朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の立志伝を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第10話「坂野惇子と坂野通夫の戦後-新円500円生活」です。
このページは立志伝の第10話です。これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
夫・坂野通夫がジャカルタから帰国した翌月の昭和21年(1946年)5月、坂野通夫と坂野惇子は疎開先の岡山県勝山を引き払い、兵庫県尼崎市の塚口にある坂野通夫の兄の借家を借りて移り住んだ。
こうして、坂野惇子と夫・坂野通夫は、幼い長女・坂野光子と、疎開中も坂野惇子に付き添ってくれていたお手伝いさんを含めた4人で、戦後の新しい生活を始めることになったが、生活道具は何も無かった。
坂野惇子は、神戸大空襲で兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅から焼け出された後、岡山県勝山に疎開している姉・佐々木智恵子の元に身を寄せていたので、生活道具は何も揃えていなかったのである。
さて、日本政府は極度のインフレを解消するため、「新円切換」「預金封鎖」「財産税」を実施し、預金の引き出しを世帯主300円、家族1人につき100円に制限した。
さらに、給料は新円500円までを支給し、残りは強制預金させた。
このため、ガラガラポンで、お金持ちも貧乏人も関係無く、みんな、1ヶ月、新円500円で生活しなかればならくなった。世に言う「新円500円生活」の始まりである。
坂野惇子も坂野通夫も、両親は富豪階級(ブルジョア)だったが、富豪階級も例外ではなく、新円500円生活を余儀なくされ、厳しい生活が始まった。
親兄弟に支援を求めれば、それなりの生活道具は揃うが、夫・坂野通夫は海軍上がりのうえ、厳しい性格だったので、「我々は乞食ではない」と言い、親兄弟といえど、空き瓶1本ですら、支援を求めることを禁じたのである。
さらに、坂野通夫は、子供の栄養が第一として、生活用品よりも、食料を最優先させたため、新円500円では食料を買うのが精一杯で、生活用品までお金が廻らず、食器も買いそろえられないような生活が続いた。
そのようななか、坂野通夫の姉・貴志文子が昼時に、坂野通夫の家を訪れると、坂野惇子らが食事をしているところで、坂野惇子らは鍋の蓋を皿にして食事をしていた。
坂野惇子と坂野通夫は、子供の栄養を第一として、食品の購入を最優先させていたので、お茶碗すら買いそろえられず、鍋の蓋などをお茶碗やお皿代わりに使っていたのである。
姉・貴志文子は兵庫県神戸市東灘区岡本に住んでいたが、空襲で被災していなかったので、坂野惇子らがこんな貧しい生活をしているとは思いもしていなかったので、坂野惇子らの食事の風景を見て驚き、慌てて近くに住む兄の家から食器を持ってきてくれた。
また、坂野通夫の兄・坂野信夫が神戸の本宅の土蔵を整理しに来たときに、坂野家の土蔵にあった高価な家具や生活用品が気前よく坂野惇子の家に運び込まれたので、坂野惇子の家は急に家具だけは高級住宅のようになった。
こうして坂野家に一通りの生活用品や家具が揃ったが、1ヶ月、新円500円では食べ物を買うので精一杯で、苦しい生活に変わりはなかった。
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現在は花嫁修業の定番は料理だが、料理が花嫁修業の定番になってきたのは、高度成長期に入り、既製服が普及し初めてからである。既製服が普及するまでは和裁・洋裁が花嫁修業の定番だった。
当時は既製服を販売していなかったので、家族の誰かが服を縫わねばならないため、女性は先ず和裁・洋裁を求められたのである。
そして、この洋裁が戦後、女性の貴重な収入源となった。戦争で夫を失った戦争未亡人なども、洋裁で生計を立てた人が多かった。
さて、坂野惇子も女学生時代からお稽古事に励んでおり、洋裁においては、アップリケで有名な甲子園の北島政子に学び、「立体裁断の鬼」「伊東式の型紙」で有名なデザイナー伊東茂平の洋裁学校を卒業していた。
さらに、坂野惇子は「甲南家政のお洒落番長」として有名な木川章子に師事し、木川章子からも洋裁の手ほどきを受けていた。
そこで、戦後、苦しい生活を続けていた坂野惇子は、家計を助けるために何か仕事をしなければならないと思い、幼い娘・坂野光子(てるこ)を観ながら出来る洋裁の仕事にする事にした。
そして、坂野惇子は、姪の服を縫った事を切っ掛けに、近所から洋裁の仕事が舞い込むようになった。
しかし、お嬢様育ちの坂野惇子は、代金を請求する事ができなかった。近所の人は、そんな坂野惇子に気をつかってか、いつもお礼は品物だったので、坂野惇子の生活は一向に楽にならなかった。
第11話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から選んでください。
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