華麗なる一族と呼ばれた神戸・岡崎財閥の養子となり、神戸銀行の頭取を務めた岡崎忠(おかざき・ちゅう)の立志伝の後半です。
立志伝の前編は「華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎忠の立志伝」をご覧ください。
戦後、GHQにより財閥解体が行われ、三井財閥・三菱財閥などが解体された。岡崎財閥も財閥解体の5次指定を受け、岡崎財閥のグループ企業を統括する岡崎総本店が解体された。
神戸で解体されたのは岡崎財閥だけだったので、岡崎忠はスケープゴートにされたような思いにかられた。
また、公職追放が財界にも及び、神戸銀行の頭取・八馬兼介など主要役員が総退陣したので、岡崎忠が頭取・八馬兼介の推薦を受けて、昭和22年(1947年)2月に神戸銀行の頭取に就任した。
岡崎忠が神戸銀行の頭取に就任した昭和22年の10月、病床にあった父・川島令次郎が死去した。
さらに、川島令次郎の葬儀を済ませてから数日後に、父・川島令次郎の後を追うように、母・乙部栄(川島栄)が死去した。昭和22年11月のことであった。
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昭和24年(1949年)の春ごろ、岡崎忠は神戸銀行の頭取として大きな決断を迫られた。神戸銀行に外国部を置くかどうか、という決断だった。
岡崎忠は思案した末、尊敬している加納久朗に相談した。加納久朗は、横浜正銀行で活躍した銀行家である。この時は公職追放を受けていたが、後に日本住宅公団の初代総裁や、千葉県知事を務める人物である。
岡崎忠は加納久朗の賛成を得て神戸銀行に外国部を設置し、神戸銀行を外国為替銀行へと発展させた。
さらに、加納久朗の尽力により、神戸銀行は、横浜正銀行の出身者を外国部長に迎えて外国部の基礎を築くことが出来た。
岡崎忠は、外国部の発展が非常に重要だと考え、ニューヨークに滞在し、コルレス銀行を日参した。
神戸銀行の頭取といえど、外貨持ち出し制限があり、岡崎忠は1日の割当が14ドル50セントだったので、1泊5ドル50セントの貧相なホテルに泊り、食事もパンとミルクだけという貧しい滞在生活を過ごした。
そして、ニューヨーク滞在中の昭和26年(1951年)2月にサンフランシスコ講和条約の調印式が行われた。
旧制・静岡高校の同窓生の兄が駐米公使・武内龍次だったため、岡崎忠は幸運にも調印式の入場券を貰えたので、一番上の席から、サンフランシスコ講和条約の調印式を眺めて涙を流し、「日本は平和で文化国の道を、世界もまた平和を追求していかなければならない」と思った。
昭和20年代の後半から公職関係の依頼を受けるようになり、昭和29年(1954年)5月から約20年間にわたり、神戸日米協会の会長を務めた。
また、昭和29年7月から約13年間にわたり、兵庫県の公安委員を務めた。そのうち9年間は公安委員長を務めた。
また、岡崎忠は、反戦派の父・川島令次郎の影響を受けていたので、平和のためには自衛隊が重要だと考え、昭和41年(1966年)には兵庫県防衛協会の会長に就任した。
こうした一方で、神戸糖尿病協会の会長にも就任した。岡崎忠は善哉に砂糖を入れて食べるほどの甘党だが、神戸糖尿病協会の会長なので、糖尿病にかかるまいとして、甘い物を控えた。
しかし、心中では、死ぬまでに一度、思いっきり善哉を食べたい、という甘い夢を持っていた。
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岡崎忠は、神戸銀行の頭取に就任するとき、健全経営主義の義父・岡崎忠雄から「このごろの銀行は預金と貸し金がほとんど同じだ。私たちの若い頃は預金の半分くらいしか貸し金に回さなかったものだ。健全や預貸率を厳格にまもれ」と忠告されていた。
また、融資についても、義父・岡崎忠雄から「貸す相手の人柄を重視せよ。私行に問題のある人は相手にするな」と教えられていた。
もし、義父・岡崎忠雄の教えが厳格に守られていたならば、神戸銀行は山陽特殊製鋼倒産事件に巻き込まれていなかったかもしれない。
山陽特殊製鋼倒産事件とは、昭和40年(1965年)3月6日に、山陽特殊製鋼が会社更生法を申請して倒産した事件である。
負債総額は477億円、当時の「戦後最大の倒産」で、日本経済に打撃を与え、政界・財界を揺るがしたうえ、倒産後に70億円の粉飾決算が発覚し、経済事件へと発展した事件である。
(注釈:現在は、2000年に倒産した協栄生命保険が負債総額4兆5297億円で戦後最大規模の倒産となっている。)
さて、山陽特殊製鋼は、昭和8年(1933年)に山陽製鋼所として創業したが、日本の敗戦によって経営が悪化し、荻野一によって買収された。
こうして、山陽特殊製鋼は社長・荻野一のワンマン企業となり、昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争の特需で儲けて経営再建を果たし、累積赤字を一掃して一気に業績を拡大した。
その後は高度成長期の波に乗り、昭和30年代に入ると、山陽特殊製鋼の社長・荻野一は短期間のうちに250億円にも上る超大型設備投資を行い、昭和34年には大阪特殊製鉄を吸収合併するなど、最盛期を迎えた。
しかし、この頃には赤字に転落していたのか、昭和33年(1958年)ごろから山陽特殊製鋼は粉飾決算を行っていたという証言が残っている。
山陽特殊製鋼は、昭和37年(1962年)には大幅な赤字に陥っており、粉飾決算で赤字を隠していたが、それでも、山陽特殊製鋼の社長・荻野一は、攻めの姿勢を崩さず、昭和38年(1963年)11月に業界初となる900トン高炉建設計画を発表した。
ところが、昭和39年末には関西の有名企業が倒産するかもしれないという噂が流れ、通産大臣の櫻井義男が「確かに危ないところがあるようだ」と噂を認めたため、山陽特殊製鋼に記者が押し寄せる事態となった。
これを受けて、神戸銀行・三菱銀行・日本興業銀行の3行は、昭和40年(1965年)1月19日に調査団を送り込み、山陽特殊製鋼の実態を調査。山陽特殊製鋼は粉飾決算をしており、かなり危険な状態だと判明した。
銀行団が山陽特殊製鋼を管理下に置き、再建の道が模索された。自主再建か、会社更生法の申請か。最後の鍵を握るのは、山陽特殊製鋼の親会社である富士製鉄(新日鉄→新日鐵住金)だった。
このため、昭和40年(1965年)3月3日、神戸銀行の頭取・岡崎忠は、富士製鐵の社長・永野重雄とトップ会談を行った。親会社の富士製鐵は一貫して支援の姿勢を示していたが、支援の約束は得られなかった。
一方、銀行団も協調融資に対して足並みが揃わず、日本興業銀行や準メーンバンクの三菱銀行が協調融資から降りた。メーンバンクの神戸銀行だけでは、山陽特殊製鋼を支える事は難しく、神戸銀行も融資を断念した。
昭和40年(1965年)3月3日、神戸銀行東京支店の専務・西脇親は、山陽特殊製鋼の首脳陣に融資の打ち切りを通告し、残された道は会社更生法しかないのではないか、と告げた。
山陽特殊製鋼の社長・荻野一も「会社更生法」という言葉を初めて聞いたが、これを受けて、社長・荻野一は昭和40年(1965年)3月4日に会社更生の申請の準備を指示し、徹夜で倒産から再生計画までの書類が作られた。
こうして、昭和40年(1965年)3月6日に、山陽特殊製鋼が会社更生法を申請して倒産した。当時の戦後最大の倒産である。
山陽特殊製鋼は株式を上場していたので、株式市場は大混乱を迎えた。既に株価は低迷していたが、さらに山陽特殊製鋼は売り注文が殺到して、株は紙くずとなった。山陽特殊製鋼に少しでも関わっている企業の株も売り注文が殺到した。
しかし、山陽特殊製鋼が倒産した当日、神戸の街は意外と平穏であった。
山陽特殊製鋼には多くの中小企業が関わっており、神戸銀行は取り付け騒ぎに備えて相当の現金を用意していたのだが、取り付け騒ぎは起きず、通常よりも来客は少ないくらいだった。
実は、会社更生法はアメリカから輸入された法律で、日本の風土に合わず、全く普及していなかったため、「会社更生法=倒産」という事を理解できる人が少なかったのだ。
財界人も山陽特殊製鋼の倒産で初めて会社更生法を知る人も多く、神戸商工会議所も、山陽特殊製鋼が倒産してから慌てて会社更正法について調べるという有様だった。
しかし、時間が経つにつれ、「神戸には出荷しない」「神戸の手形は受け取れない」「神戸から商品を引揚げる」という企業が増えてきたため、神戸は山陽特殊製鋼事件の重大さを痛感することになる。
一方、山陽特殊製鋼の下請け企業が事件の重大性に気付いたのは、倒産から4日後の昭和40年(1965年)3月10日のことだった。
3月10日に山陽特殊製鋼が電炉を停止し、仕事の発注を止めたため、下請け会社は仕事が無くなり、初めて事の重大さに気付いたのだ。
また、山陽特殊製鋼の倒産事件は、数多くの下請け企業だけではなく、伊藤忠商事や三井物産などの大企業にも大きな爪痕を残すことになった。
さて、神戸銀行は山陽特殊製鋼のメーンバンクであり、山陽特殊製鋼の大株主だったため、山陽特殊製鋼の倒産に関して、「根拠の無い融資」や神戸銀行の体質を追及されて信用を失墜させてしまう。
また、神戸銀行は岡崎家の個人銀行ではなかったが、岡崎忠が神戸銀行の頭取に20年間という異例の長期間在任していたことから、神戸銀行は岡崎家の個人銀行であり、岡崎忠は独裁者だったというイメージを世間に与えてしまった。
そこで、岡崎忠は神戸銀行を再建するため、総理大臣・池田勇人のブレーンとしても活躍した元大蔵省事務次官・石野信一(兵庫県神戸市出身)に頭取への就任を要請した。
石野信一は、日銀の副総裁か輸出入銀行の総裁と目されている大物だった。
石野信一は、ちょうど大蔵省を辞めた直後で、天下り禁止の関係から、大蔵省を辞めて2年間は再就職できないという事だったが、頭取を引き受けてくれた。
こうして、山陽特殊製鋼の倒産事件から2年後の昭和42年(1967年)に、神戸銀行は石野信一を頭取に迎え入れ、岡崎忠は一連の責任を取る形で会長へと退いた。
なお、山陽特殊製鋼が倒産した理由や倒産責任については、分からないまま闇に葬り去られた。関係者が口を閉ざしたのだ。
神戸銀行の頭取・岡崎忠は「ボンヤリしていたといわれれば、それまで。しかし、最後は富士鉄のバックアップがあると信じて疑わなかった」と語っている。
また、岡崎忠は破産管財人に「銀行が裏付けもなくしてカネを貸すはずもない。煮え湯を飲まされた」と語っている。
保田弥一郎が「山特鋼の倒産でだれがトクをしたか。富士鉄だけだ。倒産というかたちに持ち込み、債権を切り捨て身軽になった山特鋼を買いたたいたのだ」と言うように、当時は親会社・富士製鉄の陰謀論が流布したが、その真相はヤブの中である。
大蔵省出身の石野信一が神戸銀行の頭取に就任してから、6年後の昭和48年(1973年)10月1日に神戸銀行が太陽銀行と合併して、太陽神戸銀行が誕生した。
太陽銀行の頭取は大蔵省出身の河野一之で、河野一之と石野信一は大蔵省時代の先輩後輩という関係だった。
こうした関係から、石野信一が神戸銀行の頭取を引き受けたのは、太陽銀行との合併を見据えていたからではないかと言われている。
こうして、岡崎忠は太陽神戸銀行が誕生すると、横滑りする形で、太陽神戸銀行の取締役相談役に就任した。
山陽特殊製鋼倒産事件から5年後の昭和45年(1970年)に、山崎豊子が週刊誌で小説「華麗なる一族」の連載を開始した。
山崎豊子の小説「華麗なる一族」は、山陽特殊製鋼倒産事件と神戸銀行を連想させる内容になっており、世間は小説「華麗なる一族」のモデルは神戸の岡崎財閥だと噂した。
小説「華麗なる一族」には人倫に反する人物が登場しており、岡崎忠は「いかにも私がモデルのように描かれている」と激怒し、山崎豊子を名誉毀損で訴えるため、知り合いの弁護士に依頼して準備を万端にしていた。
その一方で、岡崎忠は、知り合いの作家や新聞社の社長に相談すると、「最後に『これはフィクションです』と書いていたら、フィクションになる。だれも、貴方がモデルだとは思いませんよ」と言われてしまった。
さらに、岡崎忠は、平素から尊敬している人からもアドバイスがあったため、訴訟は思い止まった。
しかし、小説「華麗なる一族」の連載が進むにつれ、岡崎忠は「華麗なる一族」のモデルと噂されて、その風評被害を受ける事になる。
あるとき、旧制・静岡高校の懇親会に出たとき、後輩から「先輩は人倫に反するようなことをして恥ずかしくないのですか」と突っかかられてしまった。
別の後輩が「岡崎先輩がそんなことをするはずが無い」と擁護してくれたが、岡崎忠は同級生や後輩からもモデルと誤解されて迷惑を被った。
また、結婚式に招待されたとき、司会者から「華麗なる岡崎さんを紹介します」と言って紹介されたので、岡崎忠は「ただいまの言葉を訂正して頂きたい。さもないと中座させてもらう」と強く抗議し、妻とともに中座したこともあった。
岡崎忠は岡崎豊子の小説「華麗なる一族」のせいで、非難を浴びせられ、軽蔑の目で見られて苦しんだ。
なにより悲しかったのは、妻や子供や孫にも大へん肩身の狭い思いをさせたことだった。
一方、山崎豊子の小説「華麗なる一族」はベストセラーとなり、昭和49年(1974年)に映画化・ドラマ化された。
さらに、平成19年(2007年)にも木村拓哉の主演で「華麗なる一族」がドラマ化され、そのモデルとされる岡崎家は長らく山崎豊子の呪縛に苦しむことになるのであった。
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岡崎忠は健康には恵まれ、六甲山美化協会の会長、神戸市消防育英会の理事長などの公職の依頼を受けたほか、昭和50年(1975年)4月には勲二等旭日重光章を賜わった。
昭和56年(1981年)3月の神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア81)では、山崎市長からテーマ館長の依頼を受け、VIPの接待役ていどの気持ちで引き受けたが、博覧会が開かれると、博覧会への愛着が深まり、公式行事の有無にかかわらず、1日に1度は会場に出向かなければ、気が済まなくなった。
神戸ポートアイランド博覧会には天皇・皇后の両陛下もおこしになり、岡崎忠は両陛下を奉迎した。
一方、私生活においては、旧制・静岡高校時代にやっていたテニスを趣味としていたが、次第にゴルフへと興味が移った。
頭取・社長チーム対抗戦の草野球では、サードを守り、60歳になるまで出場したが、試合の翌日は節々が痛むようになり、年齢を自覚して引退した。
楽器はやらなったが歌うのが好きで、オペラなどを言語で歌った。油絵も好きで、アトリエも建てるほどだった。
さて、岡崎忠は太陽神戸銀行の相談役に退いており、太陽神戸銀行は三井銀行と合併して「太陽神戸三井銀行」が誕生することになっていた。
しかし、岡崎忠は太陽神戸三井銀行が誕生する2ヶ月前の平成2年(1990年)2月10日に死去し、太陽神戸三井銀行の誕生を見ることは無かった。享年86。
岡崎忠の子供は、長女・岡崎孝子、次女・岡崎和子、長男・岡崎晴彦の3人である。
長女・岡崎孝子は、神戸銀行の専務・西脇親の子・西脇良一(阪神銀行の取締相談役)と結婚した。
次女・岡崎和子は、兵庫県神戸市の野澤石綿セメント(株式会社ノザワ/東証2部上場)の社長・野沢源二郎と結婚した。
長男・岡崎晴彦は、子供服ブランド「ファミリア」の創業者・坂野惇子の長女・坂野光子と結婚し、ファミリアの3代目社長を務めた。
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