岡崎真鶴の立志伝

華麗なる一族と呼ばれる岡崎財閥の岡崎真鶴(おかざき・またづ/またず)の立志伝です。

岡崎家の祖

華麗なる一族と呼ばれる岡崎家の祖は、岡崎左衛儀に始まる。

岡崎左衛儀は、土佐特有の身分「一領具足」(半分農民・半分兵士)として、土佐の大名・長宗我部に仕えたが、長宗我部は関ヶ原の合戦で西軍に付いて改易されたため、岡崎左衛儀は帰農した。

その後、山内一豊が土佐を拝領して土佐に入ると、一領具足が山内一豊を拒んで反乱を起こしたが、一領具足の反乱は鎮圧された。

山内一豊は地元の不満を緩和するために地元から家臣を採用しており、そうした関連で、帰農していた岡崎左衛儀は山内一豊の子・山内忠義に召し抱えられることになった。これが、土佐・岡崎家の始まりだという。

そして、土佐・岡崎家は土佐藩の下級藩士として続き、岡崎左衛儀から数えて9代目の岡崎喜久馬の時に明治維新を迎えた。

この土佐藩士・岡崎喜久馬が、神戸・岡崎家の祖となる岡崎真鶴である。

なお、岡崎喜久馬(岡崎真鶴)は生年は不明で、正確な年齢は分からないが、土佐藩士・坂本龍馬よりも、10歳から20歳程度は年上である。

スポンサードリンク

岡崎真鶴の誕生-第三十八国立銀行の設立

明治維新を迎えた土佐藩士・岡崎喜久馬は、版籍奉還にともない、高知藩で税金に関する小役人となったが、廃藩置県により、高知県となったときに、お役御免となった。

その後、土佐藩士・岡崎喜久馬は、岡崎真鶴と名前を変え、明治4年11月7日に飾磨県(しかまけん)の「典事」という高級官僚として着任し、神戸・岡崎家が始まる。

飾磨県(兵庫県西部)とは、現在の兵庫県西部に存在していた県で、姫路藩が播磨一円16郡を吸収して誕生した県であり、このとき、兵庫県は飾磨県(兵庫県西部)と兵庫県(兵庫県東部)に別れていた。。

岡崎喜久馬が岡崎真鶴へと名前を変えたのは、明治4年(1871)4月に戸籍法が制定され、本名の使用を義務づけられたからだという。飾磨県(兵庫県西部)の官僚になった経緯は分からない。

さて、飾磨県(兵庫県西部)の官僚となった岡崎真鶴は、順調に出世していき、明治7年2月5日には飾磨県の権参事(ナンバー2)へと昇進した。

しかし、明治9年8月に兵庫県(兵庫県東部)と飾磨県(兵庫県西部)が統合されて兵庫県が誕生し、飾磨県が消滅してしまう。

これにともない、岡崎真鶴も兵庫県庁へと移籍することになったが、岡崎真鶴は兵庫県庁へは転出せずに退官し、財界へと身を投じて、第三十八国立銀行の設立に加わった。

第三十八国立銀行の設立

明治政府は明治維新で功績のあった大名・士族に賞典禄を与えていたが、賞典禄は政府歳入の3分の1にのぼり、明治政府の財政を圧迫した。

そこで、明治政府は士族に対して、帰農・帰商を推奨する士族授産政策をとり、最終的に大名・士族に与えていた賞典禄を全て撤廃して、金禄公債証書へと切替えた。

そして、士族に帰農・帰商を推奨する士族授産政策の一環として、明治政府は金禄公債証書を国立銀行の資本金とする特例を認めたため、金禄公債証書の受け皿として国立銀行の開設される動きが強まり、全国に153の国立銀行が開設されることになった。

岡崎真鶴は、こうした動きに乗り、神戸の大地主である四代目・伊藤長次郎(伊藤財閥)らとともに、明治10年(1877年)8月27日に姫路市竜野町1丁目7番地で第三十八国立銀行を設立し、初代頭取に就任したのである。

岡崎真鶴が頭取を務めたのは、飾磨県の権参事(ナンバー2)だったことから、兵庫県とのパイプ役として担ぎ上げられたのだろう。

以降、岡崎真鶴は、第三十八国立銀行の初代頭取を14年間務めるのだが、この間に生糸問屋「神栄」と山陽鉄道の設立にも加わることになる。

神栄の設立

神戸港は明治元年(1868年)に開港し、生糸の輸出が始まったが、そよりも9年前に横浜港が開港しており、既に横浜港が生糸の輸出で大きく先行しており、神戸港の生糸輸出は衰退したままだった。

明治18年(1885年)に兵庫県令(県知事)の森岡昌純が生糸貿易の振興に乗り出し、横浜の藤田組を勧誘して神戸支店を作らせたが、上手くいかなかった。

その後、森岡昌純の後任となった兵庫県令(県知事)の内海忠勝が明治20年(1887年)に関西の生糸状況を調査したところ、横浜港へ出荷しているのは生産量の3分の1にしか過ぎないと判明した。

横浜へ運ぶ運賃を嫌って横浜には出荷しない生産者も多く、輸出の知識が無いということで、国内向けに出荷している生産者が多かったのである。

これに目を付けたのが、神戸の大地主として有名な四代目・伊藤長次郎(伊藤財閥)である。かねてより親交のある、横浜の生糸問屋「渋沢商店」の渋沢栄一郎に生糸の輸出を勧められたらしい。

四代目・伊藤長次郎は第三十八国立銀行の発起人の1人で、第三十八国立銀行の副頭取を務めており、岡崎真鶴ら第三十八国立銀行の発起人とともに、生糸問屋「神栄」の設立に動いた。

こうして、四代目・伊藤長次郎は、明治20年(1887年)5月16日に兵庫県神戸市中央区栄町通3丁目5番地で「有限責任神榮会社(東証1部上場の神栄)」を設立し、神栄の初代社長に就任したのである。

神栄という社名の由来は、「神戸市」「栄町」という地名だと伝わっているが、「神戸が栄えるように」という願いも込め付けられたのだという。

さて、当初は神戸の生糸輸出も賑わったようだが、直ぐに低迷し、それに伴って神栄の業績も低迷したようで、神栄は設立から6年後の明治26年(1893年)5月に「神榮株式会社」へと改組し、神奈川県横浜本町3丁目40番地に横浜支店を出店した。

その後も神栄の神戸本店は業績の低迷が続いたが、横浜支店が好調に業績を伸ばし、横浜支店が神栄の基礎を築くことになった。

ところで、岡崎真鶴は神栄の設立発起人に加わり、神栄の株主になっているが、神栄の設立に平行して、山陽鉄道の設立に関わっていたので、神栄の役職には就いていないようである。

岡崎家が神栄に深く関わってくるのは、岡崎真鶴の養子・岡崎藤吉が神栄の3代目社長に就任してきてからである。

スポンサードリンク

山陽鉄道の設立

兵庫県の小書記・村野山人は、かねてより、鉄道の設置を夢見ていたが、時代が追いついておらず、実現しなかった。

しかし、明治17年から18年ごろになると、鉄道会社が高い利益を上げており、儲かる鉄道事業に注目が集まるようになっていた。

生糸問屋「神栄」を設立する1年前の明治19年(1886年)、かねてより鉄道会社の建設を夢見ていた村野山人は、人力車などの往来や各種交通機関を調査し、兵庫の有力者・12名を集めて、その結果を報告し、神戸鉄道の設立を提案した。

この有力者・12名の中に、岡崎真鶴や四代目・伊藤長次郎など第三十八国立銀行の発起人が含まれている。

神戸鉄道は神戸-姫路間を走る計画で、兵庫の利益になるため、有力者は神戸鉄道計画に賛同した。

さらに、政府の保護を受けやすくするため、三菱財閥の荘田平五郎、三井財閥の原六郎、大阪の藤田伝三郎、華族の九鬼隆義を発起人に加え、鉄道開通の許可を申請した。

しかし、鉄道長官・井上勝は、大阪から馬関(山口県下関)まで鉄道を開通させるという考えがあり、利益の高い神戸-姫路間だけを私鉄に任せ、姫路より西の利益の出ない部分を国が受けもつのは都合が悪いと反対した。

このため、政府は神戸から馬関(山口県下関)まで開通させないのであれば許可しないという条件を出したのである。

姫路から西に関しては調査もしていないし、難所もあったので、発起人らは動揺したが、三菱財閥の荘田平五郎が強く設立を主張したため、神戸-馬関(山口県下関)という条件を承諾して山陽鉄道を設立する事になった。

こうして、神戸-姫路間という鉄道事業は、神戸-馬関(山口県下関)間という大事業へと一転し、山陽鉄道を設立する事になったのだが、困ったのは山陽鉄道の社長である。

当初は発案者の村野山人が社長に就任する予定だったが、他県をまたいで馬関(山口県下関)まで線路を開通させる大事業となると、村野山人が社長では荷が重かったのである。

そこで、三菱財閥の荘田平五郎は中上川彦次郎を社長に推薦した。中上川彦次郎は、福沢諭吉の甥であり、政府要人・井上馨や井上鉄道長官・井上勝に近く、政府とのパイプ役に適していた。

山陽鉄道の社長選任には一悶着あったが、中上川彦次郎が山陽鉄道の初代社長に就任することになり、発案者の村野山人は、神戸有力者とのパイプ役として山陰鉄道の副社長に落ち着いた。

こうして、生糸問屋「神栄」が設立された翌年の明治21年(1888年)1月9日に山陰鉄道が設立され、発起人に名を連ねた岡崎真鶴は山陰鉄道の常議員を務めた。

岡崎真鶴の晩年

明治25年(1892年)1月27日、第三十八国立銀行の初代頭取を14年務めた岡崎真鶴は、任期満了により頭取を退任した。さらに、明治25年4月には山陽鉄道の常議員も退任した。

このころ、岡崎真鶴は魚崎村(兵庫県神戸市東灘区)に居を移しており、魚崎村で晩年を過ごし、明治26年(1893年)6月4日に死去した。

生年が不明なので、正確な没年齢は分からないが、伝承では67歳か68歳と伝わっており、60歳代で死去したと考えられている。

岡崎真鶴は死後、高知県福井村に埋葬されたが、養子の岡崎藤吉が明治29年(1896年)に神戸で岡崎家の墓を建立し、明治31年(1898年)に岡崎真鶴の遺骨を高知県福井村から神戸の墓へと移した。

岡崎真鶴の妻と子供と子孫

岡崎真鶴の妻は、土佐藩士・前田氏の娘・前田楠(くす)で、妻の前田楠は明治30年(1897年)6月12日に死去した。

子供(実子)は長男、長女・岡崎糸、次女・岡崎絹の3人だった。

しかし、長男が夭折したため、岡崎真鶴は佐賀藩士・石丸六太夫の末息子・石丸藤吉(岡崎藤吉)を養子に迎え、次女・岡崎絹と結婚させた。そして、2人の間には長女・岡崎豊が生まれた。

この婿養子・石丸藤吉(岡崎藤吉)が、岡崎家を継ぎ、「華麗なる一族」と呼ばれる岡崎財閥の祖を築くことになる。

一方、長女・岡崎糸は高知県の士族・竹崎久寿馬に嫁いで、長男・竹崎瑞夫(すみお)と次男・竹崎寿夫(ひさお)を儲けた。長男・竹崎瑞夫はダイハツの社長・会長を務めた。

スポンサードリンク