朝ドラ「なつぞら」に登場する下山克己(川島明)のモデルとなった伝説のアニメーター大塚康生(おおつか・やすお)の立志伝です。
大塚康生は、昭和6年(1931年)7月11日に島根県鹿足郡木部村山下(島根県鹿足郡津和野町)で、農民の長男(3人兄弟)として生まれた。
母方の祖父は山口県・万川町で僧侶をしていたが、若い女を作って寺を捨てて行方不明となり、祖母は寺を追われて、夏みかんの行商をして母を育てた。
この僧侶をしていた母方の祖父が絵が得意で、絵を残しており、大塚康生は子供の時に祖父の絵を見て強い印象を受けた。
大塚康生は祖父の影響を受けたのか、子供の頃から絵ばかり描いており、祖母は大塚康生が祖父のようになることを危惧していたという。
昭和14年(1939年)、父親が「ここでは子供の教育が出来ない」と言い、山口県に引っ越した。
大塚康生は山口線の機関車を見て、機関車に一目惚れし、自宅から12km離れた小郡機関区まで歩いて通い、機関車のスケッチに明け暮れた。
やがて、機関士と仲良くなり、ただで機関車に乗せて貰ったり、運転方法や石炭の焚き方なども教えてもらったりした。
大塚康生は不登校児で、学校も休んでばかりで、何日も家に帰らないという生活をしており、戻ってくると教師に殴られるという生活だった。
このころ、大塚康生は機関車を間近でスケッチして部品まで精密に描いており、機関車の構造や原理まで覚えた。このころに、アニメーターとしての大塚康生の基礎が確立される。
しかし、このころ、大塚康生は漫画家やアニメーターになる気は無く、母方の祖父のように僧侶になるか、SLの機関士になるのが夢だった。
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大塚康生は学度動員で山口県の下関に居たときに終戦を迎え、翌年の昭和21年(1946年)に旧制中学(山口工業学校)の土木科に入学した。
このころ、アメリカのジープを観て衝撃を覚え、大塚康生の興味は機関車からジープへと写り、ジープのスケッチを開始する。
大塚康生はジープの構造を知るために、ゴミ箱からジープのマニュアルを拾ってきて翻訳するようになり、英語も覚えた。
識別マークまで克明にスケッチしたので、スパイと間違われて憲兵に連行され、取り調べを受けたこともあったという。
大塚康生は、あと1年通えば高卒の資格が得られたが、山口工業学校を辞めて中卒で社会に飛び出し、昭和26年(1951年)に山口県庁の総務部統計課に就職した。
このころから、近藤日出造や清水崖の政治漫画に興味を持つようになり、新聞や雑誌に政治漫画を持ち込むようになる。
そして、ソ連の長編アニメ「せむしの仔馬」を観てアニメーションに興味を持つが、あくまでも興味は政治漫画にあり、政治漫画を目指すため、上京を決意する。
しかし、当時は「都会地転入抑制緊急措置令」が制定され、東京都への流入が制限されており、定職が無い者は転入届が受理されなかった。
転入届が受理されないと配給が受けられないため、大塚康生は厚生省の職員に応募し、厚生省の関東甲信越地区麻薬取締官事務所に採用されて上京を果たした。
麻薬取締官事務所は、いわゆる「麻薬Gメン」だが、大塚康生は取締官ではなく、補助職員だったため、テレビドラマのような派手な立ち回りは無く、指紋の採取や拳銃の手入れなどが仕事だった。
このとき、大塚康生が手入れしていた拳銃が「ブローニングM1910」である。大塚康生は後にアニメ「ルパン三世」を手がける。そして、「ルパン三世」の峰不二子が使用する拳銃が、この「ブローニングM1910」である。
さて、麻薬取締官事務所の仕事は、大塚康生の性格に合わない仕事だったが、仕事は暇だったので、政治漫画で生活することを目指し、デッサン塾に通ったりして、漫画の勉強に励んだ。
しかし、「新漫画派集団」に弟子入りを志願しても、全く相手にされないという有様だった。
その一方で、東京・新橋の映画館で観たフランスのアニメ「やぶにらみの暴君」に感動して、大塚康生の興味は政治漫画からアニメーションへ移っていく。
このようななか、大塚康生は、不規則な生活と劣悪な食糧事情から結核に感染し、2年間の療養生活を余儀なくされ、なんとか回復すると、アニメーションの世界を目指すのだった。
アニメーションの世界を志した大塚康生は、昭和31年(1956年)6月に「芦田漫画製作所」を訪れるが、「君の絵はアニメには向いていない」と言われて門前払いを受けた。
数日後、大塚康生は新聞で「東映が漫画映画『白蛇伝』を制作」という記事を観て、「東映動画」の前身となる「日本動画社」を訪れた。
すると、採用の予定は無かったが、「日本動画社」の社長・山本善次郎と演出家・藪下泰司が話を聞いてくれた。
話を聞いた山本善次郎は「26歳で1から習うのは遅いかもしれない。厚生省にいるのだから、今更アニメに関わる事は無い。後悔するよ」と転職を止めたが、大塚康生はどうしてもアニメの仕事がしたいと頼んだ。
すると、山本善次郎はアニメーターの森康二を呼んで、テストさせ、大塚康生は森康二に認められ、「日本動画社」の研修生となった。
「日本動画社」は「東映」に買収されることが決まっており、昭和31年(1956年)8月に「日本動画社」が「東映」に買収され、「東映動画」が誕生した。
大塚康生は「東映動画」の発足に伴い、臨時職員として「東映動画」に採用され、同年12月に正式に入社した。
なお、大塚康生の初任給は6500円で、給料は麻薬取締官事務所時代の3分の1に激減した。
動画の養成機関は6ヶ月で、2ヶ月ごとに試験があった。試験に合格しない者は仕上げを担当した。何度も試験に落ちて、辞めていく者も多かった。
大塚康生は2ヶ月で社内試験に合格し、短編アニメ「ねこのらくがき」に参加。森康二から「初めてにしては良く出来た」と褒められた。
その後、「ハヌマンの新しい冒険」「かっぱのぱあ太郎」「夢見童子」で動画を務め、日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」に参加した。
「白蛇伝」を制作するとき、スタッフの大半は養成が終わったばかりの新人で、原画を担当できるのは森康二と大工原章だけだった。
そこで、原画の森康二と大工原章をサポートするため、「第2原画(セカンド)」が新設され、大塚康生は大工原章班の第2原画に抜擢された。ただし、会社内の扱いは動画のままで、給料は動画と同じだった。
森康二は細部まで自分で手がけて人に任せなかったが、大工原章は大丈夫と思う人には大胆に仕事を任せたので、大塚康生は仕事を任されて負担が大きくなっていき、制作の終盤になると、実質的には原画を担当するようになった。
この「白蛇伝」は、宮崎駿など数多くのアニメーターに影響を与えた。
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大塚康生は、長編アニメ第2弾の「少年猿飛佐助」で原画に昇格し、その後、「西遊記」「安寿と厨子王丸」で原画を担当。アクションシーンと怪物を手がけ、アクションと怪物の名手と評価されるようになる。
昭和36年(1961年)6月、全国的な労働紛争という流れの中で「東映動画」でも(第2次)労働組合が発足した。
大塚康生は、昭和36年(1961年)に色彩担当の同僚・本橋文枝と結婚する一方で、労働組合の設立に参加し、翌年の昭和37年に書記長に選出された。委員長は横井三郎で、副委員長は高畑勲だった。
大塚康生は結婚したばかりなのに、仕事と動労組合に追い立てられて多忙な日々を過ごし、ほとんど自宅には帰れない日々を余儀なくされた。
なお、労働組合の活動に積極的だった宮崎駿が東映動画に入社するには翌年の昭和38年なので、宮崎駿はまだ入社していない。
昭和39年(1964年)、「東洋動画」から手塚治虫の「虫プロダクション」へ移籍した美人アニメーター中村和子が、新車の「ベレッタ」を購入したので、車好きの大塚康生に車を見せに来た。
大塚康生の愛車は中古の「コンテッサ900」だったので、羨ましくなり、「ちょっと運転を教えてあげる」と言い、中村和子を乗せて新車の「ベレッタ」で公道へと出て、高速コーナーリングを披露しようとした。
しかし、運転ミスをして車は2~3回転して塀にぶつかり、フロントは潰れて廃車になってしまった。
このため、大塚康生は中村和子の夫・穴見薫に謝罪に行くと、「虫プロダクション」はTVアニメ「W3(ワンダースリー)」のオープニングをやる人がいなくて困っていた所だったので、夫・穴見薫は喜んで、「車のことはどうでもいいですから、これをやってください」と言い、「W3」のオープニングを頼んだ。
こうして、大塚康生は「W3」のオープニング30カットを手がけ、車のことはチャラにしてもらったうえ、画作料として4万5000円を貰ったが、「大塚康生に車を貸すと壊される」という噂が広まってしまった。
大塚康生は、長編アニメ「わんぱく王子の大蛇退治」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」やテレビアニメを手がけた後、昭和43年(1968年)公開の長編アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」で作画監督を務めた。
大塚康生は上層部の反対を押し切って、無名の高畑勲を演出に抜擢したが、高畑勲の苦悩に寄り添うことが出来ず、高畑勲を支えたのは宮崎駿だった。
このため、大塚康生は自分の限界を知り、自分は監督ではなく、職人的なアニメーターに過ぎないのだと自覚し、挫折を感じた。
また、長編アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」は、労働組合の主導で作られたこともあり、世間から評価されず、興行成績は東映の長編史上で最低を記録した。
このため、企画部長・関政治郎が引責退社し、演出を務めた高畑勲は降格処分、大塚康生らスタッフも一部給与・ボーナスカットとなった。
この「太陽の王子・ホルスの大冒険」以降、大塚康生がメーンを務めたアニメはヒットせず、大塚康生のアニメはヒットしないというジンクスが生まれる。
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昭和43年(1968年)、大塚康生は長編アニメ「長靴をはいた猫」で原画を担当するが、制作中に退社を表明した。
これは「太陽の王子・ホルスの大冒険」の失敗の責任をとって辞めるのではなく、東映の予算主義とTVアニメ時代の到来により、東映動画では良いアニメが作れなくなっていたためだった。
大塚康生は退社を表明していたので、仕事の合間に、転職先となるAプロダクションに通い、劇場版パイロットフィルム「ルパン三世」の企画会議に参加した。
そして、大塚康生は昭和43年(1968年)12月に「長靴をはいた猫」の制作を終え、正式にAプロダクションへ移籍して、劇場版パイロットフィルム「ルパン三世」の原画を務めた。
その一方で、大塚康生は昭和43年7月頃から手塚治虫が理事長を務める「東京デザインカレッジ」のアニメーション科で講師を務めた。
手塚治虫が勝手に大塚康生の名前を講師のリストに加えていたため、大塚康生が抗議したところ、手塚治虫が「うちには適当な人材がいないから」とケロッと答えた。
すると、大塚康生は、これも経験だろうと思い、講師を引き受けたが、「東京デザインカレッジ」は半年ほどで倒産した。
劇場版パイロットフィルム「ルパン三世」は東宝が買い渋ったため、企画が頓挫してしまった。
このため、大塚康生はテレビアニメ「ムーミン」で作画監督を務めたほか、「巨人の星」や「天才バカボン」にも参加した。
当時のアニメは子供のために作られていたため、大人向けの「ルパン三世」という企画は見向きもされなかったが、ようやく、大阪の読売テレビの目にとまり、TVアニメ「ルパン三世」の放送が決定した。
こうして、大隅正秋が演出を務め、大塚康生が作画監督を務めたTVアニメ第1シリーズ「ルパン三世」が昭和46年(1971年)に放送を開始する。
大塚康生と演出家・大隅正秋のアイデアにより、ルパンはワルサーP38を使い、次元はM19コンバット・マグナムを使い、峰不二子はブローニングM1910、愛車はベンツSSKなど、実在する武器や車を採用した。
峰不二子が使用する拳銃「ブローニングM1910」は、大塚康生が麻薬取締官事務所に務めていたときに仕事で掃除・分解していた拳銃で、第1シリーズ「ルパン三世」は、銃や車に詳しい大塚康生の本領発揮となる意欲作だった。
また、原画班の大半が「巨人の星」を担当していたので、「巨人の星」に似てしまわないように、大塚康生はルパンを「行儀が悪く、グデーッとして、まともに座らない。まともに立たない。立つ時も必ず重心を片方の足にかけ、肩の力を抜く」という設定にした。これは「巨人の星」へのアンチテーゼだった。
しかし、この頃は「巨人の星」などのスポ根アニメの全盛期だったため、色気が有り、ストーリーの複雑な大人向けアニメ「ルパン三世」は視聴率が悪く、読売テレビで最低を記録した。
このため、スポンサーの意向で、子供向けへの路線変更を求められ、「ルパン三世」は第3話で子供向け路線への変更を余儀なくされた。
演出家・大隅正秋は子供向けへの路線変更を拒否して降板したため、大塚康生は、東映動画を辞めてAプロダクションに来ていた、宮崎駿と高畑勲に協力を要請した。
宮崎駿と高畑勲は躊躇したが、他にやれる人が居ないので、仕方なく引き受けた。
このとき、ルパンはベンツSSKに乗っていたのだが、ベンツSSKを描ける人が少なかったので、宮崎駿が「泥棒が成功しないのに、この連中は何で食ってるのだろう?」と言い、ヨーロッパで庶民の足となっており、誰でも描くことが出来るフィァット500を採用した。フィァット500は大塚康生の愛車でもあった。
こうして、第1シリーズ「ルパン三世」は、どたばた劇を多用した子供向け路線へと変更され、第1シリーズの後半からは宮崎駿と高畑勲の作品となったが、第23話で打ち切りになった。
宮崎駿と高畑勲は、他人の作品に手を加えた事に配慮して、クレジットへの記載を辞退したが、会社としては記載しないわけにもいかないので、クレジットには「Aプロダクション演出グループ」と表記された。
ここでも大塚康生のアニメはヒットしないというジンクスが発動したが、第1シリーズ「ルパン三世」はアニメ「機動戦士ガンダム」と同じように再放送がヒットして、第2シリーズが制作されることになる。
大塚康生はTVアニメ「ど根性ガエル」の原画を手伝った後、小田部羊一・宮崎駿・高畑勲と共に長編アニメ「パンダコパンダ」シリーズを手がけ、画作監督を担当した。
昭和48年(1973年)の春、高畑勲は、Aプロダクションで「侍ジャイアンツ」か「空手バカ一代」の演出を手がけるか、ズイヨー映像で「アルプスの少女ハイジ」を手がけるかで迷っていた。
その後、大塚康生は監督・長浜忠夫と組んで、苦手なスポ根のTVアニメ「侍ジャイアンツ」の画作監督を務めていたが、監督・長浜忠夫と方針が対立したため、実質的に画作監督を退いた。
一方、高畑勲・小田部羊一・宮崎駿の3人は、ズイヨー映像(日本アニメーション)へ移って「アルプスの少女ハイジ」を手がけた。この移籍で橋渡しをしたのが大塚康生だった。
このころ、大塚康生は、手塚治虫のTVアニメ「鉄腕アトム」から始まった「省略化(省セル化)」や原作漫画のアニメ化という流れに嫌気を指し、第一線を退いて管理職になろうと思い始めていた。
そのようななか、昭和51年(1976年)6月、日本アニメーションに居た宮崎駿がTVアニメ「未来少年コナン」でシリーズ初演出を担当することになり、大塚康生に作画監督を依頼した。
欲求不満だった大塚康生は、こんなチャンスを逃す手は無いと思い、出向という形で日本アニメーションへ移り、宮崎駿に合流して、昭和53年(1978年)放送の「未来少年コナン」の作画監督を務めた。
このとき、宮崎駿は主人公「コナン」がヒロイン「ラナ」を軽々と持ち上げるシーンを描くが、大塚康生が描くと、主人公「コナン」がヒロイン「ラナ」を重そうに持ち上げるため、「大塚さんの奥さんを持ち上げてるんだ」と揶揄された。
さらに、宮崎駿は崖を登るシーンで、ヒロイン「ラナ」を支えるため、主人公「コナン」が後から上らせると、大塚康生は「パンツが見えてエッチだ。コナンが先に上るべきだ」と言い出した。
このように、大塚康生は理屈っぽかったので、宮崎駿は大塚康生にヒロイン「ラナ」を描かせなかった。
それでも、大塚康生は得意の機械や脇役で活躍し、「未来少年コナン」によって、アニメーションを作る楽しさを思い出した。
しかし、「大塚康生がメーンを務めるアニメはヒットしない」というジンクスが発動し、「未来少年コナン」の視聴率は低迷に終わった。
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大塚康生が「未来少年コナン」の第12話を制作していたころ、「東京ムービー新社」の社長・藤岡豊から、新会社「テレコム・アニメーションフィルム」を設立するので、アニメーターの選考と育成を担当して欲しいと頼まれた。
さらに、社長・藤岡豊から、劇場用アニメ「ルパン三世」を制作するので、第2弾の劇場用アニメ「ルパン三世」を制作して欲しいと依頼された。
しかし、藤岡豊は日頃から夢のような大きなことを言うので、大塚康生はにわかには信じられず、様子を見ていた。
すると、しばらくして、再び藤岡豊から「もう募集を始めた。初期の訓練は月岡貞夫にお願いしてあるので、未来少年コナンが終わり次第、引き継いでもらえないか」と頼まれた。
このとき、大塚康生は、TVアニメ「ドラえもん」が内定していたので、「ドラえもん」か「ルパン三世」かで迷ったが、「ドラえもん」を辞退して、「ルパン三世」を手がけることにして、「テレコム・アニメーションフィルム」へ移籍した。
大塚康生が「テレコム・アニメーションフィルム」へ移籍したとき、劇場用アニメ第1弾「ルパン三世・ルパンVS複製人間」は、ほとんど完成しており、何も手伝うことはなかった。
しかも、「ルパン三世」の第2弾を頼まれたのに、まだ第2弾は未定という状態だった。
しかし、「ルパン三世・ルパンVS複製人間」の上映3日目で第2弾が決定し、大塚康生は劇場版アニメ「ルパン三世・カリオストロの城」を手がけることが決まった。
このとき、採用を担当した月岡貞夫は、長編アニメを育成するために、「アニメファンは入れない」「TVアニメは見ていない方が良い」という方針でアニメーターを採用していたので、アニメーターは素人ばかりだった。
そこで、大塚康生はアニメーターに経験を積ませるため、TVアニメ「ルパン三世」に参加させた。
大塚康生はテレビアニメの第2シリーズ「ルパン三世」を手伝いながら、劇場版アニメ「ルパン三世」のことを思案していると、第2シリーズ「ルパン三世」のシナリオを監修している鈴木清順に劇場版アニメ「ルパン三世」の脚本を書いてもらうことが決まった。
大塚康生は鈴木清順の脚本を読んで、自分の目指すルパン三世のイメージとかけ離れていると思い、脚本の書き直しに苦労していると、劇場版アニメ「ルパン三世」の話を聞きつけた宮崎駿から電話がかかってきて「僕がやろう」と言ってくれた。
このとき、宮崎駿は、高畑勲の「赤毛のアン」でレイアウトを手伝っていたが、高畑勲と話を付けて、正式に「ルパン三世・カリオストロの城」の監督を引き受けた。
大塚康生は、またしてもヒロインは描かせてもらえず、峰不二子・銭形平次・警備兵などの脇役や、水雷艇・フィアット500・シトロエン2CVなどを手がけた。
こうして完成した劇場版アニメ「ルパン三世・カリオストロの城」は昭和54年(1979年)に公開されたが、ここでも「大塚康生のアニメは当たらない」というジンクスが発動し、興行収入は低迷に終わった。
今でこそ、「ルパン三世・カリオストロの城」は名作中の名作として語り継がれているが、公開当時は単純明快さを求めるTVアニメファンに拒絶されたのである。
大塚康生は、昭和56年(1981年)上映の劇場版アニメ「じゃりン子チエ」を担当することになり、高畑勲を監督に迎えた。
高畑勲がチエと母親の作画監督として、小田部羊一を迎えたので、大塚康生は、その他のキャラクターの作画監督を務めた。
大塚康生は「じゃりン子チエ」を「実は私は一見地味に思えるこの作品が、これまででもっとも好きなアニメーションのひとつで、くり返し見て楽しんでいます」と評価した。
「じゃりン子チエ」を観たディズニーの長老も「日本に恐るべき作家がいる」と驚き、「これは私たちが、これまで見た日本のアニメーションで最高の作品です」と絶賛したという。
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大塚康生は「じゃりン子チエ」の後、昭和56年(1981年)放送のTVアニメ「東海道四谷怪談」で監督を務めた。
その後、日米合作アニメ「ニモ(リトル・ニモ)」に加わるが、日本とアメリカの違いもあって迷走し、宮崎駿・高畑勲・大塚康生らが離脱した。
この「ニモ」は平成元年(1989年)に完成し、日本では不評だったが、アメリカではヒットした。
大塚康生は昭和62年(1987年)公開の劇場版アニメ「ルパン三世・風魔一族の陰謀」で監修を務めた。
当初はプロデューサーの竹内孝次がテレビで活躍していた若手を演出に抜擢したのだが、この演出がテレビの省略的な手法を使ったコンテを作ったため、原画班から批判が殺到し、演出家が降板してしまう。
しかし、原画班がシーンごとに別れてコンテを制作したので、アイデアとストーリーが膨み、「ルパン三世・風魔一族の陰謀」は大塚康生も「カリオストロの城」に継ぐ出来映えと自負する程だった。
しかし、ここでも大塚康生のジンクスが発動。声優陣が交代したこともあり、「ルパン三世・風魔一族の陰謀」はファンへの評判は悪く、興行成績は不調に終わった。
大塚康生は、平成3年(1991年)から10年間、「代々木アニメーション学院」でアニメーター科の講師を務め、平成13年(2001年)にアニメーター養成プログラム「アニメ塾」の塾長に就任し、後進の育成に励んだ。
大塚康生は平成14年(2002年)度の文化庁長官賞に内定したが、「アニメーション作家」として選ばれたため、「アニメーション作家とは一般に作品に責任を持つ演出家が適当で、私はいちアニメーターですから、その選考は不適切と考えます」と辞退した。
すると、翌日、文化庁側が「練達のアニメーターとして表彰したい」と言ってきたので、大塚康生は「今後いい仕事をしたアニメーターも、城の石を積んだ職人として世間に認知される」として、文化庁長官賞を受け、文化庁長官賞に選ばれた日本初のアニメーターとなった。
さらに、大塚康生は平成17年(2005年)から3年間、厚生労働省が主催する「技能五輪全国大会(技能オリンピック)」の審査委員も務めた。
大塚康生は「アニメーションは動かすものだ」「キャラクターは演技しなければならない」として、「止め絵」「バンク(同じものを兼用して使う)」を多用する簡略化されたTVアニメには批判的だった。
しかし、テレビの視聴者は、簡略化されたTVアニメや単調なストーリーを批判すること無く、受け入れ、反対に大塚康生らが手がける複雑なストーリーを嫌った。
このため、大塚康生がメーンを務めたアニメは全くヒットせず、「大塚康生のアニメにヒット無し」というジンクスが生まれた。
ただし、当時から大塚康生が手がけたアニメは関係者からの評価は高く、時代が進むにつれて評価されるようになった作品も多い。
鈴木敏夫によると、大塚康生は2021年3月15日の午前に死去した。享年90だった。
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