阪急百貨店の清水雅が東京進出-大井どんたくの由来

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第33話「阪急百貨店の清水雅が東京進出-大井どんたくの由来と起源」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

阪急百貨店の東京進出と清水雅

戦後、阪急電鉄から独立した阪急百貨店は順調に業績を伸ばしていたので、阪急百貨店の社長・清水雅は東京進出を考えていた。

東京からも阪急百貨店を誘致しようという声がいくつかあったが、阪急グループ総帥の小林一三は地域一帯を開発するような構想を持っていたので、なかなか小林一三の許可が出るような物件が見つからなかった。

そうしたなか、昭和28年(1953年)に鐘淵紡績(カネボウ)の武藤絲治(武藤山治の次男)から小林一三に、国電・大井町駅の前にある鐘淵紡績(カネボウ)のビルを使わないかと打診があった。

このころ、東京都品川区大井町は空襲の影響で荒廃しており、鐘淵紡績(カネボウ)のビルは空襲よけの迷彩が施されたままで、未だに戦後を色濃く残していた。

しかし、東京都品川区大井町には国電・大井町駅の他にも、東京急行大井線の終点があり、立地条件としては良かった。

それに、東京急行大井線は、小林一三が提唱する沿線住宅構想を取り入れていたので、沿線に住宅地が広がっていた。

このため、阪急グループ総帥・小林一三から出店の許可が出て、ついに、清水雅は念願の東京進出を果たすことになった。

こうして、阪急百貨店は、昭和28年(1953年)11月28日、国電・大井町駅の前にある鐘淵紡績(カネボウ)のビルで阪急百貨店・東京大井店をオープンし、関西の百貨店で初の東京進出を果たしたのである。

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大井どんたくの由来と起源

阪急百貨店の社長・清水雅は、東京大井店のためにアメリカの百貨店を視察し、東京進出にはかなり力を入れたのだが、当時の大井町は戦争の影響で荒廃しており、復興とはほど遠い状況だった。

そこで、清水雅は「百貨店はお客様に来てもらう商売で、出かけていく商売ではない。百貨店がいくら努力しても、街が大きくならなければ、百貨店は大きくならない。百貨店はあくまでも街に付随した物である」と考え、大井町を復興させるため、大井町に東京一の名物になるようなものを作ろうと考えた。

そこで、清水雅は、1年前に福岡県で「博多どんたく」を見た時のことを思い出した。

1年前、阪急百貨店の社長・清水雅は、九州の百貨店組合から講演を頼まれ、九州の福岡県・小倉の井筒屋百貨店で講演をした。

講演やその後の宴会が終わると、清水雅は帰ろうとしたのだが、組合員からの強い勧めで博多に宿泊し、生まれて初めて「博多どんたく」を見た。

阪急百貨店の社長・清水雅は、街全体が凄い熱気になっていたので、驚いて色々と話を聞いていると、福岡県・黒田藩に偉い家老が居て、その家老が「町人の声を聞かなければ政治はできない」と言い、町人の声を聞くために、3日間を無礼講にしたのが、「博多どんたく」の始まりだと教えくれた。

清水雅は祭りに興味を持たずに生きてきたが、街全体が1つの事に熱狂する「博多どんたく」に強い印象を受けた。

さて、1年前に見た「博多どんたく」を思い出した清水雅は、戦争で荒廃した大井町を復興させるため、大井町で「博多どんたく」のような祭りを開催することにした。

博多どんたくのように、町人達が色々と芸を披露するのが理想だが、いきなりは無理だろうと思い、清水雅は阪急グループという利点を生かし、宝塚の女優や東宝の俳優などをステージにあげて歌わせることにした。

こうして、昭和29年(1954年)8月21日・22日の2日間にわたわり、阪急百貨店の主催で第1回「大井どんたく」が開催された。これが「大井どんたく」の起源であり、始まりである。

その後、大井どんたくは回を重ねるごとに順調に大きくなっていったので、阪急百貨店は大井どんたくの運営を完全に大井町民に委ねた。

こうして、大井どんたくは大井町民によって運営されるようになり、現在のスタイルが確立したのである。

さて、東京大井店の出店で東京進出を果たした阪急百貨店の社長・清水雅は、その後、東芝の要請を受けて銀座に進出し、数寄屋橋阪急を出店することになる。

坂野惇子の立志伝-第34話は、「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」から選んでください。

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