「華麗なる一族」と呼ばれる神戸の岡崎財閥の誕生から、衰退までを描く、岡崎財閥の立志伝です。
下の画像が岡崎財閥の家系図になります。家系図は、スペースの関係で主要人物の紹介のみとなります。スマートフォンで観にくい場合は、PCでご覧ください。
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土佐・岡崎家は、土佐藩(高知県)の下級藩士・岡崎左衛儀に始まる。
岡崎左衛儀は、土佐特有の身分「一領具足」(半分農民・半分兵士)として、土佐の大名・長宗我部に仕えたが、長宗我部は関ヶ原の合戦で西軍に付いて改易され、これを機に岡崎左衛儀は帰農した。
その後、土佐を拝領した山内一豊が土佐に入り、土佐で家臣を採用した。
このとき、帰農していた岡崎左衛儀も土佐藩・山内家に採用され、山内一豊の子・山内忠義に仕え、土佐・岡崎家が始まった。
なお、別説によると、岡崎左衛儀は山内一豊に付き従って土佐に入り、土佐・岡崎家の祖となったという。
土佐・岡崎家の祖・岡崎左衛儀から12代下ったのが、土佐藩の下級藩士・岡崎真鶴(おかざき・またづ/またず)で、この岡崎真鶴が神戸・岡崎家の祖となる。
岡崎真鶴の時に明治維新を迎え、経緯は不明ながら、岡崎真鶴は明治維新後に飾磨県(しかまけん/兵庫県西部に存在していた県)の高級官僚となり、神戸・岡崎家が始まった。
そして、岡崎真鶴は、順調に出世していき、飾磨県の権参事(副知事)へと昇進した。
しかし、明治9年(1876年)8月に兵庫県(兵庫県東部)と飾磨県(兵庫県西部)が統合されて、現在の兵庫県が誕生し、飾磨県が消滅したのを機に、岡崎真鶴は権参事を辞して実業界へと身を投じた。
そして、岡崎真鶴は神戸の大地主である四代目・伊藤長次郎(伊藤財閥)らとともに、明治10年(1877年)8月27日に第三十八国立銀行を設立し、初代頭取に就任したのである。
さらに、岡崎真鶴は、生糸問屋「神栄」と山陽鉄道の設立にも加わり、実業家として活躍した。
そして、岡崎真鶴の養子・岡崎藤吉(石丸藤吉)が、「華麗なる一族」と呼ばれる岡崎財閥を創業することになる。
岡崎財閥の祖となる岡崎藤吉(石丸藤吉)は、佐賀藩士・石丸六太夫の4男として生まれ、紆余曲折を経た末、兵庫県庁で勤務した。
兵庫県庁で働いていた岡崎藤吉(石丸藤吉)は、第三十八国立銀行の頭取・岡崎真鶴に認められて、岡崎真鶴の次女・岡崎絹と結婚して婿養子となり、岡崎性を名乗るようになる。
その後、岡崎藤吉は県庁を辞めて、魚崎村など4村の村長を務めた。
魚崎村は酒造で有名な灘五郷の1つで、岡崎藤吉は灘一帯の酒造家を説得し、明治21年(1888年)に、灘の酒を東京へと船で搬送する「摂州灘酒家興業」と、酒造家に売掛金回収までの融資を行う「摂州灘酒家銀行」を設立した。
ところが、明治25年(1892年)に摂州灘酒家銀行が経営破綻し、岡崎藤吉(石丸藤吉)は破産してしまう。
さらに、明治25年に妻・岡崎絹も死去し、明治26年に義父・岡崎真鶴が死去してしまう。
破産したうえ妻や義父を失った岡崎藤吉は、人生のどん底に苦しんだ。
しかし、岡崎藤吉は、海運業を興すことを思い立ち、自らの首を担保にして、回船業・片野久左衛門と酒造家・加納次郎右衛門から金を借りて上海もしくは香港に渡り、イギリス人から中古船1隻を購入した。
そして、購入した中古船を「太洋丸」と名付け、明治27年(1894年)10月に神戸市栄町三丁目で「岡崎汽船」を創業したのである。
岡崎藤吉は、日清戦争・日露戦争の戦争特需で財を成し、紆余曲折を経ながらも反動不況を乗りきり、明治43年(1910年)3月4日に岡崎汽船株式会社を設立した。
その一方で、明治32年(1899年)に「日本海上運送火災保険」の設立に加わり、明治40年(1907年)には岡崎藤吉が直営する「神戸海上運送火災保険」を設立した。
その後、第1次世界大戦を見越して船を購入し、第1次世界大戦が勃発すると、この船を軍の御用船として提供して大きな利益を出した。
さらに、第1次世界大戦の影響で船の価格がうなぎ登りで上昇するなか、岡崎藤吉は船を少しずつ売却して巨万の富を築き、大正6年(1917年)に資本金1000万円で神戸岡崎銀行(神戸銀行→太陽神戸銀行→さくら銀行→三井住友銀行)を設立したのである。
世間の船成金は戦争特需で大儲けをしており、船を売却する岡崎藤吉を「岡崎は逃げを打つのか」とバカにしたが、第1次世界大戦が終わると、船の価格場暴落し、船舶業界も不況に見舞われ、船成金は沈んでいった。
岡崎藤吉は、神戸岡崎銀行を通じて船成金に融資していたので、担保に取っていた船がタダ同然で転がり込み、多くの船を所有することになった。
このため、岡崎財閥には巨万の富だけが残り、天下に「神戸に岡崎有り」と名前を轟かせ、岡崎藤吉は後に「華麗なる一族」と呼ばれる岡崎財閥を確立したのであった。
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岡崎財閥の祖・岡崎藤吉(石丸藤吉)は、早くに長男を亡くしており、跡取り息子が居なかった。
そこで、岡崎藤吉(石丸藤吉)は、兄の子・岡崎忠雄(石丸忠雄)を長女・岡崎豊の婿養子に迎え、後継者としていた。
婿養子・岡崎忠雄は、堅実的な考え方の持ち主で、仕事は7~8分目をモットーとしており、第1次世界大戦の時に船を売却する事を提案したのも養子・岡崎忠雄だった。
昭和2年(1927年)11月26日に岡崎藤吉が死去すると、岡崎忠雄は岡崎財閥を相続し、岡崎財閥の2代目として、堅実経営で昭和恐慌などの不況を乗りきっていく。
そして、岡崎忠雄は、昭和6年(1931年)に岡崎財閥のグループ企業を統括する岡崎総本店を設立した。
昭和11年(1936年)に大蔵大臣・馬場鍈一が「一県一行主義」を提唱し、神戸岡崎銀行は兵庫県下にある五十六銀行・西宮銀行・灘商業銀行・姫路銀行・高砂銀行・三十八銀行と合併することになった。
7行のうちで、神戸岡崎銀行が最大規模であったが、岡崎忠雄は最大規模の神戸岡崎銀行が謙虚にならなければ、合併は成立しないと考え、大幅に譲歩した1対1の対等合併を行った。
最大規模の神戸岡崎銀行が大きく譲歩したため、困難と思われていた7行合併はわずか半年で合併を成功させ、昭和11年(1936年)12月に神戸銀行が誕生したのである。
さらに、岡崎忠雄は人事面でも大きく譲歩しており、神戸銀行の頭取の座を譲り、会長に就任し、神戸銀行の経営は幹部に任せ、大局だけを指導するようになった。
また、戦時統制下の影響で、保険業界も統合が進んでおり、岡崎財閥の神戸海上運送火災保も昭和19年(1944年)に、共同火災海上保険・朝日海上火災・横浜火災海上保険と合併し、同和火災海上保険を設立した。
ここでも、岡崎忠雄は大きく譲歩して1対1の対等合併を行ったうえ、人事面も社長も会長も合併相手に譲り、同和火災海上保険の相談役に就任した。
そして、岡崎忠雄は持病の糖尿病もあったので、同和火災海上保険を設立したことを切っ掛けに、昭和19年(1944年)5月に経営の第一線からは退いた。
岡崎財閥は戦争でボロボロになり、看板だけの状態だったが、戦後の第5次財閥解体によって解体された。岡崎汽船は日豊海運に引き継がれたが、同和火災海上保険と神戸銀行は解体を免れた。
戦後、岡崎忠雄は公職追放を受けて全ての役職を退いた。同和火災海上保険の役員も公職追放を受け、長男・岡崎真一が同和火災海上保険の社長に就任した。
また、神戸銀行の頭取・八馬兼介らも公職追放を受け、岡崎忠雄の娘婿・岡崎忠が神戸銀行の頭取に就任し、岡崎家は二頭体制時代を迎えた。
同和火災海上保険の社長に就任した岡崎真一は、大谷高子と結婚していた。妻・大谷高子は、西本願寺の執行長を務めた大谷尊由の娘で、貞明皇后(明治天皇の皇后)と親戚関係にあった。
岡崎家や岡崎財閥が「華麗なる一族」と呼ばれる理由は、大谷家の血筋が皇族に通じているからである。
華麗なる一族の岡崎真一は、神戸で絶大なる人気を誇り、昭和25年(1950年)1月に行われた参議院補欠選挙に出馬して、全国でも過去最高の取得票を得て参議院議員に当選し、天下に「神戸に岡崎あり」と知らしめた。
さらに、岡崎真一は昭和26年(1951年)に日本航空(JAL)の発起人に加わり、同和火災海上保険が日本航空(JAL)の筆頭株主なったほか、日本テレビ放送網(日本テレビ)の設立に尽力し、日本テレビ放送網(日本テレビ)の取締役に就任した。
このほかにも多数の会社の要職を務め、昭和30年(1955年)11月には神戸商工会議所の会頭に就任し、華麗なる一族・岡崎家は戦後の復権を果たした。
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岡崎真一は、経営者・衆議委員議員・神戸商工会議所の会頭という三足のわらじを履いていたが、岡崎真一の本領はあくまでも神戸であり、社長を務める同和火災海上保険だった。
しかし、岡崎真一は衆議委員議員として東京に滞在する期間が長く、本領の神戸を留守にし、同和火災海上保険の社長としての仕事がおろそかにしていた。
同和火災海上保険は戦時統制下の4社合併によって誕生したのだが、4社が合併前の体質を強く残しており、内部に強い軋轢を抱えていた。
また、社長は華麗なる一族の岡崎真一ということもあり、社長・岡崎真一の耳には何も報告が届かなかったらしいい。
こうした隙を突き、同和火災海上保険の専務・草場幸雄が謀反を起こしたのである。
専務・草場幸雄は岡崎真一の従兄弟だが、岡崎真一から嫌われ、同和火災海上保険をクビになり、岡崎系の京都ダイキャストという会社に追いやられることになっていた。
しかも、当初は社長という話だったが、岡崎真一によって会長に追いやられたうえ、計画していた新規事業も岡崎真一によって中止させられたため、草場幸雄は岡崎真一を怨んでいた。
そこで、専務・草場幸雄は、「白木屋乗っ取り事件」などで有名な乗っ取り屋・横井英樹に助けを求め、同和火災海上保険の株を買い占めさせたのである。
専務・草場幸雄は、岡崎真一の選挙違反の事実を知っており、選挙違反をネタにして、岡崎真一に買い占めた株を高値で買い取らせるという計画だったらしい。
有名な乗っ取り屋・横井英樹が同和火災海上保険を乗っ取りにかかったということもあり、世間を賑わせた。
しかし、法律の関係で保険会社を乗っ取ることは困難であり、同和火災海上保険乗っ取り事件は泥沼の戦いとなって長引いた。
ところが、この泥沼の戦いは一転して解決へと向かった。実は裏で田中角栄が動いたらしい。岡崎真一は参議院義委員で大蔵委員を務めており、大蔵大臣に就任した田名角栄が快く思わず、裏で動いたらしいのだ。
昭和37年(1962年)、山一証券(1997年に倒産)の社長・大神一が仲介者となり、乗っ取り屋・横井英樹は買い占めた2万株のうち、1万8000株を岡崎真一に売却した。
乗っ取り屋・横井英樹は買値よりも安く売却することになり、骨折り損となった。
一方、岡崎真一も一連の騒動の責任を取る形で、同和火災海上保険の社長から会長へと退き、同和火災海上保険を乗っ取り事件は両者痛み分けという結果に終わった。
しかし、岡崎真一の不運はそれだけではおわらなかった。
岡崎真一は神戸商工会議所の会頭を務めていたが、神戸を不在にしていたことから、神戸財界からも神戸商工会議所の会頭を拒否されてしまう。
岡崎真一は再選を望んで昭和39年(1964年)に神戸商工会議所の会頭に立候補したが、神戸財界は鈴木商店出身で神戸製鋼所の社長・浅田長平を会頭に擁立し、岡崎真一は浅田長平に敗北してしまう。
さらに、岡崎真一は参議院議員を4期務めたが、昭和40年(1965年)の参議院議員選挙の出馬を断念し、政界からも引退し、三足のわらじを全て失ってしまった。
岡崎真一は、この頃から、不調を訴えるようになり、昭和45年に体調が悪化して入院し、昭和46年1月20日に死去した。
同和火災海上保険は、業界第3位だったが、乗っ取り屋・横井英樹の乗っ取り事件によって内部の事情が露見して信用が失墜し、以降は低迷を続けていった。
一方、婿養子の岡崎忠(川島忠)は、神戸銀行の頭取・八馬兼介や相談役・岡崎忠雄など首脳陣が公職追放を受けたことにより、神戸銀行の頭取に就任していた。
岡崎忠は神戸銀行に外国部を設置して国際為替銀行へと発展させ、神戸銀行は順調に業績を拡大していった。
このようななか、山陽特殊製鋼が昭和40年(1965年)に3月6日に会社更生法を申請して倒産してしまう。
しかも、負債総額は477億円で、当時の戦後最大規模の倒産だったうえ、倒産後に70億円の紛失決算が発覚したのである。
神戸銀行は山陽特殊製鋼のメーンバンクであり、大株主だったことから、神戸銀行は「根拠の無い融資」や経営体質を追及されて、信用を失墜してしまう。
また、神戸銀行は岡崎家の個人銀行ではなかったが、岡崎忠は20年間も神戸銀行の頭取の座に就いていたため、岡崎家は神戸銀行の独裁者というイメージを世間に与えてしまった。
このため、岡崎忠は一連の責任を取る形で、昭和42年(1967年)に兵庫県神戸市出身の大蔵省事務次官・石野信一を神戸銀行の頭取として迎え入れ、会長へと退いた。
その名を天下に轟かせた神戸の岡崎財閥も、乗っ取り屋・横井英樹の同和火災海上保険乗っ取り事件や山陽特殊製鋼倒産事件により、二頭体制が崩壊し、衰退していった。
このようななか、作家・山崎豊子が昭和45年(1970年)に小説「華麗なる一族」の連載を開始する。
山崎豊子の小説「華麗なる一族」は、山陽特殊製鋼倒産事件と神戸銀行を連想させる内容になっており、世間は小説「華麗なる一族」のモデルは神戸の岡崎財閥だと噂した。
山崎豊子の小説「華麗なる一族」には人倫に反する人物が登場することから、岡崎忠は「いかにも私がモデルのように描かれている」と激怒し、弁護士に依頼して山崎豊子を訴える用意を整えていた。
しかし、出版社関係者や知人の弁護士から、「小説の最後に『これはフィクションです』と書いていたら、フィクションになる。誰も、貴方をモデルだとは思いませんよ」と言われたため、岡崎忠は訴訟を思い止まった。
ところが、世間は小説「華麗なる一族」をフィクションだとは思わず、岡崎忠は学校の後輩からも批判される程で、「華麗なる一族」と呼ばれる事に神経質になった。
また、岡崎忠の子供や孫は、小説「華麗なる一族」の影響で、肩身の狭い思いをすることになった。
一方、山崎豊子の小説「華麗なる一族」はベストセラーとなり、昭和49年(1974年)に映画化・ドラマ化された。
さらに、平成19年(2007年)にも木村拓哉の主演で「華麗なる一族」がドラマ化され、そのモデルとされる岡崎家は長らく山崎豊子の呪縛に苦しむことになるのであった。
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同和火災海上保険は業界第3位だったが、横井英樹の乗っ取り事件によって信用が失墜して低迷した。
岡崎真一の長男・岡崎真雄は、低迷する同和火災海上保険を立て直すため、昭和60年(1985年)7月19日に同和火災海上保険の社長に就任した。
岡崎真雄は当時49歳という若さで、岡崎真雄の社長就任は「経営のエース投入」と評され、大きな期待を寄せられた。
岡崎真雄は「保険は人と紙である」として、フェニックス計画を掲げ、人材の育成に力を入れ、「宇宙保険」など一部の分野ではパイオニアとして活躍した。
しかし、同和火災海上保険は保険業界内で低迷を続け、業界再編により、同和火災海上保険は→ニッセイ同和損害保険→あいおいニッセイ同和損害保険となり、三井住友グループの傘下に入った。
一方、婿養子・岡崎忠は山陽特殊製鋼倒産事件により、神戸銀行の頭取から会長へと退いて低迷していた。
山陽特殊製鋼倒産事件によって低迷した神戸銀行は、業界再編の波にのまれて太陽銀行と合併し、昭和48年(1973年)10月1日に太陽神戸銀行となった。
その後、太陽神戸銀行は三井銀行と合併し、平成2年(1990年)4月に太陽神戸三井銀行が誕生した。
さらに、太陽神戸三井銀行は平成4年(1992年)4月に「さくら銀行」へと改称し、さくら銀行が住友銀行と合併して、平成13年(2001年)に三井住友銀行が誕生した。
結局、岡崎財閥の岡崎銀行も神戸海上運送火災保も、紆余曲折を経て、三井住友の傘下に収まった。
さて、岡崎忠の長男・岡崎晴彦は、三和銀行に就職し、三和銀行時代に、坂野光子と結婚した。
妻の坂野光子は、皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子・坂野通夫夫婦の1人娘である。
岡崎晴彦はその後、父・岡崎忠が会長を務める東京計器制作所に移り、東京計器制作所時代に、アメリカのペリーランド社から出向要請を受けた。
しかし、岡崎晴彦は子供が生まれたばかりだったので、父・岡崎忠が幼い子供を連れてアメリカへ渡ることに難色を示した。
すると、岡崎晴彦はペリーランド社から出向を断るのであれば、東京計器制作所を辞めてファミリアで働きたいと言いだした。岡崎晴彦は、子供が生まれてから、ファミリアに興味を持つようになっていたのだ。
ファミリアの社長・坂野通夫は「身内を入社させない」と公言していたので、冗談だと思って相手にしていなかった。
しかし、社長・坂野通夫は、大恩のある阪急百貨店の会長・清水雅とレナウンの会長・尾上清の2人から「有能な人材を身内だからという理由で入社させないのは背任行為だ」と言われ、岡崎晴彦の入社を認めた。
実は、岡崎晴彦が前もって清水雅と尾上清にファミリア入りを相談しており、清水雅も尾上清も岡崎晴彦のファミリア入りに大賛成したのだ。
こうして岡崎晴彦は皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」に入って頭角を表した。
そして、ファミリア設立35周年にあたる昭和60年(1985年)に社長の坂野通夫が会長に、岡崎晴彦がファミリアの3代目社長に就任した。
その後、岡崎晴彦の長男・岡崎忠彦が平成23年(2011年)にファミリアの社長に就任し、婿養子・岡崎忠の家系は皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の社長として続いた。
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