清水栄次郎の立志伝

大阪の木材業界で活躍した清水財閥の清水栄次郎の立志伝です。

清水栄次郎の立志伝

清水栄次郎は明治3年(1870年)4月11日に大阪で生まれた。父は大阪・清水財閥の清水栄蔵、母は田中松右衛門の2女「田中すみ」である。

清水家は阿波国(徳島県)の出身で、清水栄次郎の祖父・清水栄蔵が阿波国(徳島県)から大阪へ出て砂糖商を始め、清水栄次郎の父・清水栄蔵(祖父と同姓同名)が中国との砂糖貿易で巨万の富を築き、清水銀行や肥料・鉱山業に進出して清水財閥へと発展させた。

清水財閥はかなりの富豪でだったが、四国の銅山から銅が出なくなったり、清水銀行も取り付け騒ぎに遭ったりして、かなり浮き沈みの激しい財閥だった。

清水栄次郎は明治24年(1891年)に慶應義塾大学を卒業して家業を継ぎ、明治31年(1898年)に家督を相続した。

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秋田木材の設立

慶応大学時代の先輩・井坂直幹は、大倉喜八郎に見込まれて大倉組に入り、東京の深川へと木材を輸送していたが、東京・深川の木材加工は精度が悪かったため、英国製の製材機を導入した製材工場の設置を計画した。

しかし、東京で金融恐慌が怒り、東京・深田の久治米銀行などが倒産したため、東京・深田の木材問屋が連鎖倒産し、井坂直幹の計画は頓挫してしまう。

井坂直幹は事後処理に奔走した後、明治30年に能代挽材合資会社を起こして英国製の製材機を導入して製材を開始した。

そして、井坂直幹は日露戦争で財を成し、能代材木株式会社と秋田製材株式会社を合併し、明治40年に秋田木材株式会社を設立し、社長に就任した。

清水栄次郎は、浮き沈みの激しい清水銀行や鉱山業を売り払い、秋田木材の設立に大金を出資して大株主となり、秋田木材の常務および大阪支店長に就任した。

そして、清水栄次郎は大阪の木材業界に清水財閥の資金が大量に投入した。大阪に入る木材のほとんどに清水財閥の資金が関わっていたと言い、大阪木材界の黒幕的な存在となる。

清水財閥の飛躍

そうした一方で、阪急電鉄の小林一三の鉄道事業に大金を投じたり、電力事業に資金を投じたが、花形の繊維産業には手を出さず、木材業を中心に慎重かつ堅実な事業展開を行い、戦時中はアジアへと進出し、手広く事業を展開した。

清水栄次郎は泉尾土地・中央別府温泉土地・大二商会などの社長を務めたほか、杉村倉庫・秋田木材・日本簡易火災保険・山陽中央水田・阪急電鉄などの要職を歴任し、大阪でも有数の事業家として活躍し、財界立志伝を成し遂げた。

そして、清水栄次郎は昭和34年(1959年)に天寿を全うして死去した。享年90だった。

妻と子供

清水栄次郎の妻は、京都の藤林忠太郎の妹・あい。長男・清水潔は東京大学を卒業し、清水産業の社長を務めた。次男・清水雅は阪急電鉄に就職して小林一三の右腕として活躍し、阪急百貨店の初代社長や東宝の社長を務めた。

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