皇室御調達の子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描く立志伝「ファミリアの創業者・坂野惇子の立志伝」の第3話「坂野惇子と田村枝津子(田村江つ子)の出会い」です。
これより前の話は、目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から第1話を選んでください。
坂野惇子(佐々木惇子)の父・佐々木八十八は、大阪で佐々木営業部(レナウン)を創業して成功し、神戸へと居を移しました。
そして、大正7年(1918年)4月11日に兵庫県神戸市住吉で、三女・佐々木惇子(坂野惇子)が生まれました。
その後、先進的な考えの持ち主だった父・佐々木八十八は、資本と経営の分離を考えており、佐々木営業部(レナウン)を支配人・尾上設蔵に任せて政界へと進出し、大正12年(1923年)に大阪市東区区会議員となりました。
その直後の大正12年(1923年)9月に関東大震災が発生します。関東大震災の影響で、関東の金融は大混乱しました。
すると、問屋は手形が不渡りになるのを恐れ、一方的に手形取引を中止し、百貨店に対して現金取引を求めたので、関東の百貨店と問屋の関係が悪化しました。
しかし、佐々木営業部の支配人・尾上設蔵は、関東の金融混乱を逆手にとって、従来の手形取引を続けたので、関東の百貨店がこぞって佐々木営業部になだれ込みこみ、佐々木営業部は一気に取引を拡大しました。
父・佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は、こうして、百貨店向けの繊維卸業者として成長していくことになります。
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昭和6年(1931年)、13歳になったべっぴんさんの佐々木惇子(坂野惇子)は、甲南高等女学校(現在の甲南女子大学)へ進学します。
当時の阪神間には、実業家の娘が通う系の学校と、ミッションスクール系の学校があり、甲南高等女学校(甲南女子大学)は実業家の娘が通う系の学校でした。
そして、佐々木惇子(坂野惇子)は、甲南高等女学校1年生の時に、榎並枝津子(なみえ・えつこ/榎並江つ子)と出会い、親友になります。
この榎並枝津子(榎並江つ子)というクラスメイトが、後に田村寛次郎と結婚して、田村枝津子(田村江つ子)となり、佐々木惇子(坂野惇子)と一緒に子供服ブランド「ファミリア」を創業することになります。
佐々木惇子(坂野惇子)と榎並枝津子(榎並江つ子)は、13歳の時からの知り合いなので、ファミリア関係者の中で一番長い付き合いで、生涯の友となります。
榎並枝津子(榎並江つ子)の父親は、榎並充造(えなみ・みつぞう)といい、阪東式調帯(バンドー化学/東証一部上場)や内外護謨(内外ゴム/非上場)を創業した人物です。
父・榎並充造は、明治42年(1909年)にイギリスのダンロップ社が日本(神戸)に進出してきたとき、神戸財界の有志と共に内外護謨(内外ゴム)を設立してダンロップの独占を防ぎ、神戸ゴム界の基礎を築いた英雄です。
そして、父・榎並充造と共に内外護謨(内外ゴム)を設立した神戸財界の有志の中に、「華麗なる一族」と呼ばれる神戸岡崎財閥の岡崎忠雄が居ました。
この岡崎財閥が子供服ブランド「ファミリア」に関わってくるのは、もう少し後の話です。
さて、佐々木惇子(坂野惇子)と榎並枝津子(榎並江つ子)が甲南高等女学校(甲南女子大学に入学した昭和6年(1931年)に、ある女性が神戸へとやってきます。田中千代という女性です。
田中千代は外交官・松井慶四郎の娘として生まれ、地理学者・田中薫と結婚し、夫・田中薫のヨーロッパ外遊に付き添ってヨーロッパへと渡りました。
田中千代は子供の頃から裁縫が嫌いで、デザイナーの道には縁も無かったのですが、フランスで衣装に興味を持ち、デザイナーのオットー・フォン・ハスハイエに師事したほか、ドイツやアメリカの学校でデザインや体型を学びました。
そして、昭和6年(1934年)、夫・田中薫が神戸商業大学(現在の神戸大学)の助教授になることが正式に決まりったので、田中千代と夫・田中薫は3年間の外遊を終えて神戸へと帰国することになりました。
田中千代は帰国するときに日本で着る服が無かったため、アメリカで生地を買い、帰国する船の中で服を縫っていました。
すると、船に乗り合わせていた1人の女性・武藤千世子が、心配して田中千代に声を掛けました。
武藤千世子は、鐘淵紡績(カネボウ)の社長・武藤山治の妻で、当時の女性は夫の仕事に干渉しなったのですが、武藤千世子は鐘淵紡績(カネボウ)の事を考えていました。
武藤千世子は船の中で田中千代と話して、田中千代が海外でデザインを学んでいたことを知り、帰国後、田中千代を鐘淵紡績(カネボウ)の顧問として招きます。
こうして、田中千代は昭和7年(1932年)に、鐘淵紡績(カネボウ)の顧問となり、鐘淵紡績(カネボウ)のデザインルームでデザイナーとして働き始めました。
田中千代はデザインルームで、生地を買ってくれた人に、生地の無料裁断などをしていたのですが、生地を買っても縫い方が分からないの教えて欲しいと頼まれたため、自宅で洋裁教室「皐会(さつきかい)」を開くことになりました。
最初は生徒6人で始まった皐会ですが、次第次第に生徒が増えていくことになります。
この時代は既製服を売っていないので、家族の誰かが生地を縫って服を作らねばなりません。
このため、この時代の女性は、まず洋裁や和裁を求められ、女性は洋裁教室や和裁教室に通い、他にも洋画やピアノなどに通いました。
女性に料理を求めるようになったのは、昭和の高度成長期に入ってからで、「衣食住」という順番があるように、この頃は、まだ「衣」の時代です。
ところで、神戸では、日本洋画界の草分け的存在の女流洋画家・亀高文子がアトリエ「赤艸社女子絵画研究所」を開いていました。
甲南高等女学校に入学した榎並枝津子(榎並江つ子)は、絵が大好きだったので、亀高文子のアトリエ「赤艸社女子絵画研究所」に通い、油絵を学びました。
そして、榎並枝津子(榎並江つ子)は、田中千代の洋裁教室「皐会(さつきかい)」に通も通い、洋裁を学びました。
一方、佐々木惇子(坂野惇子)もの亀高文子のアトリエ「赤艸社女子絵画研究所」に通って亀高文子から油絵を習い、洋裁は洋裁界の先駆者・伊東茂平に学びました。
お手数ですが、第4話は目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
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