華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎真一の立志伝

華麗なる一族と呼ばれる神戸・岡崎財閥で同和火災海上保険を継承した岡崎真一の立志伝です。

岡崎真一の立志伝

岡崎真一岡崎真一は、明治40年(1907年)5月4日に兵庫県神戸市で、華麗なる一族・岡崎財閥の2代目・岡崎忠雄の長男として生まれた。母は岡崎藤吉の長女・岡崎豊である。

岡崎真一は、兵庫県神戸市の頌栄保育学園を経て、諏訪山小学校に入学した。

諏訪山小学校を卒業後、父・岡崎忠雄は神戸一中へ進学させたいと思っていたが、岡崎真一は体が弱かったため、全寮制の三田中学へ進学させた。

そして、岡崎真一は、大正15年(1926年)に三田中学を卒業して慶應義塾へと進んだ。

慶応義塾時代に、神戸財界の雄・榎並充造(バンドー化学の創業者)の長男・榎並正一と同じ下宿先に同居し、一緒に登校している。

岡崎真一は、全寮制の三田中学で抑制された生活をしていたので、慶應義塾へ入って解放され、若気の至りで羽目を外したという。

その後、岡崎真一は、昭和7年(1932年)に慶應義塾大学の法学部を卒業すると、父・岡崎忠雄の意向により、鐘淵紡績(カネボウ)へ入社し、肉体労働や営業をしたほか、米の仕入れを担当して米相場を学んだ。

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華麗なる一族と世界一周旅行

岡崎真一は鐘淵紡績(カネボウ)時代の昭和8年(1933年)の秋、西本願寺執行委員長・大谷尊由の娘・大谷高子と結婚した。

この大谷高子は、貞明皇后(明治天皇の皇后)と親戚関係にあり、大谷家に血筋が岡崎家に入った事で、神戸の岡崎財閥が「華麗なる一族」と呼ばれる要因になる。

(注釈:岡崎財閥の家系図は「華麗なる一族・岡崎財閥の家系図と立志伝」をご覧ください。)

ところで、岡崎家では、岡崎真一の妹・岡崎君が昭和6年(1931年)5月2日に海軍中尉・川島令次郎の四男・岡崎忠(川島忠)と結婚し、岡崎忠(川島忠)を婿養子として迎え入れていた。

そこで、岡崎真一・大谷高子夫婦と岡崎君・岡崎忠(川島忠)夫婦は一緒に、昭和8年(1933年)12月から昭和9年(1934年)8月まで世界一周旅行をして親睦を深めた。

岡崎財閥入り

岡崎財閥は、岡崎汽船・神戸岡崎銀行・神戸海上火災保険を柱として、関西を代表する財閥に成長しており、父・岡崎忠雄は、昭和6年(1931年)に岡崎財閥のグループ企業を統括する岡崎総本店を設立し、岡崎総本店の代表社員に就任した。

そして、岡崎汽船は、岡崎総本店の設立にともない、岡崎総本店汽船部となっていた。

さて、岡崎真一は世界一周旅行から帰国後の昭和10年(1935年)4月、2年8ヶ月在籍した鐘淵紡績(カネボウ)を退社して、岡崎財閥の岡崎総本店汽船部(岡崎汽船)へ入社した。

岡崎真一は子供の頃から船が好きで、テストハンマーと懐中電灯を持って船内を歩き回っていたが、岡崎総本店汽船部(岡崎汽船)に居たのは1年ほどで、昭和11年4月に岡崎財閥の神戸海上火災保険へと移った。

そして、岡崎真一は昭和12年に神戸海上火災保険の取締役に就任し、昭和14年に常務取締役に就任。昭和17年に父・岡崎忠雄が社長から会長へと退き、岡崎真一が社長に就任した。

同和火災海上保険の設立

岡崎財閥の神戸岡崎銀行は、大蔵大臣・馬場鍈一が提唱した「一県一行主義」により、神戸岡崎銀行・五十六銀行・西宮銀行・灘商業銀行・姫路銀行・高砂銀行・三十八銀行と合併し、昭和11年(1936年)12月に神戸銀行となった。

さて、日本は昭和16年(1941年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、第2次世界大戦へと突入していき、日本の損害保険業界も戦時統制下の影響で統廃合を進めていた。

このため、昭和17年(1942年)、神戸海上火災保険の社長・岡崎真一は、岡崎財閥傘下の朝日海上火災保険に、日本火災海上を加えた3社で合併の話を進めていた。

この合併はトントン拍子に話が進み、神戸海上火災保険は仮調印をするために日本火災海上へ出向いたのだが、日本火災海上は突如として手のひらを返し、合併を無かったことにしてまった。

後に日本火災海上・日本火災保険・帝国火災保険の3社が合併して、日本火災海上保険が誕生しており、このころには水面下で話し合いが行われていたのだろう。

さて、合併の話が振り出しに戻った神戸海上火災保険は、傘下の朝日海上火災保険に、共同火災海上保険を加えた3社で合併の話し合いを進めていた。

そこへ、昭和18年末になって、横浜火災海上保険から合併に加わりたいという申し出があったので、父・岡崎忠雄(石丸忠雄)は横浜火災海上保険を受け入れ、昭和19年(1944年)に4社合併で同和火災海上保険を設立した。

この合併は難航したが、父・岡崎忠雄(石丸忠雄)は神戸岡崎銀行の7行合併と同様に、合併を成功させるために1歩引いて相手の言い分を丸呑みし、同和火災海上保険の社長の座も会長の座も譲り、相談役に退いた。

岡崎真一も父・岡崎忠雄(石丸忠雄)の意を汲んで、社長の座を譲り、同和火災海上保険の副社長に就任した。

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戦後の財閥解体と岡崎財閥の二頭体制

戦後、岡崎財閥は戦争の影響でボロボロになり、もはや看板だけとなっていたが、岡崎財閥の岡崎総本店は財閥解体の第5次指定を受けて解体の対象となった。神戸で解体されたのは岡崎財閥だけだった。

そして、同和火災海上保険は財閥解体や公職追放の影響もあり、経営陣に若返りが求められ、昭和21年(1946年)6月に岡崎真一が同和火災海上保険の社長に就任した。

一方、神戸銀行も第2次公職追放を受けて主要役員が退陣したため、退陣する神戸銀行の頭取・八馬兼介の推薦を受け、父・岡崎忠雄(石丸忠雄)の婿養子・岡崎忠が昭和22年(1947年)2月に神戸銀行の頭取に就任した。

こうして、長男の岡崎真一が同和火災海上保険、婿養子の岡崎忠が神戸銀行を引き継ぐという二頭体制が確立した。

同和火災海上保険の存続

戦後、同和火災海上保険は、企業解体の指定を受け、神戸海上火災保険・横浜火災海上保険で1社、共同火災海上保険・朝日海上火災保険で1社に分割されることが決まった。

同和火災海上保険の社長・岡崎真一は、分割すれば巨額な赤字に陥るとして、率先して会社分割に反対し、GHQの保険担当官ロイストンに反対意見書を突きつけた。

保険担当官ロイストンとは親しくしていたが、保険担当官ロイストンの答えは「ノー」だった。

その後、過度経済力集中排除法が制定されることになり、GHQは「原則として合併前の状態に戻す」として、325社を解体企業に指定し、同和火災海上保険も解体企業の対象となった。

しかし、米ソ冷戦の影響で、アメリカが占領政策から復興政策へと切替えたため、日本製鉄や三菱重工など11社が分割され、東芝・日立など7社が子会社の独立などを命じられるに留まり、同和火災海上保険は存続する事が出来たのである。

華麗なる一族の岡崎真一の立志伝-岡崎財閥の衰退」へ続く。

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