平安時代から鎌倉時代にかけて源頼朝の側近として活躍した武将・佐々木高綱の立志伝です。
佐々木高綱(ささき・たかつな)は、永暦元年(1160年)に近江国蒲生郡佐々木荘の領主・佐々木秀義の四男として生まれた。通称を「四郎」と言い、後に出家して「西入」を称した。
この佐々木家は、宇多天皇を祖とする宇多源氏の流れを汲み、近江国を領地としたことから「近江源氏」「近江佐々木氏」と呼ばれ、父・佐々木秀義は有力武将の1人であった。
父・佐々木秀義は保元の乱(1156年)で天皇方の源義朝に属して勝利したが、平治の乱(1159年)で源義朝に属したために破れ、子の佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱を連れて関東へと落ち延びた。
佐々木高綱は幼少だったため、京都の居る叔母の元に残ったが、治承4年(1180年)5月に源頼朝が以仁王の命を受けて平家討伐の兵を挙げると、関東へとはせ参じ、山本兼隆を討ち取って手柄をあげた。
さらに、石橋山の戦いで源頼朝が敗走して杉山に逃れたとき、敵軍・大庭景親の軍勢が迫って、源頼朝は絶対絶命の窮地に陥った。
すると、佐々木高綱は引き返して防ぎ戦い、源頼朝を逃がしたので、源頼朝は九死に一生を得た。
源頼朝はこれに感謝して、佐々木高綱に「私が生きていられるのは貴方のおかげです。何時の日か、私が天下に号令するようになれば、その半分を割いて貴方に与えよう」と約束した。
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寿永2年(1183年)、源義仲が京都から平氏を追い出して京都を制圧したが、源義仲は皇位継承に介入したたため、後白河法皇との関係が悪化し、後白河法皇は源頼朝に源義仲の討伐を命じた。
これを受けた源頼朝は、源範頼・源義経を大将とする大軍を派遣。佐々木高綱もこれに従うことになった。
ところで、源頼朝には生食(いけづき)と磨墨(するすみ)という名馬を所有しており、生食が1番の名馬であった。
佐々木高綱と梶原景季は、名馬・生食(いけづき)を欲しており、出陣の前日、梶原景季は源頼朝の元を訪れて、名馬・生食を求めたが、源頼朝は惜しんで、2番目の名馬・磨墨(するすみ)を与えた。
諸将が出陣した翌日、佐々木高綱は近江から源頼朝の元に馳せ参じ、「戦陣に向かう者は、生きて返れるとは期待しません。そこで、源頼朝に拝謁して決別を告げ、指揮を賜わろうと思い、3日間、馬を走らせて、ようやく到着しました。しかし、馬は疲れ果て、再び走らせることが出来ないので、戦陣へ向かうことが出来ません」と告げた。
源頼朝が「私のために宇治川に先陣するか」と尋ねると、佐々木高綱は「私は近江の出身です。宇治川の深さ浅さを知っています」と答えた。
すると、源頼朝は「梶原景季らが欲しても与えなかった名馬・生食(いけづき)をお前に与えよう」と言って、1番の名馬・生食(いけづき)を与えた。
こうして1番の名馬・生食を得た佐々木高綱は、急いで立ち、浮島ヶ原で本陣に追いついた。
梶原景季は1番の名馬・生食は得られなかったが、2番目の名馬・磨墨(するすみ)を得たので自慢していたが、佐々木高綱が1番の名馬・生食を得ていたので激怒し、佐々木高綱を誅してしまおうとした。
それを察知した佐々木高綱は、「貴方がもらえなかった名馬を私が貰える訳がありません。これは盗んできたのです」と釈明したので、梶原景季は怒りを静め、共に源義経に属して西進した。
年が明けて寿永3年(1184年)1月、源義経の軍勢は宇治川に達したが、源義仲は宇治川の橋を壊し、川の中にも綱を張っていたので、東軍は宇治川を渡ることが出来なかった。
そこで、梶原景季が名馬・磨墨(するすみ)で一番に宇治川に入ろうとしたところ、佐々木高綱に馬の腹帯が伸びていることを注意されたので、岸へと引き返した。
すると、佐々木高綱が名馬・生食(いけづき)で梶原景季を追い抜いて宇治川に入ったので、梶原景季は川の底に綱を張っていると忠告した。
それを聞いた佐々木高綱は大刀を抜いて馬にかかる綱を切りながら宇治川を渡り、対岸へ上がると名乗りを上げて先陣を勝ち取り、東軍の勝利に貢献した。
その後も佐々木高綱は功績を挙げ、長門・備前などの守護となり、左衛門尉に任じられた。
しかし、石橋山の戦いで絶体絶命のピンチに陥っていた源頼朝を助けたとき、源頼朝は「半分を割いて与えよう」と約束していたので、佐々木高綱は恩賞が少ないのを不満に思い、建久6年(1195年)に家督を嫡男・佐々木重綱に譲り、高野山へ入って出家した(出家の理由は諸説有り)。
佐々木高綱は出家して「西入」と名乗って各地を巡ったようで、各地に伝承が残っているが、真偽は不明。死没も、建保2年(1214年)11月説と建保4年(1216年)2月説がある。
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