べっぴんさん-オライオンのファッションショーの実話

NHKの朝ドラ「べっぴんさん」で野上潔(高良健吾)が開催する婦人服ブランド「オライオン」のファッションショーの実話です。

べっぴんさん-オライオンのファッションショー

坂東五十八(生瀬勝久)が創業した坂東営業部は戦時中に消滅したが、戦後、野上潔(高良健吾)が坂東営業部を復活させた。

さらに、野上潔(高良健吾)は、坂東営業部が販売していた紳士服ブランド「オライオン」を婦人服として復活させ、婦人服ブランド「オライオン」をお披露目するため、ファッションショーを計画する。

このとき、板東すみれ(芳根京子)は子供用品店「キアリス」を創業しており、野上潔(高良健吾)はファッションショーで使用するドレスの縫製を、子供用品店「キアリス」に頼んだ。

一方、高西悦子(滝裕可里)は戦後、一人娘を育てるためにキャバレーで働いており、モデルとしてオライオンのファッションショーに参加し、板東すみれ(芳根京子)と再会する。

こうして、板東すみれ(芳根京子)や高西悦子(滝裕可里)の協力により、野上潔(高良健吾)は婦人ブランド「オライオン」のファッションショーは成功した。

その後、野上潔(高良健吾)は大急百貨店に婦人ブランド「オライオン」を売り込むため、大急百貨店の社長・大島保(伊武雅刀)を接待した。

野上潔(高良健吾)は、大急百貨店の社長・大島保(伊武雅刀)から「実績の無いオライオンとは取引できない」と言われ、取引を断られてしまうが、社長・大島保(伊武雅刀)は「キアリスなら取引したい」と言い、キアリスとの取引を持ちかけた。

実は、社長・大島保(伊武雅刀)の妻がオライオンのファッションショーに来ており、子供用品店「キアリス」の商品を気に入っていたのだ。

こうして、板東すみれ(芳根京子)の子供用品店「キアリス」は、オライオンのファッションショーを切っ掛けに、大急百貨店の社長・大島保(伊武雅刀)から取引を持ちかけられ、大急百貨店へ出店することになるのであった。

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べっぴんさん-ファッションショーの実話

佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は、戦争の影響で看板だけとなり、戦時中の企業整備によって江商(兼松)に吸収合併されて消滅しました。

しかし、戦後、尾上清は、創業者・佐々木八十八の意を受け、江商(兼松)から佐々木営業部(レナウン)を独立させ、佐々木営業部(レナウン)を設立しました。

ところで、尾上清は江商(兼松)に在籍していたとき、「有信実業」という会社を設立して、隠匿物資を闇市へ横流ししており、逮捕されました。

尾上清が逮捕される実話については、「べっぴんさん-野上潔(尾上清)が逮捕される実話」で紹介しているので、ここでは省略して話を進めます。

さて、尾上清が江商から独立して繊維問屋「佐々木営業部(レナウン)」を設立すると、有信実業は佐々木営業部(レナウン)の小売部門となり、佐々木営業部のビル1階で、衣類小売店「レナウン・サービス・ステーション」を開きました。

レナウン・サービス・ステーションには、有信実業時代から石津謙介が在籍していました。

石津謙介は、後にメンズファッションブランド「ヴァンヂャケット」を創業して「メンズファッションの神様」と呼ばれるようになる人物です。

そして、神戸のデザイナー田中千代が、レナウン・サービス・ステーションに「田中千代デザインルーム」を開いていました。

田中千代は、後に香淳皇后の衣装相談役を務め、「皇后様のデザイナー」と呼ばれるようになる人物です。

この田中千代が、昭和22年(1947年)10月に佐々木営業部の主催で、ファッションショーを開催しました。

前年の昭和21年(1946年)に横浜で進駐軍の将校婦人らが戦後初のファッションショーを開催していますが、これは外国人だけで開催されて、日本人は入れませんでした。

このため、昭和22年(1947年)10月に田中千代が佐々木営業部(レナウン)の主催で開催したファッションショーが、日本人として戦後初のファッションショーとなります。

田中千代と佐々木営業部(レナウン)が開催したファッションショーは、日本人として戦後初のファッションショーとなります。

田中千代は、栄養失調による網膜剥離で左目を失明から復帰したばかりで、本人はあまり満足した出来でなかったのですが、戦後の洋裁ブームの影響もあり、田中千代のファッションショーは大ヒットしました。

このため、佐々木営業部(レナウン)は、繁盛してビルが手狭になりました。

そこで、尾上清は、神戸の三宮センター街に大金を投じて店舗を建設し、レナウン・サービス・ステーションを神戸へと移転・独立させたのです。

しかし、綿が配給制という時代だったので、繊維問屋の佐々木営業部(レナウン)が衣類小売りに進出することに対して、小売店から批判が起きたため、神戸のレナウン・サービス・ステーションは開店まもなく、閉店へと追い込まれました。

一方、坂野惇子は、靴店「モトヤ靴店」の店内でショーケース2台を借りて「ベビーショップ・モトヤ」を創業していました。

そして、創業から1年ほどすると、モトヤ靴店の西隣の万年筆店が空き店舗になったのを機に、坂野惇子の「ベビーショップ・モトヤ」は万年筆店へと移り、独立店舗となりました。

その直後、「ベビーショップ・モトヤ」の南側に隣接していたレナウン・サービス・ステーションが撤退するという噂が伝わってきたのです。

そこで、坂野惇子は夫・坂野通夫らの勧めにより、佐々木営業部からレナウン・サービス・ステーションの店舗を引き継いで、レナウン・サービス・ステーションへと移り、子供服ブランド「ファミリア」を設立したのです。

ファミリアが阪急百貨店に進出する実話

坂野惇子のベビーショップ・モトヤが、レナウン・サービス・ステーションへと移り、子供服ブランド「ファミリア」を設立した直後、ファミリアが阪急百貨店の社長・清水雅の目に止ります。

阪急百貨店の社長・清水雅は、よく、視察をかねて妻と一緒に神戸を散歩していたのです。三宮で降りて百貨店「大丸」を視察した後、元町の方を廻って帰るというコースでした。

このとき、阪急百貨店の社長・清水雅は偶然、設立したばかりのファミリアが目に止りまったのです。

そして、社長・清水雅は、ファミリアの商品を見て、「これは伸びるに違いない」と思い、部長・鳥居正一郎にファミリアの商品を仕入れるように命じたのです。

こうして、ファミリアは阪急百貨店からの要請で取引することになり、阪急百貨店へファミリアを出店したのでした。

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