皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の3代目社長・岡崎晴彦の生涯を描いた立志伝です。
生年月日 | 昭和16年(1941年)6月15日 |
死没 | 平成20年(2008年)1月15日 |
没年齢 | 享年68 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
親 | 父・岡崎忠、母・岡崎君 |
子 | 長男・岡崎忠彦、長女・岡崎ミサ、次男・坂野雅(岡崎雅) |
岡崎晴彦(おかざき・はるひこ)は、昭和16年(1941年)6月15日に兵庫県神戸市で岡崎忠の長男として生まれた。
父・岡崎忠は、「華麗なる一族」として有名な神戸・岡崎財閥の一員で、神戸銀行を継いだ人物である。
ただし、岡崎晴彦の母・岡崎君が神戸・岡崎財閥の2代目総帥・岡崎忠雄の長女で、父・岡崎忠は婿養子である。
岡崎晴彦は、昭和39年(1964年)に甲南大学経済学部を卒業。卒業後にアメリカのアーモスト大学の3年生として編入して金融工学を学び、優秀賞を得て、昭和41年(1966年)にアーモスト大学を卒業する。
帰国後、三和銀行に入行し、三和銀行時代に、皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の創業者・坂野惇子(佐々木惇子)の長女・坂野光子(岡崎光子)と結婚する。仲人は、阪急百貨店の初代社長で、当時は東宝の社長をしていた清水雅が務めた。
そして、岡崎晴彦は結婚後の昭和42年(1967年)に、父・岡崎忠が会長を務める東京計器制作所へと移り、東京計器制作所時代に長男・岡崎忠彦が誕生する。
スポンサードリンク
昭和46年(1971年)、東京計器制作所と提携しているアメリカのペリーランド社が、岡崎晴彦の出向を要請してきた。
しかし、父・岡崎忠が、幼い子供を連れてアメリカへ渡ることに難色を示すと、岡崎晴彦はペリーランド社の好意を断るのであれば、これを機に東京計器制作所を辞めて、ファミリで働きたいと言いだした。
岡崎晴彦はインテリアデザインに興味を持ち、子供が出来てからはベビー用品に興味を持つようになっており、妻・坂野光子(岡崎光子)の実家が経営する子供服ブランド「ファミリア」で働きたいと思うようになっていたのである。
ファミリアは、妻・坂野光子(岡崎光子)の母・坂野惇子が戦後の昭和23年(1948年)12月4日に靴店「モトヤ靴店」の店内で、ショーケース2台を間借りしてオープンした「ベビーショップ・モトヤ」を前身とする子供服ブランドである。
ファミリアは、粗悪品が横行するなか、良質な子供服を作り続け、昭和38年(1963年)に皇后・美智子さま(平成の今上天皇の皇后)が第1子・浩宮徳仁親王をご懐妊したさい、高島屋がファミリアの出産用品を献上したことがきっかけで、皇室御用達ブランドとなっていた。
しかし、坂野光子(岡崎光子)の父・坂野通夫がファミリアの社長をしており、父・坂野通夫は馴れ合い体質を嫌い、身内を入社させないと公言していたので、岡崎晴彦の言葉を冗談だと思って相手にしなかった。
ところが、岡崎晴彦は、清水雅と尾上清に、ファミリアの入社を相談し、根回しをしていた。
実は、坂野通夫には大恩を感じる人が2人おり、それが清水雅と尾上清なのである。
清水雅は、阪急百貨店の初代社長で、創業したばかりのファミリアを見いだし、ファミリアを阪急百貨店へ出店させてくれた大恩人である。六甲山の別荘も隣同士で、坂野通夫は公私にわたり世話になり、ことある事に仕事の相談・報告をしていた。
また、坂野通夫はレナウン(佐々木営業部)時代に尾上清の秘書を務め、尾上清から経営哲学を学んでいた。ファミリアを設立できたのも、尾上清の協力があったからで、尾上清にも感謝していた。
岡崎晴彦が清水雅と尾上清にファミリアへの入社を相談すると、清水雅も尾上清も大賛成しおり、坂野通夫は大恩を感じる清水雅と尾上清から、「有能な人材を身内だからという理由で入社させないのは背任行為だ」と言われてしまい、反論出来なくなり、岡崎晴彦の入社を認めた。
こうして、岡崎晴彦は昭和46年(1971年)7月に課長としてファミリアに入社すると同時に、子会社ベビークローの役員に就任した。
そして、岡崎晴彦は子会社ベビークローで、ファミリアのオリジナル生地の生産・安定供給に尽力し、大きな成功をあげた。
昭和51年(1976年)、ジョセフ・マグニン・ジャパンが、銀座6丁目の銀座店を新宿本店に統合するため、銀座店を閉鎖することにした。
レナウンの理事長・尾上清は、ジョセフ・マグニン・ジャパンから、店舗統合の件で相談を受けており、ファミリアの坂野惇子に閉鎖する銀座店への出店を促した。
坂野惇子は、かつて銀座への出店を狙っていたが、地価の高騰から採算が取れないと判断し、銀座への出店を断念。さらに、第2の人生について考え始めていたので、尾上清の誘いを断ることにした。
しかし、清水雅から、銀座出店の件を十分に検討するようという助言を受け、ファミリアは尾上清と話し合った。
その結果、別会社として「銀座ファミリア」を設立し、銀座に出店することが決定。銀座ファミリアの取締役店長に岡崎晴彦が抜擢された。
そして、坂野惇子が取締役社長、坂野通夫が監査、尾上清が相談役に就任し、岡崎晴彦をバックアップする布陣が敷かれた。
さらに、三菱銀行の配慮により、藤井康が銀座ファミリアに出向してくれることになった。
岡崎晴彦は良き参謀・藤井康を得て、昭和51年9月に銀座ファミリアをオープンした。銀座ファミリアは初年度、目標を上回る売り上げを記録して大成功し、その後、売り場を拡大した。
その後、岡崎晴彦は兼任を解かれてファミリアの常務取締役に就任。設立30周年にあたる昭和55年(1980年)に専務取締役に就任した。
そして、ファミリア設立35周年にあたる昭和60年(1985年)に社長の坂野通夫が会長に、坂野惇子が副会長に退き、岡崎晴彦がファミリアの3代目社長に就任した。
バブル崩壊・少子化・消費税など厳しい時期を迎えたが、岡崎晴彦は経営者としての手腕を発揮。そして、平成20年(2008年)1月15日に神戸市中央区の病院で心不全のために死去した。
スポンサードリンク
岡崎晴彦と坂野光子の間に生まれた子供は、長男・岡崎忠彦、長女・岡崎ミサ、次男・坂野雅(岡崎雅)の3人である。
長男・岡崎忠彦は2003年にファミリアの取締役に就任し、2011年にファミリアの社長に就任した。
次男・坂野雅(岡崎雅)は、大恩のある阪急百貨店の初代社長・清水雅から名前を拝領しており、坂野惇子の願いを受け入れ、坂野姓を継いだ。(なお、子孫は存命中のため、詳細は自粛)
スポンサードリンク
Copyright(C)2010年9月 All Rights Reserved.