熊本藩細川家の大阪屋敷の御用商人として財を成した清水常七の立志伝です。
清水常七は、肥後細川藩(熊本藩細川家)の大阪屋敷に出入りする御用達の商人で、大阪府北区中之島に居を構えて主に肥後米を扱い、財を成した。清水常七は茶道や和歌にも明るい文化人でもあった。
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明治4年(1871年)2月に桂宮家の領地であった長岡天満宮が京都府へ広収されることになった。
長岡天満宮の長岡明神社と長岡御別荘は熊本藩細川家に縁の深い建物だったので、桂宮家は熊本藩細川家に長岡明神社と長岡御別荘を与えた。
熊本藩細川家は、長岡明神社を細川家の京都屋敷へ移したが、長岡御別荘については適当な土地が無かった。
そこで、長岡御別荘のうち、藩祖・細川幽斎(細川藤孝)が八条宮智仁親王に古今伝授を行なった座敷(古今伝授の間)だけを解体して熊本藩細川家の大阪屋敷へと送り、大阪屋敷の蔵で保存した。
しかし、廃藩置県により、熊本藩細川家の大阪屋敷は撤廃され、「古今伝授の間」を熊本へ送る計画も中止になった。
そこで、熊本藩細川家の大阪屋敷の御用商人・清水常七が、蔵と「古今伝授の間」の建材の保存を引き継いだ。
その後、明治44年(1911年)になって、清水常七の子・清水勉が、保管していた「古今伝授の間」を細川家へ献納した。
しかし、ほとんど木材が腐っていたので、細川家は図面を元にして腐った部分を補って「古今伝授の間」を再建することなった。
そして、「古今伝授の間」は細川家に縁の深い建物だったので、細川家は大正元年(1912年)11月5日に、細川藩主を祭る出水神社の酔月亭跡に「古今伝授の間」を再建した。
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