華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎藤吉の立志伝

華麗なる一族と呼ばれる神戸・岡崎財閥の創始者・岡崎藤吉(石丸藤吉)の立志伝です。

岡崎藤吉の概要

岡崎藤吉岡崎藤吉(石丸藤吉)は、岡崎真鶴の養子となり、数々の苦難の末、岡崎汽船を創業して日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦の戦争特需で財を成し、神戸海上運送火災保険と神戸岡崎銀行を設立して岡崎財閥を築いた。

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岡崎藤吉の立志伝

岡崎藤吉(石丸藤吉)は、安政3年(1856年)3月7日に佐賀県佐賀市牛島町で佐賀藩士・石丸六太夫(石丸忠雄)の末息子(四男・八女)として生まれた。岡崎は結婚後の姓であり、生まれた時は石丸姓である。

岡崎藤吉(石丸藤吉)は次男と紹介されることもあるが、正確には四男である。父・石丸六太夫の長男・次男が夭折したため、四男の岡崎藤吉(石丸藤吉)が次男という扱いになっている。

石丸家の由来

佐賀藩の石丸家は、戦国時代に肥前(佐賀県)を中心に九州の北西部で勢力を誇った戦国大名・龍造寺の一族である。

この竜造寺家は、村中城の「村中龍造寺」、水ヶ江城の「水ヶ江龍造寺」、與賀城の「與賀龍造寺(与賀龍造寺)」の三家に別れており、村中城の「村中龍造寺」が本家筋である。

そして、分家の與賀龍造寺(与賀龍造寺)が、江戸時代、徳川家光の時に「石丸」を名乗るようになった。

岡崎藤吉(石丸藤吉)の実家・石丸家は、この與賀龍造寺(与賀龍造寺)の本家筋という名家だが、父・石丸六太夫は佐賀藩の下級藩士という低い身分だった。

実は、肥前(佐賀県)の竜造寺家は最盛期には、筑前・筑後・肥後・豊前などを治めて、九州地方の北西部でかなりの勢力を誇ったが、薩摩・島津家の侵攻を受け、島津家に下った。

その後、竜造寺家の重鎮・鍋島直茂が豊臣秀吉によしみを通じ、豊臣秀吉の九州征伐で活躍したため、竜造寺家は肥前(佐賀県)を安堵されたが、鍋島直茂が豊臣秀吉に認められて、竜造寺家の実権を握った。

豊臣秀吉の死後も、徳川家康は鍋島家による佐賀藩の支配を認め、竜造寺家は佐賀藩の名目上の藩主に過ぎなかった。

佐賀藩主・龍造寺高房は、こうした事態に失望し、妻を殺害して自害しようとした。自害は未遂に終わったが、その傷は深く、間もなく死去してしまう。

さらに、父・龍造寺政家が息子・龍造寺高房の後と追うように病死したため、竜造寺家は形式上の断絶となり、鍋島直茂の嫡男・鍋島勝茂が正式に佐賀藩主となった。

後に、無念の死を遂げた佐賀藩主・龍造寺高房が、化け猫になって現れるという話が作られた。世に言う「鍋島家の化け猫伝説」である。

さて、龍造寺の分家である與賀龍造寺(与賀龍造寺)は、佐賀藩鍋島家(鍋島藩)に仕えていたが、旧主の一族ということで、鍋島家からすれば邪魔な扱いだったのか、あまり扱いが良くなかったようである。

また、龍造寺を名乗る事に差し支えがあったのか、與賀龍造寺(与賀龍造寺)の5代目・龍造寺宗俊が徳川家光の時代に「石丸」を名乗るようになり、石丸家の祖となった。

岡崎藤吉(石丸藤吉)の生涯

石丸家の祖・龍造寺宗俊から数えて13代目が、岡崎藤吉(石丸藤吉)の父・石丸六太夫である。

父・石丸六太夫は佐賀藩鍋島家の下級藩士で、男子4人、女子8人という子沢山家族だったため、非常に生活は貧しかった。そのうえ、父・石丸六太夫は無類の酒好きだったので、莫大な借金を抱えていた。

このため、岡崎藤吉(石丸藤吉)は生まれて間もなく、口減らしのために農家へ出されたが、5歳の時に実家の石丸家へ戻る。

その後、父・石丸六太夫が故意にしていた元忠寺の住職・辨澄が岡崎藤吉(石丸藤吉)を気に入り、岡崎藤吉(石丸藤吉)を欲しいと頼んだ。

こうして、岡崎藤吉(石丸藤吉)は住職に請われて元忠寺の小僧となり、11歳の時に会得し、僧としての道を歩み始めた。

このようななか、明治元年に戊辰戦争が勃発し、兄・石丸忠英も戊辰戦争に従軍て活躍した。

すると、親戚の間で、こうした乱世に優秀な岡崎藤吉(石丸藤吉)を寺に入れておくことに異議が出る。

このため、兄・石丸忠英の要請で、岡崎藤吉(石丸藤吉)は明治2年(1869年)、13歳の時に還俗して実家・石丸家へと戻り、佐賀藩の藩校・弘道館で学んだ。

明治6年(1873年)2月、岡崎藤吉(石丸藤吉)は、陸軍将校をしていた兄・石丸忠英に伴って東京へ出て開成学校南校(後の東京大学)に学んだが、卒業せずに退学。その後は横浜で灯台守や通訳の仕事をしていたという。

明治8年(1875年)の春、岡崎藤吉(石丸藤吉)は渡米を思い立って出航したが、立ち寄った上海に留まり、上海に居た陸軍諜報官の事務を手伝い、上海で2年間を過ごした。

明治10年(1877年)に日本で西南戦争が勃発する。岡崎藤吉(石丸藤吉)は西南戦争の勃発を受けて上海から帰国して熊本に滞在していた。熊本で教師をしていたという。

西南戦争の終結後、熊本で無職となっていた岡崎藤吉(石丸藤吉)は、その存在が佐賀病院に入院していた兄・石丸忠英の知るところとなり、兄・石丸忠英に呼び戻されて佐賀県へと戻った。

その後、経緯は不明ながら、岡崎藤吉(石丸藤吉)は明治10年末に兵庫県の地を踏むことになる。

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岡崎真鶴の養子になる

経緯は不明ながら、兵庫県を訪れた岡崎藤吉(石丸藤吉)は、明治11年(1878年)に兵庫県庁で働いていた。県庁で通訳をしていたという。

その後、岡崎藤吉(石丸藤吉)は兵庫県庁の衛生課へと移り、当時、流行していたコレラの予防に貢献したとして大いに賞賛された。

ところで、岡崎藤吉(石丸藤吉)が兵庫県を訪れる前年の明治9年まで、兵庫県は、兵庫県(兵庫県東部)と飾磨県(兵庫県西部)に別れていた。

そして、飾磨県の権参事(副知事)が岡崎真鶴で、飾磨県庁衛生課の課長に、佐賀藩士の土橋多四郎という人物が居た。

そして、詳しい経緯は不明ながら、兵庫県庁衛生課で活躍した岡崎藤吉(石丸藤吉)は、佐賀藩士・土橋多四郎の推薦によって、第三十八国立銀行の頭取・岡崎真鶴に認められた。

岡崎真鶴は、土佐藩の下級藩士の出身で、明治維新の時に飾磨県(兵庫県西部)の官僚となり、順調に出世して飾磨県の権参事(副知事)にまで上り詰めた。

しかし、明治9年に兵庫県と飾磨県(兵庫県西部)が合併して現在の兵庫県が誕生したとき、岡崎真鶴は合併した兵庫県へは移らず、権参事(副知事)を辞職して実業界に身を投じ、姫路財界の有志とともに、明治10年(明治10年)8月27日に兵庫県姫路市竜野町で第三十八国立銀行を設立し、初代頭取に就任していた。

その後、岡崎真鶴は、生糸問屋「神栄」(東証1部上場)や山陽鉄道の設立にも加わり、兵庫県の財界で活躍した人物である。

岡崎藤吉(石丸藤吉)は、この岡崎真鶴に認められ、明治16年(1883年)に岡崎真鶴の次女・岡崎絹と結婚し、嫡子の居ない岡崎真鶴の養子となった。

以降、岡崎藤吉(石丸藤吉)は岡崎姓を名乗るようになる。

摂州灘酒家銀行の設立

岡崎真鶴の養子となった岡崎藤吉は、順調に出世し、明治20年(1887年)に魚崎村・横屋村・青木村・西青木村の4村の村長(当時の村長は県庁が指名する準公務員)に就任した。

岡崎藤吉が村長を務めた魚崎村は、酒で有名な灘五郷の1つで、岡崎藤吉は村長時代に地元の有志に勧められて酒造業に進出して、実業家としての1歩を踏み出していた。

このとき、酒造家は東京へ酒を輸出していたが、酒造家は船を持っておらず、酒の運搬を日本郵船に任せていた。

そこで、岡崎藤吉は魚崎村の酒造家を説得してまわり、自前で船を所有させた。船の所有は酒造家に好評であった。

明治21年(1888年)に村長が廃止され、岡崎藤吉は任期満了により村長を退任すると、灘五郷の酒造家とともに、明治21年に海運会社「摂州灘酒家興業(後の辰馬汽船)」と銀行「摂州灘酒家銀行(後の灘商業銀行)」の2社を設立し、その両社の重役に就いた。

摂州灘酒家興業は酒を東京・新川の問屋へ運ぶ運送会社で、摂州灘酒家銀行は売掛金を回収するまで繋ぎ融資をする手形融資銀行であった。

ただ、摂州灘酒家銀行については酒造家から受け入れられず、摂州灘酒家興業から分離・隔離される形で設立されており、主として岡崎藤吉が摂州灘酒家銀行の経営にあたった。

さらに、岡崎藤吉は神戸日報を買収したほか、義父・岡崎真鶴が関与する山陽鉄道・神戸電灯・第三十八国立銀行の取締役を兼任して、事業家としての道を着実に歩み始めた。

摂州灘酒家銀行の経営破綻

摂州灘酒家銀行は、東京・新川の酒問屋が発行した発行書を元に酒造家に融資し、酒造家から預かった発行書を横浜正金銀行に持って行くと、横浜正金銀行が無条件で融資してくれるという手形融資銀行であった。

摂州灘酒家銀行は、当初は上手くいっていたが、東京・新川の酒問屋に問題が発生して、売掛金の回収が出来ずに不渡りが続出したため、設立から4年後の明治25年(1892年)に経営破綻してしまう。

すると、岡崎藤吉は、手元にある全ての発行書を横浜正金銀行と第一国立銀行に持ち込んで現金に換え、そのお金で摂州灘酒家銀行の預金を払い戻し、店終いをした。

そして、破産を覚悟した岡崎藤吉は、義父・岡崎真鶴に被害が及ぶことを恐れ、全ての役職から退き、娘・岡崎豊に戸主を譲り、別家を立てた。

さて、摂州灘酒家銀行が破綻したので、横浜正金銀行の小泉信吉が事後処理に来たのだが、小泉信吉は無類の酒好きだったので、酒所の灘ということが災いし、岡崎藤吉と宴会を開いて酒を飲み、一向に銀行の整理が進まなかった。

結局、清酒「菊正宗」で有名な酒造家の八代目・加納次郎右衛門らが救済に乗り出し、経営破綻した摂州灘酒家銀行は倒産を免れたが、八代目・加納次郎右衛門は摂州灘酒家銀行を一度、解散させ、明治28年(1895年)に灘商業銀行を設立した。

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岡崎汽船の創業

岡崎藤吉は、摂州灘酒家銀行の経営破綻して一文無しになったうえ、明治25年に妻・岡崎絹が死去。さらには、明治26年に義父・岡崎真鶴が死去し、人生のどん底を迎える。

人生のどん底に突き落とされた岡崎藤吉は、顔を見られるのが恥ずかしいため、晴れの日でも傘をさして顔を隠して歩いた。

しかし、やがて、海運業をで身を立てることを決意する。

無一文になっていた岡崎藤吉は、兵庫の回船業・片野久左衛門の元へ毎日通って融資を頼み込み、無担保で融資を得た。

さらに、自分の首を担保にして、清酒「菊正宗」で有名な酒造家の八代目・加納次郎右衛門からも、5万円という大金を借りる事に成功した。

こうして大金を得た岡崎藤吉は、上海もしくは香港に渡り、イギリス人から中古船1隻を購入して「太洋丸」と名付け、明治27年(1894年)10月に神戸市栄町三丁目で「岡崎汽船」を創業したのである。

そして、岡崎汽船を創業した明治27年(1894年)に日清戦争が勃発すると、岡崎藤吉は太洋丸を軍の御用船として提供した。

さらに、天津丸と八重山丸を購入して御用船として提供し、岡崎汽船は日清戦争に伴う軍需で大きな利益を上げたが、

さて、日清戦争は開戦から1年ほどで終結し、戦後は特需の反動で不況に見舞われたが、岡崎藤吉はなんとか反動不況を乗りきっていく。

太洋丸は戦後の明治28年(1895年)に台湾への定期船となり、明治30年(1897年)からロシア企業に雇われ、ロシア航路で活躍し、北洋漁業にも貢献しており、不況の中でも堅実に経営をしていた。

しかし、明治30年に岡崎汽船の天津丸が座礁したうえ、八重山丸がイギリス船と衝突して沈没し、岡崎汽船は多額の賠償金を課せられてしまう。さらに、太洋丸も明治35年に座礁していまう。

岡崎財閥の基盤の確立

明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、岡崎藤吉は外国から貨物船4隻を購入し、「日英丸」「日進丸」「日勝丸」「日海丸」と名付け、陸軍に御用船として提供した。

岡崎藤吉は日露戦争の特需で多額の利益を上げ、世間に「神戸財界に岡崎あり」と知らしめた。

岡崎汽船の設立

日露戦争が終結すると、海運業界は反動不況を迎えた。このようななか、政府は明治40年(1907年)に、神戸-北海道間の日本海側海路(西回り経路)への補助金を打ち切った。

この日本海側海路は日本郵船が運航していたが、補助金が打ち切られたことを受けて、撤退を決め、日本海側航路を岡崎汽船に譲った。

こうして、岡崎藤吉は補助金打ち切りを切っ掛けに、日本郵船から日本海側海路を継承し、岡崎汽船・岸本汽船・辰馬商会の3社で日本西廻汽船商会を設立した。

しかし、約1年で岸本汽船・辰馬商会の2社が離脱したため、日本西廻汽船商会は岡崎汽船の単独運営になり、岡崎藤吉は明治43年(1910年)3月4日に、岡崎汽船と日本西廻汽船商会を合併して岡崎汽船株式会社を設立した。

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神戸海上運送火災保険の設立

日清戦争で財を成した岡崎藤吉は、明治32年(1899年)に大阪の有志が設立する「日本海上運送火災保険」の設立に加わり、日本海上運送火災保険の常務に就任していた。

日露戦争でさらなる財を成した岡崎藤吉は、明治38年(1905年)に日本海上運送火災保険の常務を辞し、関西の海運業者のとりまとめに奔走した。

そして、明治40年(1907年)に岡崎財閥が直営する神戸海上運送火災保険を設立して、神戸海上運送火災保険の社長に就任した。

神戸海上運送火災保険は、その後、神戸海上火災保険→同和火災海上保険→ニッセイ同和損害保険→あいおいニッセイ同和損害保険となった。

神戸岡崎銀行の設立

大正3年(1914年)に第一次世界大戦の勃発すると、海運業界も戦争特需に沸いた。

岡崎藤吉は、前年の大正2年(1913年)に金融視察ために欧米を訪問しており、第1次世界大戦の勃発を予想して、開戦前に船を買い込んでいたという。

このため、岡崎汽船は11隻を所有しており、第1次世界大戦が勃発すると、これを軍用船として提供し、莫大な利益をあげた。

さて、第1次世界大戦の影響で船の値段がウナギ登りであったが、「仕事は腹7、8分目を目標とすべきで、12分を望んではいけない」という堅実経営の養子・岡崎忠雄が船の売却を提案した。

岡崎藤吉は船を売ることに反対したが、堅実経営の養子・岡崎忠雄に説得され、大正4年から毎年、少しずつ船を売却していった。

船の価格は天井知らずで上昇を続け、世間には船で財を成した船成金が大勢誕生しており、世間の船成金は船を売却する岡崎藤吉を見て、「天下の岡崎が逃げを打つのか」と嘲笑った。

しかし、堅実経営の養子・岡崎忠雄は、そのような言葉に耳を貸さず、船を売却して莫大な利益を出した。

こうして、岡崎藤吉は船を売って巨万の富を築き、大正6年(1917年)に資本金1000万円で神戸岡崎銀行(神戸銀行→太陽神戸銀行→さくら銀行→三井住友銀行)を設立したのである。

さて、戦争がいつまでも続くはずはなく、第1次世界大戦が大正7年(1918年)11月に終結すると、戦争特需の反動で海運業界は不況を迎え、船の価格は大暴落した。

戦争特需で誕生した大勢の船成金は、反動不況によって消えていったが、岡崎藤吉は船を高値で売却しており、反動不況の影響を受けなかったので、岡崎藤吉の名前はますます高まっていった。

さらに、岡崎藤吉は岡崎銀行を通じて戦時中に船成金にお金を融資しており、船を担保に取っていたので、戦後の反動不況によって船成金が自滅すると、ただ同然で担保の船が転がり込んできた。

こうして、戦時中に船を売却した岡崎汽船は、労すること無く、船の数を15隻まで増やしたのである。

岡崎財閥の飛躍

岡崎藤吉は山あり谷ありの人生を送ってきたが、「勝負所は一生のうちに数回しかない」と考えており、もう勝負所は来ないと考えたのか、神戸岡崎銀行を設立後は堅実経営へと切替えた。

そして、岡崎藤吉は、大正9年(1920年)に神戸岡崎銀行と神戸海上運送火災保険を大幅に増資し、関西でも有数の銀行と海上保険へと飛躍させた。

そうした一方で、岡崎藤吉は大正9年に兵庫電気軌道(山陽電気鉄道)や神栄生糸(神栄)の社長を兼任。大正10年には朝日海上火災保険の経営を引き受け、大正11年には京都火災保険の取締役や東山工業の監査も務めた。

こうして、岡崎藤吉は「岡崎汽船」「神戸海上運送火災保険」「神戸岡崎銀行」を柱とする岡崎財閥の確立したほか、関西実業界で活躍し、財界立志伝を成し遂げた。

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岡崎藤吉の政界進出と死去

岡崎藤吉は、明治33年(1900年)に神戸商工会議所の会員に選ばれ、大正9年(1920年)には紺綬褒章を受けた。

このころ、同じ佐賀藩出身の大隈重信が東京で早稲田大学を開いており、岡崎藤吉は度々、早稲田大学にも寄付している。

また、岡崎藤吉は、大正14年(1925年)に多額納税者議員に選ばれて貴族院議員として政界へ進出し、水政倶楽部を創設して海務省の設立に奔走したが、海務省は設立されることは無かった。

そして、数々の功績が認められて昭和2年(1927年)に正六位勲三等に叙ぜられ、瑞寶章(瑞宝章/ずいほうしょう)を授与されたが、貴族院議員在任中の昭和2年(1927年)11月26日に兵庫県神戸市の自宅で死去した。享年72。死因は宿痾胃癌(ながく煩っていた胃癌)だった。

妻と子供と子孫

岡崎藤吉の妻は、岡崎真鶴の娘・岡崎絹で、岡崎藤吉(石丸藤吉)と妻・岡崎絹の間に長男と長女・岡崎豊が生まれた。

しかし、長男は1歳で夭折したので、岡崎藤吉は、兄・石丸忠英の次男・岡崎忠雄(石丸忠雄)を養子に迎えて長女・岡崎豊と結婚させ、養子・岡崎忠雄(石丸忠雄)が岡崎財閥を継いだ。

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