売れていくという状態であった。

この状況を打開するため、田村光子は、本格的に縫製を勉強してる池田富江(岡本富江)に協力を要請し、池田富江(岡本富江)の協力を得ることに成功した。

それでも、昼間だけでは生産が追いつかず、毎日、作業は深夜1時~2時まで続き、田村光子の自宅の焼け残った男衆の部屋を改装し、池田富江(岡本富江)と渡辺国枝が住み込みで働くようになった。

そして、昭和26年(1951年)に5坪ほどの作業場を増設し、さらに、昭和26年末には焼け残った蔵の東に細長い部屋を増設して作業場を拡大した。

ところで、田村光子の自宅は作業場兼自宅となっており、自宅の至る所に生地が積み上げられ、いくら掃除しても床に落ちた糸くずなども目立っいた。また、毎日、夜は遅くまでアイロンがけなどの作業をしていた。

このころ、田村光子の長女が良い年頃になっており、縁談が舞い込むようになっていたため、心配した親戚が田村光子に「作業所と自宅は別にした方が良いのではないか」と忠告した。

すると、製造に追われていた田村光子は、親戚の言葉にハッとさせられ、坂野惇子に自宅と作業場の分離について相談したのである。

「ベビーショップ・モトヤ」として創業した坂野惇子らの店は、創業から1年後に株式会社ファミリアへと発展しており、坂野惇子も田村光子の自宅の事を気にしていたのだが、ついつい田村光子に甘える形になっていた。

そこで、昭和28年(1953年)、坂野惇子は、幸いにも田村光子の自宅の敷地が広大な事に甘え、田村光子の自宅敷地を借りて10坪の作業場を増設した。

これを切っ掛けに、田村光子は自宅での作業を止め、自宅と作業場を完全に分離した。

この作業場はファミリアの「加工所」と呼ばれ、ファミリアの拡大に伴って、増築を繰り返していった。

しかし、「加工所」では工場みたいに思われて好ましくないという意見があり、昭和28年(1953年)ごろから「岡本研究所」と呼ばれるようになり、皇后様のデザイナ・田中千代の服飾学校を卒業した生徒が大量に入ってくるようになると、「岡本研究所」という呼び方もすっかりと定着した。

ファミリア品質を守る田村光子

坂野惇子らが創業した「ベビーショップ・モトヤ」は、創業時から商品が飛ぶように売れ、品薄状態が続いた。

そして、ベビーショップ・モトヤは、子供服ブランド「ファミリア」へと発展して間もなく、阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、阪急百貨店に進出し、拡大が続いた。

昭和31年(1956年)5月に、夫の坂野通夫がファミリアの社長に就任するとともに、ファミリアは阪急百貨店の要請を受けて数寄屋阪急に出店し、東京出店を果たした。

さらに、昭和34年(1959年)には、美智子皇后(正田美智子)のご出産にさいし、商品80点ほどをご注文を賜わり、皇室御用達ブランドとなった。

さて、ファミリアの製造部門「岡本研究所」はファミリアの発展と共に増築を繰り返していたが、手間暇をかけて作って良質な服を作っていたため、常に製造は追いついていなかった。

阪急百貨店の要請に応じて東京出店を果たしたときも、ファミアは阪急百貨店から1フロアの大半を任せたいと言われたのだが、これを丁重に断り、1角を受け持つのみに留まっていた。

とにかく、ファミリアは取引してくれないことで有名で、こんな逸話が残っている。

ある百貨店の会長が、孫の出産祝いをもらった。あまりにも質が良かったので驚いて調べてみると、ファミリアの商品と分かり、ファミリアに取引を申し込んだが、断られてしまった。

そこで、百貨店の会長は、阪急百貨店の社長・清水雅に仲介を頼んだのだが、結局、ファミリアと取引することは出来なかった。

これは、ファミリアが手間暇をかけて良質な商品を作っていたため、生産が追いつかないためだった。

しかし、ファミリアへの需要は増加する一方であり、商品不足を解消して、ファミリアが企業として成長していくためには、量産化が必要であった。

そこで、ファミリアの量産化に尽力することなったのが、日本の既製服に革命をもたらした松方真である。

既製服に改革を起こした松方真

松方真は、明治時代に2度も内閣総理大臣を務めた松方正義の孫という華麗なる一族である。

また、姉の松方春(ハル・ライシャワー)は、駐日アメリカ大使エドウィン・オールドファザー・ライシャワーの妻ということでも有名である。

さて、松方真は、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、戦後、進駐軍(GHQ)の通訳として来日した。

その後、松方真は退官したが、アメリカで既製服について学んでた経歴を買われ、退官後もアメリカのインペリアル・ハウス社の日本工場の責任者として日本に残った。

そして、松方真が生産したシルクのドレスが伊勢丹で発売された。そのドレスはアメリカ式の「5号・7号・9号…」というサイズ展開だった。

これが、アメリカ式の既製服が日本で発売された最初で、各社はアメリカ式のサイズ展開に衝撃を受けた。

さて、佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は、昭和30年(1955年)に「レナウン商事」へと名前を変えた。

そして、レナウン商事の社長・尾上清は、いち早く既製服に着目して既製服に乗り出しており、松方真をレナウン商事に招いた。

一方、婦人服でトップを走っていた伊勢丹も、昭和31年に衣装研究室を設置して独自に日本人の体型データを集め、日本人の標準体型の作成を開始し、昭和36年(1961年)に松方真を迎え入れた。

このように、昭和30年代に入ると、各社は既製服に着目し始めており、既製服の研究を開始していたが、「S」「M」「L」という大ざっぱなサイズしかなく、しかも、サイズの規格が統一されていなかったため、既製服の普及は進まなかった。

そこで、松方真は既製服にアメリカ式の「5号・7号・9号…」というサイズを導入する事を提唱し、伊勢丹は作成した日本人の標準体型を基に「5号」「7号」「9号」「11号」「13号」「15号」という既成婦人服のサイズを制定した。

しかし、松方真は各社が足並みを揃えなければ、既製服は普及しないと考え、統一規格の制定に向けて奔走し、各社に強力を要請した。

こうして、伊勢丹・高島屋・西武百貨店・レナウン商事・オンワード樫山・山陽商事など各社が協賛し、昭和38年(1963年)11月に「5号」「7号」「9号」「11号」「13号」「15号」という既成婦人服の統一規格が制定され、サイズが色分けされることが発表されたのである。

さらに、紳士服でも統一規格の交渉が進められ、昭和40年(1965年)に紳士服も統一規格が制定された。

こうして、松方真は日本の既製服業界に改革をもたらし、この時に松方真らが導入した既製服のサイズは、日本工業規格(JIS)に引き継がれた。

さて、この既製服のサイズの統一がきっかけで、既製服が普及するようになり、「服は作る物」から「服は買う物」へと変わっていった。

これまでは、家庭で服を作るのは女性の仕事だったため、女性は花嫁修業として洋裁・和裁を学ばなければならなかったが、既製服の登場でその必要が無くなったため、花嫁修業の場は洋裁学校から料理教室へと移っていった。

こうして、日本の既製服に改革をもたらした松方真が、子供服ブランド「ファミリア」にも改革をもたらすことになる。

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ファミリアの品質を守る田村光子

昭和29年に日本は行動成長期に突入し、昭和31年の経済白書は「もはや戦後ではない」と結び、日本は新たなる時代を迎えた。

子供服ブランド「ファミリア」は、子供の事を考え、手間暇をかけて、3年は着られる丈夫な服を作っていたため、量産できないうえ、価格も高めになっていた。

しかし、既製服が普及し始めたため、ファッション業界は大量生産・大量消費時代を迎えており、皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」にも、服は1年も着られれば十分という意見が強くなりつつあった。

そのようななか、昭和39年(1964年)、坂野惇子は偶然、東京のホテルで松方真と出会った。話をしていると、松方真はレナウン商事を辞めて暇が出来たと言うことだった。

坂野惇子は「それならファミリアも一度、見に来て欲しい」と頼み、ファミリアは昭和39年(1964年)6月に松方真を招いた。

松方真は当初、1ヶ月の予定だったが、ファミリアに興味を持ち、3ヶ月残ってくれ、アメリカ式の量産システムの導入に当たった。

しかし、アメリカ式の量産システムは、手間暇を掛けて良質な子供服を作るというファミリアの理念に相反していた。

アメリカ式の量産システムは、最初に価格帯を設定し、そこから原価を割り出し、原価にそってデザインを考え、材料を選び、商品を作っていくという方法だった。

たとえば、販売価格を下げるため、デザインの段階からボタンを1つ減らすという商業デザインも確立しており、全てが合理的だった。

対するファミリアの生産方法は、上質な材料を使い、手間暇を惜しまずに納得が行く物を作り、出来上がった商品に利益を乗せて販売価格を設定するという方法だった。

確かにファミリアにとって量産化は必要だったが、アメリカ式の生産方法は合理的であるがゆえに、ファミリアを良さを失うことになる。

このため、ファミリアの生産責任者・田村光子は、松方真が導入しようとするアメリカ式の生産システムに対して、「画一的で潤いの無い商品になってしまう」と警鐘を鳴らし、アメリカ式を良しとしなかった。

そこで、田村光子は、松方真にファミリアへの残留を要請し、ファミリアの顧客にとって一番、何が大事なのかを考え、ファミリア方式とアメリカ方式を組み合わせ、ファミリアの良さを生かしつつ、量産化する方法を研究したのである。

このため、当初は1ヶ月の予定でファミリアに来た松方真は、最終的に1年間ファミリアに留まり、ファミリアの良さを生かしつつ、量産化を実現する生産ラインの研究に取り組んだ。

その結果、ファミリアに、時代のニーズに合わせた「プロパーソン部門」と標準の「オリジナル部門」が誕生した。

しかし、従来からのファミリア商品を望む声も多く、従来の作り方で生産する「ブテック部門」を昭和46年(1971年)に設置し、従来通りのファミリアの生産方法を復活させた。

ブテック部門は、優秀な縫い手15人を置いて、ファミリア本来の製法を続けており、採算は取れないが、ファミリアのイメージアップに繋がるので、大事しにしている部門である。

第41話に続く。

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