皇室御調達の子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描く政界立志伝「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」の第2話「佐々木八十八と坂野兼通の台頭」です。
第1話は、目次「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」からお進みください。
父・佐々木八十八が佐々木営業部(レナウン)を創業した2年後に日露戦争が勃発した。
ロシアは寒いので、防寒肌着を中心に衣類の需要が増加し、父・佐々木八十八の佐々木営業部(レナウン)は、日露戦争の特需を受けて業績を上げていった。
そして、大阪で成功した父・佐々木八十八は兵庫県神戸市住吉へと居を移し、大正7年(1918年)4月11日に兵庫県神戸市住吉で、末娘(三女)・佐々木惇子(坂野惇子)が生まれた。
さて、先進的な考えの持ち主だった父・佐々木八十八は、資本と経営の分離を考えており、佐々木営業部(レナウン)を支配人・尾上設蔵に任せて政界へと進出し、大正12年(1923年)に大阪市東区区会議員となった。
その直後の大正12年(1923年)9月に関東大震災が発生する。関東大震災の影響で、日本の金融は未曾有の大混乱を起こした。世に言う「震災恐慌」である。
このとき、被災した東京の問屋が、一方的に手形取引を中止し、百貨店に対して現金取引を求めたので、百貨店が問屋に激怒。百貨店は仕入れに苦しみ窮地に陥った。
そこに目を付けたのが、佐々木営業部の支配人・尾上設蔵だった。
支配人・尾上設蔵は関東の金融混乱を逆手にとって、従来の手形取引を続けたので、百貨店はこぞって佐々木営業部(レナウン)に雪崩れ込み、佐々木営業部(レナウン)は一気に取引を拡大した。
こうして、父・佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は、関東大震災を切っ掛けに、百貨店の信頼を勝ち取り、百貨店向けの繊維問屋として成長していき、メリヤス業界のトップへと躍進する。
その後、父・佐々木八十八は多額納税者議員として政界へ進出することになる。
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ところで、関東大震災によって起きた経済混乱期に、大阪でもう1人のヒーローが誕生していた。それが、坂野通夫の父・坂野兼通ある。
坂野兼通は、愛知県尾張藩士・坂野信一郎の長男として愛知県名古屋市で生まれ、尾張藩士・加藤高明(後の24代内閣総理大臣)の推薦で三菱合資銀行部(三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)に入社し、いくつかの支店を経て、支店で最も重要な大阪支店長となった。
一方、大阪にある山口財閥の個人銀行「山口銀行」(三和銀行→三菱東京UFJ銀行)で大番頭として活躍した総理事・町田忠治(後の大蔵大臣)は、政界へ進出するため、山口銀行を去ることを決意し、自身の後任として三菱合資銀行部の大阪支店長をしていた坂野兼通を山口銀行へと招いた。
坂野兼通は町田忠治の後継者として山口銀行へと移り、山口銀行の理事を経て総理事に就任し、佐々木駒之助と共に山口銀行の近代化に尽力して、株式会社・山口銀行を設立した。
このようななか、大正12年(1923年)9月に関東大震災が発生。関東大震災の影響で金融混乱が起き、日本の金融は麻痺し、大阪も大きなダメージを受けた。世に言う「震災恐慌」である。
震災恐慌の影響で大阪の商業・工業は資金繰りに行き詰まり、瀕死の状態を迎えたが、不良債権が増える事を恐れた大阪の銀行は一斉に貸し渋り(貸出規制)をして融資を行わなかった。
もはや、大阪の商業・工業は全滅しようとかという状況に陥った。それを救ったのが、山口銀行の坂野兼通である。
坂野兼通は、町田忠治の経営路線を踏襲して中小企業主義を取っており、子会社の関西信託を通じて中小企業を中心に融資を行っていた。
このため、震災恐慌の影響で他の銀行が貸し渋りを続けるなか、山口銀行の坂野兼通は、不良債権になることを恐れもせず、大阪の商業・工業の中小企業に融資し続けた。
銀行家はリスクを嫌うな人間が多いため、坂野兼通を山師と批判する者も居たが、坂野兼通は大阪の商業・工業界を救った英雄となり、大阪銀行界のニューリーダーとなった。
その後、坂野兼通は、山口銀行の総理事を佐々木駒之助に譲り、山口財閥の関連企業を統括する山口合資会社の理事に就任する。
そして、坂野兼通は、山口財閥の代表者として、山口財閥傘下の日本生命・大阪蓄財・関西信託・百十銀行など十数社の理事や会長などを務めた。
こうして、坂野兼通は山口財閥の大番頭として活躍して大阪銀行界の重鎮となり、佐々木営業部(レナウン)の創業者・佐々木八十八から一目置かれる存在となった。
このときはまだ、佐々木八十八の三女・佐々木惇子と、坂野兼通の七男・坂野通夫が結婚するとは、誰も知るよしは無かった。
お手数ですが、第3話は「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」から、お進みください。
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