繊維商社「田村駒」を創業した初代・田村駒治郎の実弟・笹部栄吉の立志伝です。
笹部栄吉(ささべ・えいきち)は明治7年(1874年)4月に大阪・池田村槻木(大阪府池田市)で、笹部九兵の四男として生まれた。
笹部家は酒造業を営む富豪であったが、既に家業は傾いており、父・笹部九兵衛も死去。父・笹部九兵衛の死去後、家督を継いだ長兄が白米商を始めたが、上手くいかなかった。
2番目の兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)は、家計を助けるために奉公に出て、奉公先の酒造業「西田商店」で認められ、モスリン友禅を製造する大阪府北区中之島の岡島千代造商店に入り、岡島千代造商店でも頭角を現していた。
2番目の兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)が岡島千代造商店で信頼されていたこともあり、13歳になった笹部栄吉も岡島千代造商店で働くようになる。
そして、笹部栄吉は兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)と一緒に新しい意匠や鮮明な染色法を開発したほか、販売方法などを研究して、岡島千代造商店で認められていった。
このころ、家督継承者は徴兵を免除されており、兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)は徴兵を逃れるために田村家に入って田村家の家督を相続したので、徴兵を逃れていたが、笹部栄吉は四男だった徴兵が課せられた。
笹部栄吉は明治26年(1893年)12月に輜重兵第4大隊に入り、日清戦争においては、工兵隊に属して出征。次いでは台湾土匪討伐軍に属して台湾へ渡って活躍をし、この功績によって勳八等に叙せられた。
除隊後は岡島千代造商店へと戻って兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)と共に活躍。笹部栄吉らの活躍によって岡島千代造商店は業績を上げ、明治24年(1891年)に岡島合名会社へと発展し、兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)は共同出資者となった。
さらに、兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)は明治27年(1894年)、岡島合名会社の賛同を得て、岡島合名会社が製造するモスリン友禅を販売するための問屋「神田屋田村駒商店」(後の「田村駒」)を創業し、3番目の兄・平松徳三郎(笹部徳三郎)に神田屋田村駒商店の経営を任せた。
笹部栄吉は岡島合名会社で活躍していたが、明治41年(1908年)に岡島合名会社が解散する事になったため、岡島合名会社を辞めて、兄・田村駒治郎(笹部駒治郎)の神田屋田村駒商店へと移り、工場主任を務めた。
大正7年(1918)に株式会社田村駒商店を設立すると、笹部栄吉は代表社員を務めた。また、和歌山捺染株式会社の専務取締役、柴島友禅合資会社の代表社員、京都染工株式会社の取締役を務めた。
さらに、大阪府友禅染同業組合の会計監督を長年務め、みんなに推されて組長に就任したが、家庭の事情により、昭和7年(1932年)3月に相談役へと退いた。
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