北海道の乳業メーカー「よつ葉乳業」の創業者・太田寛一の立志伝です。
太田寛一は大正4年(1915年)10月10日に十勝国川西村八千代(北海道帯広市川西町)で、太田茂市の次男(6人兄弟の2番目)として生まれた。母は太田ハルである。
父・太田茂市は岐阜県の出身で、明治38年(1905年)に弟や従兄弟と共に、北海道帯広市川西町に入り、生活の目処が立つと、帰郷して太田ハルと結婚し、両親を北海道に呼び寄せた。
父・太田茂市は大工の棟梁で、雇っている職人に頼まれると、どこからか金を調達してきて貸すのだが、期日が来ても取り立てるようなことができないので、貸し倒れが増えていき、莫大な借金を背負っていた。
借金を返済しなければならないため、お粥も食べられないほど苦しい生活で、父・太田茂市は祖母から責められ、祖母が死ぬと、母・太田ハルから責められ、金を貸さないと約束したが、それでも頼まれると、金を貸していた。
父・太田茂市は医者にも治療費や薬代を払っていなかったため、母・太田ハルが病気になった時に往診に来てもらえず、母・太田ハルは死んでしまった。太田寛一が小学6年生の時だった。
太田寛一は川西村の広野小学校でトップの成績だったが、父親の借金で生活が苦しかったため、進学を断念した。
教師はどうにかして進学させようと思い、父・太田茂市を説得したが、ダメだった。校長が出てきて、お金のかからない師範学校への進学も勧めたが、家庭の事情が進学を許さなかった。
このため、太田寛一は広野小学校を卒業すると、農業を継いだのだが、父・太田茂市は依然として、頼まれれば金を貸して借金を増やしており、農家の収入では金利すら払うことが出来なかった。
そこで、太田寛一は借金を返済して借金の呪縛から逃れるために、昭和10年に上帯広産業組合(後の農協)に就職し、給料を全額、借金の返済に充てるようになった。
ある日、父・太田茂市は、太田寛一が自分に黙って借金を返済している事を知り、所有していた山林を売却して借金を全額返済したのだった。
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さて、太田寛一は、父親の借金問題が解決したが、産業組合の「共存同栄」「相互扶助」という精神に惹かれて仕事に邁進しており、上帯広産業組合で頭角を現していた。
昭和13年(1938年)に上帯広産業組合が売買産業組合と合併することになり、合併後は「共存同栄」「相互扶助」という産業組合の理念が無くなってしまう。
このため、太田寛一は合併を機に上帯広産業組合を辞めようと思っていたのだが、士幌町の士幌産業組合から招かれ、士幌産業組合へ移籍した。
そして、太田寛一は士幌町で、盟友となる獣医の秋間勇と、郵便局長の飯島房芳と出会う。
秋間勇は村の指導者的な存在で、秋間勇の元に若者が集まって「秋間塾」と呼ばれており、太田寛一は秋間勇と飯島房芳で農村の未来を朝まで語り合い、3人は「士幌の三羽ガラス」と呼ばれるようになった。
太田寛一・秋間勇・飯島房芳の3人は農村のユートピアを作ることを誓い合い、血盟の誓いを立てたという。
そして、太田寛一は、士幌産業組合の近くにあった菓子屋「金田屋」の主人に認められ、昭和16年(1941年)に、金田屋の姪で銀行に勤めていた及川登美江と結婚した。
昭和18年(1943年)に農業団体法が公布されたことにともない、昭和19年に士幌産業組合が農業会へと発展し、太田寛一は士幌農業会(後の農協)の理事に就任した。
その後、太田寛一は、主戦間際に召集令状を受けて旭川の部隊に入隊したが、北海道で終戦を迎え、復員した。
農家はジャガイモをデンプン工場に出荷していたが、デンプン工場は有力農家を手なずけて、あの手この手を使って農家からジャガイモを買い叩いており、農家の生活は苦しかった。
そこで、戦後の昭和21年(1946年)、太田寛一は、士幌農業会の専務理事に選ばれると、農家がデンプン工場にジャガイモを買い叩かれている実情を改善するため、士幌農業会が直営するデンプン工場の必要性を訴え、デンプン工場の買収を提案した。
秋間勇が「農民が生産した物は、農民が加工して販売しなければ、農民の生活は豊かにならない」と説いており、太田寛一は秋間勇の教えを実行に移したのである。
これに対して、デンプン工場は有力農家に根回しをしてデンプン工場の買収に反対させたので、デンプン工場の買収に農家から大きな反対運動が起きた。
しかし、太田寛一は帳簿外資金を使って既にデンプン工場を買収しており、強引に総会でデンプン工場の買収を承認させた。
こうして、士幌農業会が直営するデンプン工場が誕生すると、農家はデンプン工場に騙されて搾取されていた事が判明した。
そこで、士幌農業会は適正価格でジャガイモを買い取ると、農家は喜んで士幌農業会に出荷するようになり、正当な利益が農家に還元されるようになった。
しかも、農家資本のデンプン工場なので、デンプン工場の利益は農家に分配され、農家は多くの利益を得たので、農家はこぞって士幌農業会に出荷するようになり、他のデンプン工場は倒産した。
すると、太田寛一は、倒産したデンプン工場を買収していき、デンプン事業を士幌農業会の中核事業へと成長させた。
士幌農業会が解散して、士幌農協へと改組することになるが、農協の理事は農家しかなれない。
太田寛一は農家ではないので、このままでは士幌農協の理事にはなれないため、士幌農業会は専務理事に辞任して、農地の開拓を始めた。
その一方で士幌農業会の理事・高橋に頼まれて、北東農産の専務に就任し、北東農産のブドウ糖工場を成功させた。
昭和22年(1947年)11月に農業協同組合法が公布されると、昭和23年2月に士幌農業会が解散して、士幌農協が発足した。
太田寛一は、士幌農協がの常務に選任され、士幌農協に復帰した。
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士幌農協のデンプン工場は成功していたが、製品になるのは7割程度で、3割は捨てていると言う状況だった。
デンプンが統制の時はそれで良かったが、デンプンの統制が解除されると、競合も増えるので、3割を捨てるという状況を改善しなければならなかった。
そこで、太田寛一は、昭和28年(1953年)に士幌農協の組合長に就任すると、最新鋭のデンプン工場の必要性を訴えた。
そして、太田寛一は1億2000万円の調達に成功し、昭和30年に最新鋭のデンプン工場を建設する。このデンプン工場は全自動一貫式で機械化されており、東洋一と評された。
昭和30年の1億2000万円は、平成の価値で約30億に相当し、名も無き士幌農協が1億2000万円を調達して、最新鋭のデンプン工場を建設したことに、全国に大きな衝撃を与えた。
このデンプン工場で生産したデンプンは白かったので、かまぼこ業者が奪い合うようにして買っていったという。
北海道は小豆の産地で、小豆相場は乱高下したことから、大豆相場高騰したときに大豆成金が生まれ、大豆は「赤いダイヤ」とも呼ばれていたが、豆類は冷害に弱く、冷害で全滅して農地を手放した農家も多かった。
そこで、太田寛一は、冷害に強いビート(砂糖大根)やジャガイモを推奨した。冷害が続いたこともあり、農家は太田寛一の提案を受け入れ、ビート(砂糖大根)やジャガイモの作付面積が増えた。
そうした一方で、太田寛一は酪農も推奨した。酪農は売り上げを分散するという意味の他にも、牛の糞を肥料にするという目的もあった。
さて、士幌町では、明治乳業と雪印乳業が牛乳を買い取っていたが、昭和29年に宝乳業が参入して、牛乳の買い取り価格も上がり、酪農が活気づいていた。
そこで、太田寛一は農協で乳牛を買って農家に貸し出したので、一気に士幌町の乳牛が増えて酪農が盛んになり、乳業メーカーによる牛乳の獲得合戦も激しくなるのだが、有力農家は裏価格によって高く買い取られ、弱小農家は安く買い叩かれていた。
そこで、太田寛一は宝乳業が倒産をしたのを切っ掛けに、士幌農協が農家の牛乳を集荷し、士幌農協が乳業メーカーに販売する「一元集荷」を提案した。
すると、明治乳業に販売するのか、雪印乳業に販売するのかが問題となり、農家は明治乳業派と雪印乳業派に別れて対立した。農協から牛を借りている農家は中立となり、沈黙を守った。
そこで、太田寛一は値段の高い明治乳業の値段をベースとして、明治乳業と雪印乳業に半分ずつ販売するということで、農家を説得し、北海道で初となる「一元集荷多元販売」を開始した。
雪印乳業は価格を上げようとしなかったが、「一元集荷多元販売」になると、売る方にも発言力があり、太田寛一が「出荷量を減らす」と告げると、雪印乳業も買い取り価格を上げた。
また、乳脂肪の割合が低かったので、牛乳の買い取り価格は低かったが、農協がメーカーの乳脂肪の検査に立ち会うと、高脂肪の牛乳が次々と出てきて、買い取り価格も上がった。
農家は「一元集荷多元販売」の威力に驚き、「一元集荷多元販売」は周辺の農協へも広がっていくのだった。
その後、太田寛一はホクレンの小林会長からビート工場の建設を頼まれ、ホクレンの常務に就任して、ビート工場を成功させた。
その一方でデンプン工場で火災が発生して農協が大混乱に陥る。太田寛一は奔走して混乱を鎮めることに成功したが、吐血して倒れてしまう。
このようななか、士幌町の農家の発展に尽力し続けてきた盟友の秋間勇が死去した。
昭和41年(1966年)、太田寛一は欧米を視察旅行して、ヨーロッパでは農家が乳製品を作っていることを知る。
そこで、太田寛一は帰国すると、以前から考えていた乳業会社の設立に動いた。
大手メーカーからの妨害が予想されるため、太田寛一は、牛乳を集荷している8つの農協の組合長を密かに集めて、乳業会社の必要性を説き、農業資本の乳業会社を設立する盟約を結んだ。
そして、太田寛一は密約からわずか40数日間という早さで、昭和42年1月に北海道の音更町で「北海道協同乳業株式会」(よつ葉乳業)を設立して社長に就任した。
大手メーカーからの妨害工作か、工場建設について北海道庁からの横やりが入るが、太田寛一は滑り込みセーフで工場建設の認可を取り付け、工場の建設に着手する。
太田寛一は結核で倒れてしまうが、無事に工場は完成。太田寛一も手術に成功して復帰した。
その後、北海道協同乳業(よつ葉乳業)は昭和44年(1969年)に経営危機に陥るが、太田寛一の奔走により経営危機を回避。当時の牛乳は瓶入りで、宅配が主流だったが、太田寛一は紙パック入りの牛乳を採用し、店頭販売を可能にして売り上げを伸ばした。
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昭和44年(1969年)6月、太田寛一は北海道協同乳業(よつ葉乳業)の社長を辞任し、ホクレンの専務理事に就任。さらに昭和47年5月にホクレンの会長に就任した。
太田寛一は、大きくなりすぎて停滞していたホクレンの再建に着手し、見事にホクレンを再建した。
その一方、太田寛一は全農の会長に就任して、全国の農協のトップに立ち、全国の農民のために様々な事業を展開した。
また、太田寛一は国農協中央会の副会長、全国農業会議所の筆頭副会長などを兼任して多忙な時期を過ごした。
そのようななか、昭和50年(1975年)に盟友の飯島房芳が死去。「士幌の三羽ガラス」の最後の1人となった太田寛一も昭和55年に心臓発作を起こして入院したため、役職から退いた。
その後、太田寛一は塾を開いて後進の育成に励んだが、昭和59年(1984年)11月13日に死去した。69歳だった。
なお、朝ドラ「なつぞら」のモデルの一覧は「なつぞら-モデル一覧」をご覧ください。
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