ベビーナースの大ヶ瀬久子の立志伝

神戸でベビーナースとして活躍し、皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」でベビーコンサルタントを務めた大ヶ瀬久子の立志伝です。

ベビーナースとは

ベビーナースは、育児専門の看護婦のことで、戦前、外国人専門の病院に属して、外国人医師の指導のもとで外交官や外国人家庭を専門に3ヶ月単位で育児指導を引き受けており、大ヶ瀬久子・岡本記代子・下岡仲子(昭和47年に死去)らが神戸のベビーナースとして活躍していた。

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大ヶ瀬久子の立志伝

ベビーナースの大ヶ瀬久子大ヶ瀬久子は、明治33年(1900年)に兵庫県揖保郡に生まれた。揖保郡立助産婦・看護学校入学。平行して大日本実修女学会通信教育部に入学して両校を卒業した。

そして、大ヶ瀬久子は大正5年(1916年)に助産婦と看護婦の資格を取得して、コウベインターナショナルホスピタルと日独病院に勤務し、世界各国の外国人ドクターから指導を受けながら、神戸で外国人専門のベビーナースとして活躍した。

さて、昭和17年(1942年)10月に神戸の外国人村に住んでいた坂野惇子(佐々木惇子)が長女・坂野光子を出産する。

このとき、ベビーナースの大ヶ瀬久子は、イギリス人のオーツ夫人の紹介により、坂野惇子(佐々木惇子)に招かれ、3ヶ月間にわたり、西洋式の育児法の指導を務めた。

ベビーナースは、昭和12年頃から「うつ伏せ育児法」を行っており、当時の西洋式育児法はかなり発達していた。

また、ベビーナースは、外国では権威のある職業で、外国人家庭では上座に置かれ、先生として扱われており、坂野惇子は外国人家庭の風習にならい、感謝の気持ちから、ベビーナース大ヶ瀬久子を上座に置いて先生として扱った。

坂野惇子の夫・坂野通夫は東京帝国大学を卒業して大阪商船(商船三井)に入社しており、夫・坂野通夫の初任給が90円という時代に、ベビーナース大ヶ瀬久子への支払いは1ヶ月150円と高額だったので、夫・坂野通夫も相当おどろいていた。

また、坂野惇子(佐々木惇子)の父・佐々木八十八も母・佐々木倆子も、当初、ベビーナース大ヶ瀬久子の西洋式の育児法に半信半疑であった。

しかし、西洋式の育児法は、日本古来の慣習的な育児法とは全く違い、一つ一つが医学や心理学に基づいて赤ちゃんの事が考えられており、坂野家の主治医がベビーナース大ヶ瀬久子の育児法に感心したので、佐々木八十八と佐々木倆子もすっかりとベビーナースの大ヶ瀬久子に敬服するようになった。

これが縁で、ベビーナース大ヶ瀬久子は、坂野惇子の姉が出産したときも、育児指導も1年間、務めている。

大ヶ瀬久子の戦後

終戦直前の空襲でコウベインターナショナルホスピタルと日独病院が焼失したため、戦後、大ヶ瀬久子は独立して外国人専門のベビーナースとして活躍した。

一方、坂野惇子(佐々木惇子)は、ベビーナース大ヶ瀬久子から学んだ西洋式の育児法を生かして「ベビーショップ・モトヤ」を創業し、ベビー服ブランド「ファミリア」へと発展させ、ファミリアは昭和31年(1956年)5月に東京進出を果たした。

このようななか、ベビーナース大ヶ瀬久子は、坂野惇子(佐々木惇子)に招かれ、昭和36年(1961年)にファミリアに入社し、ベビーナース岡本記代子・下岡仲子と共にベビーコンサルタントとしてファミリアで活躍した。

大ヶ瀬久子はファミリアでベビー相談員を育成に貢献したほか、取引先の百貨店のベビー用品売場から要請を受けて育児の出張講義を行ったり、病院や保育士からも要請を受けて講義を行った。

有名な小児科医博士も、わざわざ、赤ちゃんの扱い方を尋ねに来るという程で、坂野惇子(佐々木惇子)は、大ヶ瀬久子を「育児に置いては人間国宝級」と評価して尊敬した。

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