NHKの朝ドラ「なつぞら」の主人公・奥原なつ(広瀬すず)のモデルとなるアニメーター奥山玲子(おくやま・れいこ)の立志伝です。
奥山玲子は昭和10年(1935年)に宮城県仙台市で生まれた。父親は商人の家系で教師をしていた。母親は伊達藩の国家老の次男の家系である。
奥山玲子は病弱で、秋から春までは床に伏せるという少女時代を過ごした。児童文学や漫画は読んだ記憶は無く、小学4年生で「シェークスピア全集」「日本文学全集」「世界文学全集」を読むという文学少女だった。
そして、中学生になるまでは、自分で西洋童話を創作し、衣装を作って、兄弟に役を割り振り、年に2回、近所の人や親戚を集めて披露していた。
小学校の時は休んでばかりだったが、成績は良かったので、総代として卒業証書を受け取った。
しかし、敗戦の影響で教科書が黒塗りにされたりしたことを切っ掛けで、価値観が一転して大人不信になり、反抗期へ突入した。
奥山玲子は、小学校を卒業してミッションスクールの宮城学院中学校へ進むと、「大人の言うことは聞かない」と決め、反抗的な少女となり、教師たちを困らせた。
そして、フランスの実存主義の影響を受け、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールのようになりたいと思っていた。
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奥山玲子は、宮城学院高校を卒業した後、教師をしていた父親の意向で東北大学教育学部へと進学したが、教師になる気にはなれず、大学を2年で中退し、家出同然で上京して、職を転々としていた。
そのようななか、務めていたデザイン会社が不景気の影響で給料遅配になり、奥山玲子が困っていたときに、叔父が東映動画(東映アニメーション)の一般公募があると教えてくれた。
奥山玲子(20歳)は、「動画」を「童画」と勘違いしており、絵本の仕事だと思って面接を受けると、面接でいきなり中割を描かされて驚いたが、高校時代に似顔絵を描いたり、大学時代に油絵を描いたりしていたので、なんとか東映動画に採用され、臨時採用として東映動画に入社した。
このころ、東映本社採用の大卒の給料が1万3500円で、その下が東映動画の定期採用だった。給料には男女格差があり、男性より女性の方が安かった。
臨時採用の給料に男女差は無かったが、臨時採用は定期採用の半分しか給料がもらえず、臨時採用の給料は大卒で6000円、高卒で5000円だった。
(注釈:昭和32年の公務員の教員の初任給が8000円なので、昭和32年の6000円は、平成の価値に換算すると約12万円)
しかも、定期採用のノルマは動画15枚で、定期採用は定時には帰るのに、臨時採用は残業代を稼がないと生活できないため、残業を続けた。
奥山玲子は生活のためだけでは無く、勝ち気な性格だったので、大塚康生が1日に40枚描いたというので、奥山玲子も負けじと1日に40枚を描いた。
さて、奥山玲子の初めての仕事は昭和33年(1958年)に公開された日本初のカラーアニメーション「白蛇伝」で、「白蛇伝」の次は誰もやりたがらない「たぬきさん大当たり」の班に入れられた。
しかし、「たぬきさん大当たり」での仕事が認められ、次の「少年猿飛佐助」ではセカンドに抜擢された。同期で最初のセカンドだった。
この「少年猿飛佐助」は、森班と大工原班に分かれていたのだが、森康二と大工原章は対照的な作風だったので、奥山玲子は両方から学びたいと考え、どちらにも属さず、森康二と大工原章の両方の仕事をこなした。
さらに、奥山玲子は昭和36年(1961年)公開の「安寿と厨子王丸」で原画補に昇格し、昭和37年(1962年)公開の「シンドバッドの冒険」で原画に昇格して、ヒロインや猫のキャラクターデザインを任された。
奥山玲子は安月給なので、多くの服は買えないはずだが、いつも服やアクセサリーなど、どこかしら違っていたので、アニメーターの大塚康生が不思議に思い、奥山玲子の服をスケッチするようになった。
しかし、いつまでたっても同じ服を着てこないので、大塚康生は根を上げてスケッチを止めてしまった。
すると、アニメーターの角田紘一が、大塚康生の後を引き継いで、スケッチを始めた。
角田紘一は直ぐに止めようと思っていたのだが、奥山玲子がいつまでたっても同じ服を着てこないので、止めるに止められなくなってしまった。
その後、ようやく、同トレス(同じ服という解釈で良いと思う)が増えてきたので、角田紘一は「ざまあみろ。これで止められる」と思ったのだが、また奥山玲子が違う服を出だしたので、角田紘一も根を上げてスケッチを止めてしまった。
奥山玲子は、スケッチされていたことを知らなかったので、後でスケッチを見て「そういえば、あの頃の角やんは、よくこっちを変な目つきで見ていたわねえ」と言った。
東映動画では、社内ダンスパーディーが流行しており、仕事が終わると、机を片づけてダンスをしていた。やがて、誰かの家でレコードをかけてダンスをするようになった。
あるとき、小田部洋一は、何をどう間違ったのか、上司の奥山玲子の手を握ってしまった。
奥山玲子は同僚と交際中だったし、小田部洋一を遊び人だと思っていた。小田部洋一も絵をチェックされる側なので、上司は恋愛対象外だった。
しかし、男と女は不思議なもので、このダンスが切っ掛けで、2人は交際を開始する。奥山曰く「気が付いたら、石神丼公園を2人で歩いてたのよ」という。
昭和38年にアニメ「わんぱく王子の大蛇退治」を制作していたとき、小田部洋一は演出助手の高畑勲から絵コンテについて、「流れがおかしい」と指摘されたが、小田部洋一は真っ向から高畑勲とやり合い、自分の意見を通した。
小田部洋一は「かんしゃくを起こしただけ」と言うが、奥山玲子は、労働組合の活動を通じて高畑勲に一目置いていたので、物応じせずに、高畑勲とやり合う小田部洋一を観て、小田部洋一を評価するようになったという。
やがて、2人が結婚を前提に交際するこを決めると、奥山玲子はケジメを付ける性格だったので、小田部洋一を元彼のところに挨拶へ行かせた。
なんと、小田部洋一が元彼の所に挨拶に行くと、元彼は小田部洋一の大学の先輩だった。
周囲の人は絶対に性格が合わないと思っていたのか、2人の結婚を止めたが、2人の決意は変わらなかった。
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昭和38年(1963年)、手塚治虫がフジテレビで30分のテレビアニメ番組「鉄腕アトム」の放送を開始する。
この「鉄腕アトム」が日本初のテレビアニメで、日本でテレビアニメ時代が始まるのだが、「鉄腕アトム」は毎週1本のアニメを作らなければならないという無謀とも言える挑戦だった。
そのようななか、奥山玲子(26歳)は昭和38年(1963年)7月7日の七夕に後輩の小田部羊一と結婚した。プロポーズの言葉は無く、出来ちゃった結婚だった。
東映動画の同僚が10人くらい集まって結婚準備委員会を組織して準備をしてくれ、国際基督教大学の礼拝堂で式を挙げ、校内にあった日本屋敷の庭で会員制の披露宴を開いた。
元彼も結婚式でスピーチをしてくれた。元彼は結婚式のスピーチで、「奥山さんは僕の・・・」というので、同僚は元彼だと暴露するのかと固唾をのんだが、元彼は「奥山さんは僕の・・・班に居まして」と言い、みんなをホッとさせた。
さて、奥山玲子は、出産を経て昭和40年(1965年)に会社に復帰した。
東映動画はブラック企業で、女性差別があり、入社時に女性は「結婚したら退職する」という誓約書を書かされたり、昇格と引き換えに一生独身を迫られた人も居りしたため、奥山玲子はこのような差別と戦うと決め、結婚しても職場に残った。
東映動画の女性社員で結婚しても職場に残ったのは奥山玲子が初めてで、奥山玲子は産休が開けて職場に復帰すると、会社から、契約の方が給料を多く払えるとして、契約社員にならないかと持ちかけられた。
(注釈:この時代の契約社員は、現在の契約社員とは違い、重要な人が契約社員になって給料を多くもらっていた。)
しかし、奥山玲子は、みんなと一緒に会社の枠組みの中で差別や格差と戦いたいと考え、契約社員の話を断ると、会社からボーナスや昇給の査定を下げられた。
そこで、奥山玲子は技術と仕事量で会社からの圧力に対抗しようと考え、「狼少年ケン」の作画監督を務めた。
すると、会社は矛先を変え、勤務時間中に自動車学校に通っていた夫・小田部羊一を、職場離脱だと責めた。
このとき、夫・小田部羊一は、テレビアニメ番組「少年忍者・風のフジ丸」の作画監督補佐を務めていた。
テレビアニメは1週間単位で作品を仕上げるため、仕上げの深夜作業が多くなることから、朝の出勤は遅くても黙認されていた。
そこで、子供の送り迎えに車が必要になった夫・小田部羊一は、朝の時間を使って教習所へ通っていたのだ。
しかし、会社から責められた夫・小田部羊一が「みんなやっている」と言って突っぱねたため、話はこじれていき、終いには会社が夫・小田部羊一を解雇するという事態になった。
そこで、奥山玲子は労働組合に助けを求めたが、労働組合は個人的な問題として相手にしてくれなかった。
しかし、奥山玲子が、これは共働きに対する差別だと言って組合員を説得して回ると、労働組合も解雇撤回を求めて東映動画と戦ってくれた。
労働組合の中心に居た高畑勲や宮崎駿も解雇撤回に真剣に取り組んでくれ、本社の労働組合や弁護士の協力もあり、夫・小田部羊一の解雇は撤回され、降格という決着に落ち着いた。
しかし、東映動画は労働組合が強かった影響で、良い作品を作れる環境ではなくなっており、高畑勲・宮崎駿・小田部羊一の3人が東映動画を去ってAプロへ移籍してしまう。
奥山玲子も東映動画を辞めたかったのだが、労働組合の中心に居た宮崎駿が辞めた影響で、東映動画を辞められない雰囲気になってしまった。
奥山玲子は東映動画に残って「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」「デビルマン」「マジンガーZ」などのアニメを手がけたが、流れ作業だったうえ、会社との関係もあり、責任を負わされて辛い仕事だったという。
昭和46年(1971年)に東映の社長・大川博が死去すると、赤字部門だった球団「東映フライャーズ」と「東映動画」がやり玉に挙がり、東映動画がリストラを開始した。
東映動画は、動労組合が強かったため、仕事する社員も、仕事をしない社員も同じ給料を貰っていたので、非効率で人件費が膨らんでおり、東映動画が人件費を削減するために、指名解雇を始めたのである。
このため、労働組合が激しく対立して、労働闘争へと発展し、東映動画が会社を封鎖して社員を閉め出し、ロックアウトする事態に至った。
女性の作画は奥山玲子以外は全員解雇され、アニメの制作は一部の社員と外注によって制作するという有様だった。
しかし、奥山玲子は、長編アニメまで外注にしてはいけないと考え、長編アニメ「アンデルセン童話・にんぎょ姫」の作画監督を担当すると、社内制作を主張し、外部スタッフの協力を得ながらも社内中心で長編アニメを完成させた。
その後、労働紛争が和解になり、指名解雇されていた社員が復帰してくると、奥山玲子は、この機会を逃せば辞められないと考え、「長靴をはいた猫・80日間世界一周」を最後に、18年間務めた東映動画を辞めた。
このころ、高畑勲・宮崎駿・小田部羊一の3人は、Aプロからズイヨー映像(日本アニメーション)に移籍して、森康二と「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」を手がけた後、「母をたずねて三千里」を制作していた。
そこで、東映動画を退社した奥山玲子は夫・小田部羊一から強い要請を受けてズイヨー映像(日本アニメーション)に入社し、「母をたずねて三千里」の制作に加わり、作画監督補佐を務めた。
しかし、奥山玲子は東映動画時代の反動から、組織の中で働くことが嫌に思い、その後はフリーになった。
そのようななか、古巣の東映動画から夫・小田部羊一に長編映画「龍の子太郎」の作監の依頼がきた。
夫・小田部羊一は、仕事を引き受ける条件として、演出は高畑勲、美術は土田勇、制作は岸本松司、作監補佐に奥山玲子を指名したが、東映動画が準備期間は奥山玲子の給料を払わないと拒否した。
このため、夫・小田部羊一は怒って机を蹴って帰ってきたので、奥山玲子は夫・小田部羊一を説得して、長編映画「龍の子太郎」の作監を引き受けさせ、準備期間中は無償で働いた。
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さて、フリーになった奥山玲子は、運良く仕事に恵まれて、「キャンディ・キャンディ」「まんが日本絵巻」「龍の子太郎」「じゃりン子チエ」を手がけた。
しかし、奥山玲子は43歳になっており、「じゃりン子チエ」を手がけたころから、自分のパートだけを担当する流れ作業に耐えられなくなっていた。
このころから、奥山玲子は絵本を手がけるようになった。絵本の仕事はアニメーションより楽しかったが、大人の絵を描きたいという欲求が捨てきれず、昭和60年(1985年)に絵本も止めた。
そして、森康二の要請を受け、夫・小田部羊一と共に昭和60年(1985年)から東京デザイナー学院アニメーション科で講師に就任し、後進の育成に当たった。
奥山玲子は、筆まめで、何か気付くことがあれば、生徒に手紙を書いたので、生徒から慕われ、アニメーションの女性講師の草分けとなり、18年間の講師生活で、数多くのアニメーターを世に送り出している。
51歳になった奥山玲子は、昭和63年(1988年)に公開した映画「火垂るの墓」を最後にアニメーターから引退して、銅版画家としての道を歩み始めた。
ところが、まもなくして、顔見知り程度だった岡本忠成から、短編アニメ「注文の多い料理店」への参加を要請される。通常のアニメではなく、銅版画調でやりたいのだという。
効率化が求められていた時代に、岡本忠成らは非効率を楽しんでいたので、奥山玲子は「この作品なら」と思って仕事を引き受け、主にハンター2人の原画を担当した。
すると、小劇場の劇団員になったようで、とても楽しく、奥山玲子は「アニメーションをやって来て良かった。私のキャリアは無駄ではなかったんだ」と思った。
「注文の多い料理店」は、制作途中で岡本忠成が死去したため、一時制作が中断したが、盟友の川本喜八郎が後を引き継いで、平成3年(1991年)に公開された。
奥山玲子は、「注文の多い料理店」の制作に関わったおかげで、モヤモヤした気分が晴れ、以降は「注文の多い料理店」のような特殊なアニメーションだけに関わろうと決めた。
奥山玲子の長いキャリアの中で最も印象に残る作品は、「注文の多い料理店」だったという。
奥山玲子は「注文の多い料理店」の仕事が終わった後、銅版画の個展などを開催して、銅版画家としてのキャリアを積んでいった。
そして、平成15年(2003年)公開の銅版画調のアニメ「冬の日」で、奥山玲子は絵コンテと設計を担当してアニメーション作家としてデビューした。原画は夫・小田部羊一が担当した。
その後も奥山玲子は、銅版画をフルアニメーションで動かす自主制作作品の構想を練っていたが、平成19年(2007年)5月6日に死去した。死因は肺炎。70歳だった。
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