長澤誠と竹井千代と花車当郎のモデルと実話

NHKの朝ドラ「おちょやん」に脚本家として登場する長澤誠(ながさわ・まこと)の実在のモデルを解説します。

長澤誠の実在のモデルは長沖一

生瀬勝久が演じる脚本家の長澤誠は、竹井千代と花車当郎のラジオ番組の脚本を手がけることになる。

この点を実話に照らし合わせると、長澤誠の実在のモデルは「アチャコ青春手帖」の脚本を手がけた長沖一(ながおき・まこと)と言える。

長澤誠のモデルとなった長沖一は、明治37年(1904年)1月30日生まれ、大阪府大阪市南区北炭屋町の出身である。

竹井千代のモデル浪花千栄子が明治40年(1907年)11月19日生まれなので、浪花千栄子の方が3歳年下である。

さて、モデルの長沖一は、大阪高校時代に文筆活動を開始し、東京帝国大学を卒業後、東京で文筆活動と労働運動をしていた。

昭和10年ごろ、高校・大学時代の同級生だった秋田実が、吉本興業の橋本鉄彦に認められ、吉本興業の文芸部に迎えられた。

このとき、秋田実が長沖一の面倒も見て欲しいと頼んだので、長沖一も吉本興業の文芸部に招かれ、吉本興行の文芸部で仕事を開始する。

長沖一は、吉本興業の仕事に平行して小説を書いており、軍隊時代の経験を元にした小説「肉体交響楽」を書き上げたのだが、軍部を批判する内容だったため、小説の掲載は見送られた。

これを切っ掛けに筆を折り、吉本興業の仕事に専念するようになった。

長沖一は、吉本興業の戦地慰問団「わらわし隊」を命名した事でも有名で、吉本興業の頭脳陣の1人として活躍した。

戦時中に3度の招集を受け、和歌山の部隊に居たときに敗戦を迎えて招集解除となり、戦後は吉本に復帰してGHQの検閲などに対応にあたり、昭和22年に吉本興業を退社した。

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花菱アチャコの担当になる

戦後、長沖一は、帝塚山学院の女子自由大学の講師に就任する一方で、小説を書きながら、NHKラジオの脚本も手がけており、秋田実と一緒に、横山エンタツのラジオ番組「気まぐれショウボート」を手がけてヒットさせていた。

すると、NHKは横山エンタツの元相方・花菱アチャコをラジオに出演させ、ラジオで漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」を復活させようと思い、花菱アチャコに出演を打診した。

朝ドラ「おちょやん」に、塚地武雅が演じる花車当郎という芸人が登場するのだが、花車当郎のモデルが花菱アチャコである。

さて、花菱アチャコはNNKからラジオ出演を依頼されたのだが、元相方の横山エンタツが既にラジオで活躍していたことから、横山エンタツの二番煎じに成る事を嫌い、出演を断った。

しかし、花菱アチャコは長沖一の事を尊敬していたので、長沖一が脚本を担当する事を知ると、一転して出演OKした。

このため、秋田実が横山エンタツの担当となり、長沖一は花菱アチャコの担当となったのである。

浪花千栄子を起用

花菱アチャコの担当となった長沖一は、昭和27年1月に「アチャコ青春手帖」の放送を開始するのだが、花菱アチャコが大阪弁が喋れて、自分のアドリブに対応できる相手役として、「松竹新喜劇」の浪花千栄子の名前を挙げた。

しかし、浪花千栄子は、夫の2代目・渋谷天外が劇団員の九重京子と不倫をして子供を作ったため、2代目・渋谷天外と離婚して「松竹新喜劇」を辞め、行方不明となっていた。

このため、花菱アチャコは月宮乙女を相手役として「アチャコ青春手帖」の放送を開始したのだが、月宮乙女が2回で降板してしまう。

そこで、長沖一が、花菱アチャコが推薦した浪花千栄子が良いといので、音信不通の浪花千栄子を捜すことにした。

浪花千栄子は京都に居るという噂があったので、NHKのプロデューサー富久進治郎が京都へ行き、浪花千栄子を捜したのだが、見つからず、タイムリミットを迎えた。

そこで、別の女優で行こうと言うことになったのだが、もう1日だけ待ってみようというので、再び富久進治郎は京都へと向かい、浪花千栄子を捜した。

しかし、それでも見つからず、富久進治郎は偶然、入った一杯飲み屋で「浪花千栄子がこの辺にいるはずなのだが」と漏らすと、店主が「浪花さんなら、さっき風呂屋に入っていきましたよ」と教えてくれた。

こうして、浪花千栄子は、花菱アチャコの相手役に抜擢され、「アチャコ青春手帖」に出演するようになると、柔らかい大阪弁が評判となり、番組は大ヒットし、映画の出演依頼もあり、映画にも出演するようになる。

つまり、長沖一は、浪花千栄子の復活の切っ掛けを作った恩人の1人なのである。

  1. 参考資料:長沖一の立志伝
  2. 参考資料:浪花千栄子の立志伝

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