天龍寺の管長・関牧翁の立志伝

京都の天龍寺の管長を務めた関牧翁(せきぼくおう)の生涯を描く立志伝です。

関牧翁の立志伝

関牧翁関牧翁(本名は岩井隆夫もしくは岩井敏夫)は、明治36年(1903年)4月15日に、群馬県甘楽郡下仁田町の岩井家(4人兄弟)で生まれた。

父親は村で2番目の大地主の7男だった。母親は庄屋の娘で「庄屋小町」と歌われた美人だった。母親が見合いで父親を一目惚れしたが、家の格の違いから、周囲から結婚を反対されたという。

関牧翁の実家・岩井家は製糸業を営んでいたが、父親は製紙会社の技師で、後に社長となった。家業の製糸業は母親が取り仕切っていた。関牧翁は製糸業を営む実家が嫌いで、祖母の家で過ごすことが多かったという。

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新しき村

大正12年(1923年)9月に関東大震災があり、関牧翁は渋谷の知人宅で被災し、大正12年に慶應義塾大学医学部を中退した。

関東大震災を切っ掛けに自然主義文学は衰退し、白樺派が台頭しており、白樺派の武者小路実篤の人道主義に心を打たれていた関牧翁は、教師のにもなれず、医師にもなれなかったので、人生に迷い、ユートピアを求めて、昭和2年(1927年)に長野県の宮地村を訪れ、「愛の村」に入村した。

長野県の宮地村に「愛の村」は、作家の武者小路実篤が開いた村落共同体「新しき村」の影響で出来たらしい。

「愛の村」は誰かが名付けたのではなく、渡辺ムラという天理教の信者が長野県の宮地村に宮地教会を開き、人が集まるようになると、誰と言うこともなく、宮地教会の周辺を「愛の村」と呼ぶようになったのである。

「愛の村」に入村した関牧翁は、生活のために瓦製造の仕事についた。「愛の村」には、労働しない者こそ悩むのだという教えがあり、関牧翁は月1回の教会の例祭の半日を休む以外は懸命に働き、半年で瓦職人の技術を身につけた。

瓦製造は重労働で、このときの労働が後の厳しい修行を耐える体力を養ったという。

ブラジルへ移住計画

「愛の村」に入村して1年が過ぎた。関牧翁は天理教の信者にもなれなかった。人道主義と言っても深い主義主張があったわけでもなく、瓦職人で一生を終えるつもりもなかった。

「愛の村」の生活は非常に厳しく、働いても働いても楽にならず、一度捨てたと思っていた煩悩が頭をもだけてきた。

「愛の村」には同じように思う人が居り、そのうちの1人がブラジル移住を思いついた。ブラジルに「愛の村」を作るという計画である。

ブラジル移住の資金面を担当することになった関牧翁は、義兄が正金銀行に勤めていたので、義兄にブラジル移住を相談した。

すると、義兄の弟がブラジルへ移住していたので、ブラジルへ移住には相当な資金が必要だという事が判明し、仲間が計画から抜けていき、教師となって「愛の村」から出て行くものも居た。

端厳寺の岡部洪宗との出会い

「愛の村」から1里ほど離れた山奥に端厳寺があり、端厳寺に岡部洪宗という住職が居た。

岡部洪宗は妻帯を持たず、肉も食わないが、「わしは毎日、酒5合を飲むと、漢詩を作りたくなるので、出家したのだ」と豪語する程の無類の酒好きで、蔵菩薩の月命日の24日に、付近の檀家を集めて、地蔵講を開き、訳の分らない禅学を講じるという変わった坊主だった。

関牧翁は、端厳寺の話を聞き、好奇心が半分、残りの半分は何かを求めて、岡部洪宗の月1回の法座に出るようになった。

そして、半年ほどしたある日、岡部洪宗の法話で、「至道無難、唯嫌揀択」(どこへ行くにしても、好き嫌いさえしなければ、直ぐに到達することが出来る)という一段を聞いて氷解し、悟った。

そこで、関牧翁は、法座が終わると、岡部洪宗に弟子にしてくれとは言わず、いきなり坊さんにして欲しいと頼んだ。

岡部洪宗は出家を止めたが、関牧翁は頑として引かないので、岡部洪宗は呆れて、出家せずに見習いになる事を勧めた。

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出家

関牧翁は行者(あんじゃ)となって修行を続け、端厳寺の生活に慣れてきたころ、ようやく、岡部洪宗から弟子になる事を認められ、昭和3年3月6日に会得式を行って出家し、「宗巍」という名前をもらった。

このとき、岡部洪宗が「お前はノッポ(背が高い)で巍々としているから、この名前が良かろう」と言って「宗巍」と名付けると、関牧翁が「和尚様よりも偉くなりたいので、『巍宗』にしてください」と言ったので、岡部洪宗は「なにを言いくさる」と笑った。

(注釈:関牧翁は後に実名として「巍宗」を名乗った。)

まもなく、関牧翁は岡部洪宗の許しを得て京都にのぼり、妙心寺の専門道場で修行をした。

妙心寺は粗食を売りにしており、修行僧は粗末な食事しか与えられなかったが、身銭を切って寺の外で食べる分には、何を食べても自由だった。

端厳寺では、そのようなことはなかったので、関牧翁は坊主は嘘つきだと思い、与えられる食事だけを食べていたため、栄養不足から結核になり、昭和4年に端厳寺へと戻り、静養した。

天龍寺の関精拙に弟子入り

端厳寺で1年間、静養した関牧翁は、師匠にもっと食事の良い寺を訪ねると、師匠の岡部洪宗は天龍寺へ行けと言った。

そこで、昭和5年(1930年)3月、関牧翁は再び修行の旅に出て、京都の天龍寺の専門道場(天龍寺僧堂)へ入門し、関精拙の弟子となった。

ある日、関精拙から坊主になった理由を尋ねられると、関牧翁は「医者が落としたものを坊主が拾う」とは言えず、正直に「散々迷って出家しました」と答えた。

すると、関精拙が「もう迷いは無い。衣を着たなら、のしを付けて仏縁にお供えした体だ。お前が死んでも元の体には帰らない」と教えたので、関牧翁は一抹の清風が背中を吹き抜けていくような感じがした。

ある日、関牧翁は、貴人から頂いたばかりの清水六兵衛の名作といわれる大皿を落として割ってしまったのだが、そのとき、関精拙から「怪我は無かったか」と優しい声をかけられた。

関牧翁は天龍寺で2年修行した後、岐阜県の安国寺に行くことになっていたが、関精拙に一生お仕えしようと思い、天龍寺に残り、関精拙をあの世に見送ってから、安国寺へ行く事にした。

それ以降、関牧翁は朝3時から深夜12以降まで、厳しい修行に打ち込んだ。他の修行僧が負けじと頑張ったが、誰も関牧翁の精進には勝てなかった。

天龍寺の管長に就任

昭和14年4月、関精拙から「わしには家族が居ない。入籍して関姓を名乗って欲しい」と頼まれ、関牧翁は岩井姓を捨てて関精拙の養子となる。「牧翁」も関精拙が名付けた。

このとき、戸籍の手続きのため、群馬県に帰って役場を訪れると、「あの男はまだ生きていたのか」と言われたという。

昭和14年7月、関牧翁は天龍寺僧堂の老師に任命された。

関牧翁は10数人の修行僧を指導していたが、あまりにも厳格だったので、痛棒を食らわせすぎて、数人の修行僧が逃げてしまった。

すると、関精拙は「弟子を育てるにはせっかちではいかぬ。牧場の翁が牛や羊を飼う親心と、むしろ修行者よりはるかに忍耐を要する。『牧翁』と名付けてやったのも、あだやおろそかではないぞ」と戒め、丸く柔らかくなる必要もあると教えた。

昭和20年、関牧翁が未亡人との恋愛に夢中になると、周囲の人は師匠の関精拙に世間の風評を訴えたが、関精拙は「等持院(関牧翁)ほどの修行をしてこい」と叱りつけた。

昭和20年(1945年)10月に関精拙が死去すると、色々と問題はあったが、昭和21年3月に関牧翁が天龍寺の管長に就任した。

かなりのイケメンで、慶應ボーイということもあり、反発もあったが、末寺の要求に対して、関牧翁は天龍寺を天龍派からの脱退を宣言するなどして、政治力も発揮した。

関牧翁は、厳格な性格で、昔から酒も飲まず、タバコも吸わず、精進の粗食に甘んじていたが、未亡人との恋愛を切っ掛けに打って変わったように人間味の溢れる管長となり、酒や肉についても容認し、俗人と同じ物を食べた。

そして、昭和29年には絹子と入籍し、臨済宗管長で初の妻帯者となり、「妻帯お構いなし」を公認した。平成3年(1991年)2月13日に食道静脈瘤破裂で死去した。88歳だった。

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関牧翁の備考

  1. 足利尊氏を尊敬していた。
  2. 女優・浪花千栄子と交流があり、浪花千栄子が経営する旅館「竹生」の土地を斡旋した。

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