小野道高(小野政直)と小野道好(小野政次)の立志伝

井伊家の筆頭家老を務めた小野道高(小野政直)と小野道好(小野政次)の立志伝です。

小野氏の由来

近江国佐賀郡小野村(滋賀県大津市)を本貫とする豪族・小野氏が居る。この小野氏は遣隋使・小野妹子などを排出した名門である。

遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を支配する井伊家の筆頭家老を務めた小野氏は、滋賀県の名門・小野氏から枝分かれし、遠江国豊田郡小野村に土着したとされる。

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小野氏が井伊家の家老に

遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を支配する井伊家は、遠江国の守護大名・斯波義達に属して、駿河(静岡県中部・北部)の守護大名・今川家と対立した。

しかし、井伊家21代当主・井伊直宗(井伊直虎の祖父)のとき、駿河の今川氏親(今川義元の父)に攻められて降伏し、今川氏親に仕えるようになった。

このとき、小野氏の小野兵庫助が今川家から井伊家に家老として派遣され、井伊直平の家老になったという。

小野家が井伊家の家老になった正確な経緯は分からないが、井伊家21代当主・井伊直宗のときに小野兵庫助は井伊家の家老となった。

小野氏は主家の今川家に井伊家の事を頻繁に報告しており、今川派の家老であった。

小野氏は、今川家のスパイとも今川家と内通していたとも言われており、小野道高(小野政直)と小野道好(小野政次)が2代にわたって井伊氏を苦しめることになる。
井伊直虎と家老・小野氏

小野和泉守(小野道高/小野政直)の讒訴事件

井伊家の23代当主・井伊直盛のとき、小野氏の小野和泉守(小野道高/小野政直)が井伊家の筆頭家老を務めていた。

23代当主・井伊直盛は、嫡男がおらず、子供は娘・井伊直虎だけだったので、井伊直満の子・亀之丞(井伊直親・9歳)を養子に迎え、娘・井伊直虎と結婚させることにした。

しかし、井伊家の筆頭家老・小野道高(小野政直)は、井伊直満の事を嫌っていたので、井伊直満の子・亀之丞(井伊直親)に井伊家の当主を継がせることを嫌った。

そこで、天文13年(1544年)12月、小野道高(小野政直)は、結婚を阻止するため、主家の今川義元に「井伊直満と井伊義直に謀反の疑い有り」と讒訴したのである。

その結果、訴えを受けた今川義元は、井伊直満と井伊義直を審問して自害させたうえ、井伊直満の子・亀之丞(井伊直親)も処刑しようとした。

しかし、井伊直満の家老・今村藤七郎(今村正実)が危機を察知して亀之丞(井伊直親)を連れて逃げ、龍泰寺の住職・南渓瑞聞を頼り、南渓瑞聞の和尚ネットワークを使って信州国伊那郡市田村にある松源寺へと逃れた。

亀之丞(井伊直親)は井伊一族で唯一の男児だったため、亀之丞(井伊直親)の居場所は井伊家内でも秘匿され、亀之丞(井伊直親)は松源寺で10年を過ごすことなる。

小野道高(小野政直)は井伊家の筆頭家老で大きな力を持っていたことから、讒訴事件は黙認された。

そして、讒訴事件から10年後の天文23年(1554年)に小野道高(小野政直)が死去すると、井伊直盛は主家の今川家に亀之丞(井伊直親)の恩赦を願い出て、恩赦が認められたので、亀之丞(井伊直親)は井伊谷に帰国した。

亀之丞(井伊直親)は隠れ住んでいた10年間の間に、土地の有力者で代官の塩沢氏の娘と結婚し、子供を儲けていたが、井伊家に認められた結婚ではないため、妻子を残して井伊谷に戻った。

しかし、許嫁の井伊直虎はこれを悲しみ、「次郎法師」と名乗って出家していた。

このため、嫡男の居ない23代当主・井伊直盛は、亀之丞(井伊直親)を養子に迎え、井伊一族の奥山朝利の娘と結婚させた。これ以降、亀之丞は「井伊直親」と名乗った。

一方、小野道高(小野政直)の死後、その子(もしくは一族)の小野道好(小野政次)が井伊家の筆頭家老に就いた。

小野但馬守(小野道好/小野政次)の立志伝

永禄3年(1560年)5月、井伊家は主家・今川義元の先方を務め、尾張(愛知県西部)へと侵攻したが、織田信長の奇襲攻撃に遭い、桶狭間の戦いで今川義元が討死した。

この桶狭間の戦いで、今川義元の先陣を務めた井伊家も当主・井伊直盛のほか、一族・重臣16人が討死。家老・小野家の一族・小野玄蕃(小野朝直)も討死しており、井伊家は大きな被害を出した。

22代当主・井伊直盛の死により、養子の井伊直親(亀之丞)が井伊家の家督を相続し、翌年の永禄4年(1561年)2月9日に嫡男・虎松(井伊直政)が生まれた。

さて、永禄3年(1560年)12月、家老・小野道好(小野政次)は、井伊家で勢力を伸ばしていた井伊一族の奥山朝利を殺害する。

さらに、永禄5年(1562年)、井伊家の家老・小野道好(小野政次)は、主家の今川氏真に「井伊直親(亀之丞)が徳川家康と組んで謀反を起こそうとしている」と讒訴した。

それを聞いて怒った今川氏真は井伊家を攻めようとしたが、今川家の重臣・新野親矩にって止められたため、井伊直親(亀之丞)を駿府城へ呼んで釈明させることにした。

井伊直親(亀之丞)は釈明のため、駿府城へ向かったが、掛川城に通りかったところで、今川家の掛川城主・朝比奈泰朝の手勢に取り囲まれ、井伊直親(亀之丞)は討ち取られた。

こうして、家老の小野氏は2代にわたって讒訴し、井伊家に大きな被害を与えたのである。

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井伊直虎と井伊徳政令で暗躍

度重なる戦と家老・小野氏の讒訴により、井伊一族で残る男子は幼い男児・虎松(井伊直政)だけとなった。

しかし、今川氏真が執拗に虎松(井伊直政)の命を狙ったので、龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は虎松(井伊直政)を三河の鳳来寺へと移して虎松(井伊直政)を守った。

こうして、井伊家の当主は不在となったため、井伊一族は話し合い、僧として出家していた女の次郎法師(井伊直虎)が還俗して、井伊家の当主になり、井伊谷城の女城主となって井伊谷を治めた。

しかし、あくまでも井伊家の転覆を狙う小野道好(小野政次)は、商人・祝田禰宜と手を組んで農民を扇動し、今川氏真に徳政令を求めて訴えを起こさせた。

永禄9年(1566年)、農民の訴えを受けた今川氏真は、井伊直虎に徳政令(借金を帳消し令)の公布を命じた。

徳政令を出さなければ農民が一揆を起こし、徳政令を出せば井伊家の経済は破綻するという難しい局面を迎えたが、井伊直虎は徳政令の公布を先送りし、その間に寺を保護して経済を確保し、この難局を乗りきった。

しかし、今川氏真からの圧力に耐えられなくなり、井伊直虎は公布命令から2年後の永禄11年(1568年)11月9日に徳政令(借金を帳消し令)を公布した。

井伊谷の直接支配を目論んでいた今川氏真は、「統治能力が無い」として、井伊直虎を地頭職から罷免した。そして、井伊谷を直轄地とし、小野道好(小野政次)を井伊谷の代官とした。

こうして、小野道好(小野政次)は井伊谷城の城代となり、念願の井伊谷城を手に入れたが、小野氏の栄光は束の間だった。

小野道好(小野政次)の滅亡

小野道好(小野政次)は井伊直政を失脚させ、念願の井伊谷城を手に入れたが、主家の今川家は桶狭間の戦いで惨敗して以降、衰退の一途をたどっていた。

このようななか、今川家と元同盟を結んでいた甲斐の武田信玄が外交方針を一転し、徳川家康と組んで今川領へと侵攻しする。

すると、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)が、今川家に反旗を翻し、徳川家康の道案内をして遠江(静岡県)へと引き入れた。

小野道好(小野政次)は徳川家康の手勢に攻められたため、井伊谷城を捨てて逃げたが、捕らえられ、永禄12(1569年)4月7日に讒訴した罪で処刑された。

その後、小野道好(小野政次)の息子2人も処刑された。

小野一族のその後

小野道好(小野政次)と小野道好(小野政次)は今川派の家老として井伊家転覆を狙い、2代に渡って讒訴し、井伊家を苦しめたが、小野一族全てが井伊家に敵対していたわけではない。

小野道好(小野政次)の弟・小野玄蕃(小野朝直)は井伊家のために出陣して桶狭間の戦いで討死した。

さらに、小野玄蕃(小野朝直)の息子・小野玄之助(小野朝之)は、徳川家に出仕した井伊直政に仕え、井伊直政の重臣となっている。

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