明星食品の創業者・奥井清澄と八原昌元の立志伝

明星食品を創業した奥井清澄と八原昌元のインスタントラーメン立志伝です。

明星食品の立志伝

明星食品の創業者の1人である八原昌元(やはら・まさもと)は、大正7年(1918年)4月25日に愛媛県松山市で、軍人・八原昌後の長男として生まれた。母は八原喜久である。

八原家は愛媛藩士の家系で、八原昌元は昭和11年(1936年)に愛媛県立松山中学を卒業した後、父・八原昌後の勧めで、三重県伊勢市の神宮皇学館に進学した。

神宮皇学館を卒業後は東京府立第一商業高校の教師となり、教師を9月ほど務めたが、神宮皇学館大学が新設されると、教師を辞めて神宮皇学館大学の1回生となり、日本思想史を専攻した。

八原昌元は学問で国のために奉公しようと考え、学問に邁進していたが、赤紙が来て招集され、四国の沿岸警備をしていたときに終戦を迎えた。

八原昌元は昭和20年(1945年)9月に復員すると、神宮皇学館大学に復学して大学を卒業し、卒業後は神宮皇学館大学で研究室の助手をしていたが、昭和21年(1946年)2月にGHQ(進駐軍)の命令で神宮皇学館大学は廃止された。

失業した八原昌元は、東京へ出て、新聞で見つけた農山漁村文化協会(農文協)の中央指導員の試験を受け、難関を突破して農文協に入った。

しかし、昭和22年(1947年)度に入ると、農山漁村文化協会は農林省からの補助金が打ち切られ、経営は傾いた。

八原昌元は職員組合の執行委員長に祭り上げられており、経営陣に賃上げなどの要求をしていたが、経営陣は「そんなに言うのなら、自分でやれ」と言い、農山漁村文化協会の経営を放り出して逃げてしまった。

こうして、八原昌元ら職員組合の首脳部が農山漁村文化協会を経営することになったのだが、帳簿を見てみると、賃上げどころでは無く、経営は火の車だった。

このため、八原昌元は、経営する方の苦労を知り、賃上げを要求する方は楽だと思うのだった。

さて、八原昌元は色々とやったが上手くいかず、最後は月刊誌「農村文化」の発行だけが残った。

そこで、見込みのありそうな農家に雑誌を送りつけ、返品してこなければ、頃合いを見計らって代金を回収に行くということを始めた。

しかし、代金を回収に行くと、「ちょうど良かった。返品しようと思っていたんだ。農村や農業のことが書いてあるが、役に立つことは書いてないじゃないか。本当に役に立つことがあれば、50銭でも払う」と言い、雑誌の束を突き返され、雑誌を風呂敷に包んで背負って帰るという有様だった。

そこで、八原昌元はどうしたら雑誌が売れるのかを考えるようになり、会議を開いて雑誌作りに取り組んでいると、次第に返本が減ってきて、連載講座「誰にでも分かる肥料の知識」が人気となり、発行部数を伸ばし始めた。

そして、「誰にでも分かる肥料の知識」を単行本にして発行すると、大ヒットして重版を繰り返して100万部を突破し、隠れたベストセラーとなり、農山漁村文化協会の経営も持ち直した。

このとき、八原昌元は、社員に給料を払うためには本を売らなければならず、本を売るためには読者のニーズに合っていなければならないということを学んだ。これが八原昌元のマーケティングの原点となった。

こうして農村部を歩き回り、農山漁村文化協会で雑誌を作っていた八原昌元が、明星食品の創業に関わるのは、奥井清澄との出会いが切っ掛けだった。

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奥井清澄の立志伝

明星食品の創業者の1人である奥井清澄(おくい・きよずみ)は、大正11年(1922年)3月12日に京都府加佐郡新舞鶴町字浜(京都府舞鶴市)で、若狭塗の店を営む奥井萬蔵の次男として生まれた。母は奥井フサである。

奥井清澄は、新舞鶴尋常高等小学校の初等科と高等科を経て、昭和11年(1936年)4月に私立福知山商業高校へと進学した。

そして、昭和14年(1939年)に私立福知山商業高校を卒業し、競争率50倍という難関を突破して安田銀行へ就職した。

奥井清澄は安田銀行で顧客に残高証明書を送ることを思いついき、毎月、残高証明書を送っていると、顧客らから喜ばれ、感心な青年がいると評判になった。

しかし、新しく赴任してきた寮長とトラブルがあったらしく、奥井清澄は昭和17年(1942年)5月に安田銀行を退社した。

その後の詳細は不明ながら、奥井清澄は昭和17年12月に臨時招集を受け、兵庫県加古郡の第2航空教育部隊第3中隊に入隊した。

その後、いくつかの部隊を経て、昭和19年(1944年)5月に東京都杉並区練馬の陸軍気象教育部付となり、昭和20年(1945年)1月10日に満期除隊となるが、1月11日付けで再び臨時招集を受け、4月27日に航空本部付となった。

そして、この部隊で、奥井清澄は、渋沢栄一の孫・渋沢正一と出会い、親友となった。

さて、奥井清澄は陸軍気象学部の自動車班の班長をしており、終戦を迎えると、部下を食べさせるため、東京都三鷹市で自動車修理工場「郊外自動車」を始めた。

奥井清澄は専務だったが、社長と折り合いが悪かったため、郊外自動車を半年ほどで辞めて、日本橋箱崎町のバラックで自動車の部品販売「親和工業」を開始し、営業の取締役となった。

その後、親和工業は、渋沢正雄の親和興業の事業となるが、間もなく、奥井清澄は親和興業を辞めた。

奥井清澄は自動車を販売するディーラーを目指そうとしたが、反対する部下の造反に遭って親和興業を辞めたという。

その後、奥井清澄は渋沢正一の紹介でいくつか仕事をしたが、直ぐに辞めてしまい、浪人をしていた時に農山漁村文化協会で働いていた八原昌元と出会った。

八原昌元と奥井清澄の出会い

戦後の混乱が続く昭和23年(1948年)9月、八原昌元の妻が赤ちゃんをおんぶしたまま、引っ越しの荷物を新居に運び込んでいると、通りかかった奥井清澄が「奥さん、赤ちゃんを抱っこしてあげましょう」と声を掛けた。

これが八原昌元と奥井清澄の出会いで、これが切っ掛けで、2人の交流が始まった。

奥井清澄には事業を興したいという思いがあり、八原昌元はその思いに共鳴したが、金をかき集めても、金が足りない。そこで、八原昌元の家に遊びに来ていた叔父・八原昌照が愛媛県の家を売却して資金を提供することになった。

そして、安田銀行出身の奥井清澄の提案により、匿名組合「協和商会」が設立された。組合員は、八原昌元・八原昌之・八原昌照・奥井清澄の4人だった。

しかし、金融引き締めによる安定恐慌により、中小企業の倒産が相次ぎ、奥井清澄らは債権回収のために奔走し、ようやくトントンという有様だった。

乾麺の製造を始める

そのようななか、昭和24年(1949年)の秋、奥井清澄が乾麺の委託加工の話を聞きつけてきた。当時は食糧事情が悪いため、乾麺は統制による受託生産で、主食のひとつだった。国の仕事なので、当面は安定していた。

そこで、八原昌元らは乾麺ならやりたいと言って賛成し、昭和25年(1950年)3月28日に「明星食品」を設立して、乾麺の製造を開始したのである。

乾麺事業を主導するのは奥井清澄だが、初代社長には資本金の大半を出した八原昌照(八原昌元の叔父)が就き、奥井清澄は代表取締役専務に就任した。

八原昌元は農山漁村文化協会に呼びもとされて忙しくなったため、明星食品の創業役員には加われなかったが、3年後の昭和27年(1952年)に非常勤の取締役に就任している。

さて、乾麺は統制による受託生産なので、配給された小麦を使って乾麺を製造して納めるのだが、稼働能力が残っていても、小麦が無いので、割り当て以上の乾麺を生産することが出来ない。経営は非効率で、資金繰りは苦しく、小麦の自由化が熱望された。

しかし、昭和27年(1952年)6月に小麦統制が解除されると、今度は「販売」という問題が出てきた。今までは生産した乾麺を納めるだけだったが、今度は自分たちで販売しなければならないのだ。

戦前から乾麺を作っていた業者は全然からの販売ルートが使えたが、新規参入組は販売ルートが無く、「販売」という問題から廃業が相次いだ。

インスタントラーメン大手「サンヨー食品」も、酒販売店だったが、乾麺工場を廃業する親戚から乾麺事業を譲り受けて乾麺に進出し、昭和28年(1953年)11月30日に群馬県前橋市新町(前橋市朝日町)で「富士製麺」として創業した。

さて、零細企業だった明星食品は、少々無理な注文でも引き受けて販路を確保していくとともに、冷や麦や素麺などと商品を充実していき、「棒状の中華乾麺」や「ゆで麺」も始め、麺製造業へと発展した。棒状の中華乾麺は珍しさもあって好評だった。

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移動式自動乾燥装置の発明

乾麺の製造は、麺を天日で乾燥させるため、生産や品質は天候に大きく左右された。

そこで、奥井清澄は乾麺の乾燥機の開発に取りかかり、部屋の湿度と風の条件を整えれば、3時間半で麺が乾燥することを突き止めた。

そして、奥井清澄はクリーニング店につるされたハンガーをヒントにして、昭和29年(1954年)2月に移動式自動乾燥装置を開発した。移動式自動乾燥装置は、長らく技術的な進展のなかった乾麺業界に革命を起こした。

奥井清澄は、石原米太郎の技術公開論に感銘を受けており、移動式自動乾燥装置の特許を取得せずに公開したので、移動式自動乾燥装置は改良を加えられながら全国へと広まっていった。

移動式自動乾燥装置によって、乾麺の品質が安定し、品質や生産性も向上したので、値下げを行い、明星食品は昭和32年(1957年)に日本一の乾麺製造業者へと成長するのだが、乾麺は利益率が悪く、経営は苦しかった。

そこで、奥井清澄は、高利益商品として、高級乾麺の開発を急ぎ、昭和31年(1956年)に、蕎麦屋を対象とした業務量「長ひやむぎ」の販売を開始した。

この「長ひやむぎ」が好評で、明星食品は零細企業から中小企業へと成長し、昭和33年(1958年)には年商1億円を突破した。

ところで、社長・八原昌照の息子は、自分が相続する資産を父親が明星食品に投資してしまったため、明星食品のことを嫌っていた。

そこで、引退して息子のところに帰ることに決めた社長・八原昌照は、筆頭株主が他の人間では経営がやりにくいだろうと言い、全ての株式を奥井清澄に譲り、昭和31年(1956年)に社長を辞めて明星食品から手を引いた。

こうして、名実ともに奥井清澄が明星食品のトップになった。

即席麺への参入

昭和33年(1958年)の春に、東京の百貨店で、大和通商の陳栄泰が即席麺「ヤマトの鶏糸麺(ケーシーメン)」を発売した。

ほぼ同じ頃、大阪でも、東明商行の張国文が即席麺「長寿麺」を発売した。

それから数ヶ月遅れて昭和33年8月に日清食品の安藤百福が即席麺「チキンラーメン」を発売した。

そして、この中で最初に商業的に成功したのが、日清食品のチキンラーメンである。チキンラーメンが「お湯を入れて2分で食べられる魔法のラーメン」として大ヒットしたことにより、昭和34年に即席麺ブームが起きた。

そのようななか、昭和34年(1959年)に大手商社「東京食品(東食)」の穴沢彰が、明星食品に即席麺を製造する話を持ち込んできた。

昭和34年に即席麺ブームが起きて、続々と即席麺業者が誕生したが、チキンラーメンをヒットさせた日清食品が大阪の会社だった関係で、即席麺業者のほとんどは大阪に集中していた。

このため、東京は極端な品不足であり、東京食品(東食)の穴沢彰は、東京で即席麺を製造できる業者を探しており、乾麺で日本一の明星食品に即席麺を製造する話を持ち込んだのである。

当時は多くの乾麺業者が即席麺を「乾麺のまがいもの」と思っており、明星食品の奥井清澄も即席麺のことを「よくあんな物が売れるな」と馬鹿にしていた。

しかし、奥井清澄は東京食品(東食)の穴沢彰から即席麺製造の話を持ち込まれて、即席麺の利益の高さに驚き、即席麺の参入を決めた。

なにより、大手商社・東京食品(東食)のバックアップを受けられることが大きかった。明星食品は乾麺業界で日本一になったが、食品業界では小さな存在でしかかなかったのだ。

さて、奥井清澄は、東京食品(東食)のバックアップを得て、即席麺の研究に取り組み、昭和35年(1960年)の正月に試作を開始し、昭和35年1月末に即席麺1号となる「明星味付ラーメン」の発表会を開催した。

しかし、発表会で披露した「明星味付ラーメン」は、お湯を入れても解れず、お湯に沈んだままで、会場からは失笑が漏れた。

実は、製造責任者の藤田ではなく、他社から出向してきた営業担当者が見た目の綺麗な即席麺ばかりをサンプルに選んだため、サンプルは全て不良品だったのである。

こうして、明星食品の「明星味付ラーメン」の発表会は失敗に終わり、東京食品(東食)の顔に泥を塗ってしまったため、東京食品(東食)は日清食品と契約した。

明星食品は、大手商社「東京食品(東食)」という販売ルートを失ってしまったが、即席麺で日本初となる丸形即席麺を採用し、麺の量を減らして値段を下げ、乾麺の販路を活用するなどして、独自に販路を開拓していった。

(注釈:チキンラーメンは丸形というイメージで定着しているが、発売当初は長方形で、真ん中に折り目があり、半分に割るようになっていた。日本初の丸形即席麺は明星食品の「明星味付ラーメン」だった。)

ところで、「明星味付ラーメン」の発表会は大失敗に終わったが、「即席麺は鍋で煮て食べた方が美味しい」ということが判明する。

奥井清澄が、発表会で失敗したサンプルを鍋で煮て食べると、ちゃんとラーメンになったのである。しかも、湯を入れて食べる時よりも、鍋で煮た方が美味かったのだ。

こうして、作り方によって味が変わることを知った奥井清澄は、即席麺のパッケージの裏に、お湯を掛けて食べる方法だけではなく、鍋で煮て食べる方法も紹介した。

さて、明星食品は昭和35年(1960年)4月1日に「明星味付ラーメン」に発売を開始するが、4月末になると、返品が相次いだ。

奥井清澄は、味がよくなるという理由で、ラードに白絞油を混ぜていたのだが、白絞油は酸化が早いため、商品から悪臭がしたのだ。原因は完全な知識不足だった。

奥井清澄は、ただちに全品回収をして、白絞油の使用も止めたが、5月になっても返品が相次いだ。今度は、古くなったラードを使用し続けていたことが原因だった。

明星食品は、酸敗問題で大打撃を受けたが、6月には商品が改良されてからは売れ行きは好調で、昭和36年(1961年)3月には「全国インスタントラーメンコンクール」で食糧庁長官賞を受賞し、関東で最大の即席ラーメン業者へと発展した。

泥沼の特許紛争と明星食品

昭和34年に即席麺ブームが起きて、即席麺業者が続々と誕生すると、昭和35年9月に即席麺「ヤマトの鶏糸麺(ケーシーメン)」の製造特許を持つ大和通商の陳栄泰が、即席麺業者に1袋につき2円の特許使用料を請求した。

これを切っ掛けに、即席麺の製造特許を持つ東明商行の張国文日清食品の安藤百福(呉百福)も、それぞれに特許を主張し、即席麺業界で泥沼の特許紛争へと発展した。

当時の即席麺は、麺に味の付いた「味付麺」で、全ての即席麺業者がこの泥沼の特許紛争に巻き込まれ、特許使用料という問題が発生した。

このようななか、明星食品の奥井清澄は、日本初のカップラーメンを開発に取りかかるのだった。

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日本初のカップラーメン

昭和36年(1961年)の春ごろ、大東食研の社長・青木香須夫は、スープの素「栄味素」を売り込もうと思い、明星食品を訪れ、奥井清澄に味の付いていない即席麺を作らせ、「栄味素」で作ったスープで即席ラーメンを作って奥井清澄に食べさせた。

すると、これを食べた奥井清澄は、麺に味付けをしなくても、即席麺が出来ることに気付いた。

即席麺は、お湯を入れて2分で完成するという手軽さが好評で大流行したが、味付麺だったため、味が単一だったうえ、味も悪かったので、主婦の間で「家族に出せない」と酷評されていた。

これに対し、即席麺の前から流行していた「中華乾麺」は、「半即席麺」と呼ばれ、煮込む時間が長く、スープを別に用意しなければならなかったが、味が良く、中には具入りの物もあり、主婦の間では好評だった。

そこで、即席麺の品質向上を考えていた明星食品の奥井清澄は、スープと麺を別にした「スープ別添付方式」の即席麺を考えた。

ただ、当時はインスタントブームで「即席性」が重要であり、スープ粉末の入った小袋を破って入れるという点が大きな欠点だと考えられていた。

そこで、明星食品の奥井清澄は、この欠点を補うため、即席麺を初めから丼に入れておき、具も入っていれば便利だと考え、チャーシューとメンマを入れた日本初のカップラーメンの開発に取りかかったのである。

様々なテストの結果、日本初のカップラーメン「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」が完成し、鎌倉の海水浴場でテスト販売された。一般的な即席麺(袋麺)が35円だったのに対し、「明星叉焼麺」は1個50円だった。

しかし、容器に使用していたアイスクリームのカップに耐油性の問題あり、ラーメンの汁が染み出たり、カップの匂いがラーメンに移ったりする問題が生じた。

このため、カップに様々な検討が加えられたが、当時の技術では耐油性の問題が解決できず、容器の問題で昭和36年(1961年)7月に「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」の正式発売は断念された。

スープ別添付方式を開発

日本初のカップラーメン「明星叉焼麺」は商品化しなかったが、スープと麺を分離した「スープ別添付方式」の研究は続いていた。奥井清澄の狙いは、工場の工程から「スープ」を無くすことだった。

具の方は、チャーシューを具にするのは食中毒の危険があったので断念したが、シナチクを具にする研究は続けられた(このころはフリーズドライなどの技術が無かった)。

シナチクに味を染みこませて湯で戻したときにスープが出るようにするという方法が考えられたが、これは実現せず、色々と検証した結果、アルミ箔の小袋に粉末スープを入れることになった。

ところで、八原昌元は、非常勤の取締役として明星食品に籍を置く一方で、農文協で働いていたが、農文協を辞めて、昭和36年(1961年)4月にマーケティング会社「農林コンサルタントセンター(ACC)」を設立していた。

奥井清澄は創業時の恩返しとして、「農林コンサルタントセンター(ACC)」の資本金の大部分を引き受け、明星食品のマーケティングも八原昌元に任せていた。

そして、農林コンサルタントセンター(ACC)の調査によって、約半数の人が即席麺にネギや野菜などの具を入れて食べており、鍋で煮て食べる方が熱湯を掛けてるだけよりも美味しいと評価していたことが分かった。

幸い、明星食品の即席麺「明星味付ラーメン」は、袋の裏に鍋で煮て食べる方法も紹介していたので、「明星味付ラーメン」の消費者は比較的に鍋で煮て食べる人が多かった。

さらに、昭和36年(1961年)11月に農林コンサルタントセンター(ACC)が本格的な消費者調査を行い、様々な面でスープ別添付方式を評価する結果が出た。

この結果に大いに自信を深めた奥井清澄は、昭和37年(1962年)4月10日に即席麺で日本初となるスープ別添付方式の「支那筍入・明星ラーメン」を発売した。

そして、「支那筍入・明星ラーメン」の売れ行きは順調だったので、奥井清澄は従来の味付麺を止めて全てをスープ別添付方式を切り替えるため、昭和37年5月23日に幹部を集めて会議を開いた。

営業部門は即席性という面から従来の味付麺に根強い支持があり、味付麺とスープ別添付方式を半々にするという意見が強かったが、営業部長がスープ別添付方式の将来性を指摘すると、奥井清澄はその意見を待っていたかのように、営業部長の意見を支持して、スープ別添付方式への完全移行を決定した。

こうして、味付麺の「明星味付ラーメン」の製造が中止され、昭和37年(1962年)6月14日に「スープ付・明星ラーメン」の発売か開始されたのだった。

特許紛争への対応

即席麺業界で続く泥沼の特許紛争は、日清食品の安藤百福が東明商行の張国文から即席麺「長寿麺」の特許を買い取っており、特許紛争を有利に進めていた。

そして、日清食品の安藤百福は、昭和37年6月12日に「チキンラーメン」と「長寿麺」の特許を確定させると、現在発売中のインスタントラーメンのほぼ全てが「チキンラーメン」と「長寿麺」のいずれかの特許を侵害しているとして、即席麺を製造する各社に、15項目にわたる報告書の提出を求めた。

明星食品も即席麺を製造していたので、特許紛争の影響を受けるのだが、問題となっていた特許は味付麺に関する特許であり、明星食品の奥井清澄が開発した「スープ別添付方式」には関係が無かったため、明星食品は特許紛争を回避することが出来た。

奥井清澄が「味付麺」から「スープ別添付方式」への全面移行を急いだのも、泥沼の特許紛争を回避するという思惑があったのだ。

さて、明星食品は「スープ別添付方式」へ完全移行していたため、日清食品の安藤百福が持つ特許には抵触しなかったが、日清食品との無駄な争いを避けるため、日清食品と1食1円の特許使用契約を結んだ。

ただし、明星食品は、日清食品の顔を立てて特許使用契約を結んだだけで、特許は実施しないため、実際には特許使用料を払わない。

「スープ別添付方式」はコストが2円高く、日清食品へ1円の特許使用料を払っても、味付麺を作った方が安いため、明星食品は味付麺に戻すのではないかという噂が流れた。

しかし、噂を尻目に、夏の需要が落ち込む時期でも、スープ別添付方式の即席麺は爆発的な売れ行きを見せ、売り上げは前期の4倍になり、昭和39年(1964年)には売り上げ100億円を突破して、明星食品は一流企業へと躍進するのだった。

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韓国への技術無償提供

昭和38年(1963年)4月に韓国から1人の青年実業家・全仲潤が明星食品を尋ねてきた。

全仲潤は、韓国の三養食品工業の社長で、元々は保険の仕事をしていたのだが、朝鮮戦争後の食糧難を危惧し、食用油の工場を買い取り、三養食品工業を創業した。

全仲潤は仕事の関係で日本に何度も来ており、昭和34年(1959年)に日本で即席麺を食べ、いつか即席麺を手がけたいと考えていた。

ようやく韓国の国内情勢が安定してきたので、全仲潤は昭和38年に、5万ドル(1800万円)の外貨割り当てを得て、即席麺の製造機を購入するために来日した。

そして、日本でいくつかの即席麺業者や製造機メーカーを訪れたが、予算的にも難しく、話はまとまらなかった。

その後、全仲潤は名簿で見つけた上田麺機を訪れると、構造もシンプルで価格も手ごろな機械を発見し、購入の交渉をしようとしたところ、上田麺機の社長・上田喜三郎から「装置だけを購入しても駄目だ。技術も一緒に買わなければ」と言われ、明星食品を紹介され、尋ねてきたのだ。

明星食品の奥井清澄は全仲潤から、韓国の苦しい食糧事情を聞くと、1年前にイタリアの「パスタ・リッチ」社のリッチ社長から受けた恩を思い出した。

1年前に奥井清澄がパスタ事業に進出するとき、リッチ社長は奥井清澄の理想や熱意を受け入れ、無償でパスタの製造技術を指導してくれたのである。

当時、日本の即席麺業界では泥沼の特許紛争が起きていたこともあり、奥井清澄の感動はただならぬものだった。

そこで、奥井清澄は全仲潤に「6・25戦争(朝鮮戦争)で、お国はたいへんな災禍を受け、傷つかれました。日本は特需景気で儲け、深刻なドッジ不況から立ち直りました。明星食品は直接その恩恵を受けたわけではありませんが、無関係ではありません」と言い、三養食品工業の社長・全仲潤に全面協力を約束し、技術料もロイヤリティーも不要で、製造設備も実費(約1000万円)で提供することを約束した。

契約書も草案では色々と書かれていたが、奥井清澄は必要ないと言い、「技術を無償提供する」「日本に即席ラーメンを輸出しない」など、簡単な内容に留まった。

こうして、三養食品工業の社長・全仲潤は、明星食品の工場で技術を学び、企業秘密の配合も教えてもらい、韓国に帰って昭和38年(1963年)に「三養ラーメン」を発売した。これが韓国のインスタントラーメンの起源である。

その後、三養食品工業は3年間、赤字を続けたが、経済成長や後発組の即席麺業者3社が撤退したこともあり、昭和41年(1966年)に爆発的な売れ行きを見せ、累積赤字を一掃し、三養食品工業は食品業界の大手へと成長するのだった。

西日本へ進出

即席麺業界を混乱に陥れていた泥沼の特許紛争は、食糧庁の和解勧告を切っ掛けに、収束に向かい、昭和39年(1964年)に日清食品の安藤百福が特許紛争を制し、業界団体「日本ラーメン工業協会」を設立して理事長に就任した。

このようななか、即席麺業界で関東の最大手となった明星食品の奥井清澄は、関西進出に向けて、リサーチ会社「農林コンサルタントセンター(ACC)」を使って消費者調査を実施した。

すると、関西はチキンラーメンのような味付麺が主流だったが、「スープ別添付方式」は関西でも通用するという消費者調査の結果が出た。

そこで、明星食品の奥井清澄は京都工場に大阪支社を設立し、関西へ進出した。発売当初は鍋付きの特売が話題となったが、特売が終わり、需要が落ち込む夏になると、全く売れなくなり、返品が相次いだ。

このため、リサーチ会社「農林コンサルタントセンター(ACC)」の社長をしていた八原昌元は、奥井清澄から消費者調査の責任を負わされ、京都支社へ行って日産500万食を達成するように命じられたのである。

こうして京都支社へ行った八原昌元が調査した結果、主な原因は関西特約店となった野田喜商事の感情を害したことや、関東と関西の味覚の違いと考えられた。

そこで、八原昌元は野田喜商事と話し合って関係を改善するとともに、スープを改良して昭和39年9月から改良版に差し替えた。

こうして、八原昌元は諸問題を解決すると、ラジオCMやテレビCMやキャンペーンを展開して、売り上げを急増させ、昭和39年(1964年)12月に日産500万食を達成したのだった。

そして、関西で成功した明星食品は、京都工場を西日本の拠点として中国・四国・九州へと販路を拡大し、日清食品を抜いて全国で業界トップへと成長するのだった。

その後、リサーチ会社「農林コンサルタントセンター(ACC)」の八原昌元は、亀田製菓の東京進出の時にリサーチを引き受け、亀田製菓の東京進出を成功させた。

明星食品を創業した八原昌元と奥井清澄の立志伝」へ続く。

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