戦後初のファッションショー

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の生涯を描く立志伝「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」を書いていたところ、「戦後初のファッションショー」の通説に疑問が生まれたので紹介します。

戦後初のファッションショーの通説

  1. 昭和23年(1948年)4月に東京・銀座のキャバレー「美松」でファッションショーが開かれた。
  2. 昭和23年(1948年)5月に東京・神田の共立講堂でファッションショーが開催された。

戦後初のファッションショーについては、上記の「美松」説と「共立講堂」説があり、一般的には「共立講堂」説の方が有名なのだが、昭和23年(1948年)という点では共通している。

WOWOWも番組「ファッション伝説 TOKYOモード60年史」の紹介で、「終戦の傷跡が未だ癒えない1948年、資本主義の洗礼を受けた日本で戦後初のファッションショーが開催されました」と書いており、開催場所にまでは触れていないが、昭和23年(1948年)説を採用している。

しかし、私が「ファミリア創業者-坂野惇子の立志伝」を書いていたところ、「皇后様のデザイナー」と呼ばれる田中千代と佐々木営業部(レナウン)が昭和23年(1948年)よりも前の昭和22年(1947年)10月に大阪の文楽座でファッションショーを開催していることが判明した。

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田中千代がファッションショーを開催した経緯

佐々木営業部(レナウン)は第二次世界大戦中の企業整理により、江商に吸収合併されたが、戦後、尾上清が佐々木八十八の意を受けて、昭和22年(1947年)9月に江商から佐々木営業部(レナウン)を独立させた。

そして、尾上清が佐々木営業部(レナウン)の販売部門「有信実業」を設立し、大阪のビル1階に販売店「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」をオープンした。

田中千代は神戸のデザイナーで、神戸大空襲などの影響で戦争末期の昭和20年(1945年)に洋裁研究所の閉鎖を余儀なくされ、疎開していたが、神戸の洋裁研究所が空襲を免れており、終戦から2ヶ月後の昭和20年(1945年)10月1日に洋裁研究所を再開していた。

田中千代は戦前に佐々木営業部(レナウン)の子供服のデザインを手がけており、尾上清が佐々木営業部(レナウン)を再開すると、佐々木営業部(レナウン)に「田中千代デザインルーム」を開設した。

そして、田中千代は昭和22年(1947年)10月に大阪の文楽座で、佐々木営業部(レナウン)主催によるファッションショーを開催した。

戦後初のファッションショーの結論

田中千代と佐々木営業部(レナウン)は、銀座のキャバレー「美松」や神田の共立講堂のファッションショーの前年の昭和22年(1947年)10月にファッションショーを開催している。

したがって、戦後初のファッションショーは、田中千代と佐々木営業部(レナウン)が、昭和22年(1947年)10月に大阪の文楽座で開催したファッションショーといえる。

なお、昭和21年(1946年)6月にHGQ将校の婦人らが横浜でファッションショーを開催しているが、日本人は立ち入り禁止であった。

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