「日本の喜劇王」「日本のチャップリン」と呼ばれた曾我廼家五郎(そがのや・ごろう)の生涯を描く立志伝です。
曾我廼家五郎(本名は和田久一、ペンネームは一堺漁人)は、明治10年(1877年)9月6日に大阪府堺市の宿院町で生まれた。父親は弁護士のような仕事をしていた。
曾我廼家五郎は7歳で宿院小学校へ入学したが、落第。8歳の時(明治18年)に、父親が病気になったため、稲葉村へと移り住み、貧乏暮らしに転落し、その年の冬に父親が死んでしまう。
曾我廼家五郎は母親に連れられて、母方の祖父の家へ移るが、その年に母親が再婚したので、曾我廼家五郎は祖父に育てられ、錦小学校へ入学した。
祖父は浄因寺の然学和尚で、曾我廼家五郎は小坊主をさせられた。学校でからかわれるのが嫌で、小坊主姿の時は人目を忍んで歩いたという。
ある日、祖父の使いで酒を買いに行くが、駄菓子屋で南京豆を買い、残りの金で酒を買って足りない分は水を入れた。
これが、祖父にバレてしまい、曾我廼家五郎は縛られて吊り下げられ、放置された。
しかし、寺男の長さんが助けてくれ、「このままでは虐め殺されるので、母親の元に逃げなさい」と言い、逃がしてくれた。
このとき、母親は再婚相手とも死に別れ、大坂で小料理屋を開いていたので、曾我廼家五郎は母親の元へと逃れ、浪花座で生まれて初めて歌舞伎芝居を観て、女形が男性だということに衝撃を受けた。14歳のことだった。
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曾我廼家五郎は中学校を1年で退学して奉公に出たが、尻の据わりが悪く、奉公先を転々とした末、煙草問屋「高井商店」に奉公する。
高井商店の女将さんが芝居好きで、足繁く芝居に通っており、新人の丁稚奉公だった曾我廼家五郎は女将さんのお供をして、芝居を観るようになった。
高井商店の従業員もみんな芝居が好きで、芝居から戻ると、「どうだった」と尋ねられるので、曾我廼家五郎は観てきた芝居のシーンを再現しながら、話して聞かせた。
すると、女将さんが、みんなに聞かせてあげなさいと言い、高座を作ってくれたので、曾我廼家五郎は高座に座ってみんなに話して聞かせるようになった。
映画もラジオも無い時代なので、大変喜ばれ、次第に役者になることを夢見るようになった。
そうした生活が2年も続いたある日、高井商店の主人が「それほど好きなら、いっそ思い切って役者になったらどうや」と勧めてくれたので、道頓堀の芝居に出ていた歌舞伎役者・中村珊瑚朗の弟子になり、「中村珊之助」という芸名を名乗った。
1年後、17歳の時に歌舞伎の大部屋役者として、浪花座で初舞台を踏むと、母親は喜んでくれたが、母親は病気になり、やがて死んでしまった。
曾我廼家五郎は役者になったとはいえ、大部屋役者で金が無く、浮浪者のような生活をしており、母親を葬式に出す金も無い。
すると、お安(安子)という娘が気の毒がって香典として3円を恵んでくれたので、人力車を雇って、母親の遺体を祖父の浄因寺へと運んで弔った。
しかし、当時の役者は「川原乞食」と呼ばれて蔑まれる身分だったので、曾我廼家五郎は親戚中から散々に非難され、1人前の役者になるまでは故郷に戻るまいと心に決め、泣きながら帰った。
このため、お安の暖かさが身にしみ、間もなく、お安と結婚したが、貧乏役者なので、家計は火の車だった。
そのようななか、ある頭取が地方の一座を紹介してくれたので、渡りに船と飛びついたのだが、頭取に騙されており、散々な目に遭った。
その後も、地方で芝居を続けていたが、大坂に置いてきた妻・お安が「髪結いの仕事が1人前になれば、貴方1人くらいは食べさせられるから、大阪に戻ってきて修行をしなさい」というので、大阪へ戻るのだった。
明治36年(1903年)、大部屋役者の曾我廼家五郎は、紆余曲折を経て、大坂の福井座で嵐佳笑一座に入っていたときに、芝居「伊賀越」で初めての役が付いた。
馬に乗る役者は、馬の足になる役者に「飼育料」という名目で祝儀を払う習慣があるのだが、曾我廼家五郎はお金が無いので、馬の足役に「飼育料」を払えなかった。
このため、曾我廼家五郎は、舞台の上で馬から振り落とされ、大恥をかかされたため、馬の足の役者を殴って、福井座を飛び出し、役者に見切りを付けた。26歳の事だった。
このとき、曾我廼家五郎と意気投合していた8歳上の大部屋役者・中村時代(後の曾我廼家十郎)は、「アイツが辞めるのなら、ワシも辞めて故郷に帰り、合羽屋をやる」と言い、福井座を辞めて故郷の伊勢松坂に帰った。
明治36年(1903年)10月、芝居を辞めてブラブラしていた曾我廼家五郎は、暇つぶしに千日前の三流劇場「改良座」に入り、鶴家団十郎の「俄(仁輪加/にわか)」を観た。俄とは、即興劇の事である。
「改良座」は木戸銭(入場料)10銭ほどの三流の劇場なのだが、客は大入りで、大入りの客のなかに、大阪随一と評判の富田屋の芸者・八千代を見つけた。
曾我廼家五郎は、一流の八千代が三流の芝居小屋で俄を見て笑っている事に触発され、「これなら自分にもできる」と思い、俄を自然にした「笑劇」をやろうと考え、伊勢松坂へと向かい、中村時代を誘った。
中村時代は既に合羽屋の仕事をしており、芝居に戻ると知られると、親に反対されるので、コッソリと実家を抜けだし、駆け落ち同然で、曾我廼家五郎と共に大坂へと逃げた。
そして、曾我廼家五郎が「前後亭右」を名乗り、中村時代が「前後亭左」を名乗って、明治36年に伊丹の桜井座で、劇団「前後亭左右」を旗揚げした。
このとき、雑誌「文藝倶楽部」に掲載されていた尾崎紅葉の短編小説「喜劇夏小袖」のタイトルに目がとまり、曾我廼家五郎は「新喜劇」という看板を上げた、
しかし、劇団「前後亭左右」は、芝居好きの素人の寄せ集めなので、全く客が入らず、初日の客はわずか3人という有様だったため、3日興行の契約を1日で打ち切られてしまう。
その後、堺に逃げ戻って「卯の日座」に出演するが、これまた不入りで、2日で契約を打ち切られ、「前後亭左右」は解散を余儀なくされた。
なお、「前後亭左右」の旗揚げが、日本の喜劇の始まりとされているが、既に徳富蘇峰などが「喜劇」という言葉を使用しており、舞台でも「滑稽劇」「改良俄」として、事実上の喜劇は演じられていた。
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「前後亭左右」を解散した後、和歌山の中村福円一座が狂言作者を探しているという話しが飛び込んできた。
しかも、中村時代(曽我廼家十郎)も一緒に雇ってくれるというので、曾我廼家五郎は、この話に飛びついて、中村福円一座の狂言作者となった。
明治37年1月、いつもなら正月気分で大入りなのだが、日露戦争の気運が高まっており、芝居どころではなく、不入りが続いていた。
そこで、太夫元は、少しでも人気が出るように、中村福円に「さし幕」への出演を要請するのだが、役者にとって「さし幕」への出演は不名誉なことなので、中村福円は断った。
調整役の曾我廼家五郎は、太夫元と中村福円の間に挟まれて困り果てたので、自分にやらせて欲しいと頼み出ると、どうせ不入りなのだから好きにしろということで、「さし幕」を任された。
そこで、曾我廼家五郎は「芸妓総出演」というビラを町中にまいて、「滑稽勧進帳」という芝居をやると、連日の満員大入りとなり、「滑稽勧進帳」は大当りしたのだった。
「滑稽勧進帳」を大当りさせた、曾我廼家五郎と中村時代は、意気揚々と大坂へ凱旋すると、興行師の豊島寅吉から、道頓堀の浪花座への出演を依頼された。
実は、日露戦争が目前に迫っていた影響で景気は悪化しており、もはや芝居どころでは無く、大坂の道頓堀は、芝居小屋が休館を余儀なくされ、裏方や役者の失業者も増えていた。
困った太夫元らが集まって話し合い、兎にも角にも、お金のかからない芝居で小屋を開けなければ、道頓堀が寂れてしまうと言うのだが、そんな都合の良い興行が簡単に見つかるはずがなく、頭を抱えていた。
そのようななか、和歌山で「滑稽勧進帳」を大当りさせた曾我廼家五郎の話しが豊島寅吉の耳に入ったので、早速、浪花座へ出演させようということになったのである。
こうして、2人は、一流の浪花座へ出演することになったので、それなりの名前が必要となった。
そこで、曾我廼家五郎は、そのころ読んでいた講談本の「曾我兄弟」を読んでいたので、「曾我兄弟」にちなんで、8歳年上の中村時代が兄貴分となって「曾我廼家十郎」を名乗り、年下の曾我廼家五郎が弟分となて「曾我廼家五郎」を名乗ることにした。
こうして、2人は、明治37年(1904年)2月11日に道頓堀の浪花座で「曾我廼家兄弟劇」を旗揚げしたのである。27歳の事である。
2人が浪花座で「曾我廼家兄弟劇」を旗揚げした初日に、日本がロシアに宣戦布告したので、日露国交断絶の号外が道頓堀を駆け巡った。
日露戦争の勃発によって、一流の浪花座に出演するという大チャンスを潰されてしまったので、曾我廼家十郎は「よくよく運が無い」と嘆き、芝居を諦めて田舎に帰って合羽屋をやることにした。
しかし、曾我廼家五郎は、その日の新聞記事をネタにした即興芝居をヒットさせた事を思いだし、「無筆の号外」という芝居を書き上げ、浪花座の2日目に上演すると、「無筆の号外」が大ヒットした。
(注釈:曾我廼家十郎によると、「無筆の号外」を始めて上演したのは浪花座ではなく、浪花座の後で上演した京都の朝日座だという)
浪花座での成功により、一気に知名度を上げた「曾我廼家兄弟劇」は、勢いに乗って東京進出を果たすが、東京では大阪弁が通じに全く当たらず、大阪へと逃げ帰る。
しかし、2度目の東京進出は、日本がロシアの旅順を陥落した事で好景気に沸いており、「曾我廼家兄弟劇」は日露戦争の恩恵を受けて、「無筆の号外」が大当りし、東京でも認められるようになっった。
そして、31歳の時に父親の墓を稲葉村に建て、母親の墓を浄因寺に建て、故郷に帰ると、親戚一同は曾我廼家五郎は死んだと思っていたので、突然の帰郷を喜んでくれた。
役者になった事を批判していた親戚などは、「曾我廼家兄弟劇」のファンだったが、曾我廼家五郎とは気付かずに応援していたという。
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曾我廼家五郎は十郎を「兄貴」と呼び、曾我廼家十郎は五郎を「息子」と呼ぶほどの仲だったが、「曾我廼家兄弟劇」を旗揚げしてから3年も経たないうちに、溝が出来ていた。
曾我廼家五郎がストーリーで笑わせるのに対して、曾我廼家十郎はその場その場で客を笑わせ、サゲ(オチ)に天才的な才能を発揮した。
このため、曾我廼家五郎は、曾我廼家十郎の自然な演技に対抗して芝居を誇張し、ピョンピョンと跳ねるように歩くようになり、客からもわざとらしいと批判されるようになっていた。
このとき、曾我廼家五郎は、曾我廼家十郎に対抗するため、ダミ声を出しており、ダミ声の負担が原因で、晩年は咽頭癌になったとも言われる。
また、「曾我兄弟」にちなんで付けた名前がアダとなっていた。
「曾我廼家兄弟劇」の座長は曾我廼家五郎だったが、年上の曾我廼家十郎が兄の「十郎」を名乗ったため、兄の差し置いて弟の五郎が座長とは生意気だという批判が起きたのである。
曾我廼家五郎は、曾我廼家十郎の方が社会的に評価されている事に不満をもち、新しい喜劇を模索しており、大正3年(1914年)7月、妻をほったらかして、愛人を連れてヨーロッパへと旅立った。
しかし、パリを見物中の大正3年7月に第1次世界大戦が勃発した影響で、ヨーロッパの喜劇を学ぶこと無く、同年12月に日本へと逃げ帰るのだった。
大正4年、新しい劇を模索する曾我廼家五郎は、平民病院の加藤時次郎らの後援を受けて、社会劇や平民劇を始め、「平民劇団(平民団)」を旗揚げすると言い出した。
しかも、全員、本名で出演させると言い、「曾我廼家五郎」の名前を捨てて、本名の和田久一で看板を上げるというのである。
太夫元の松竹や、ひいき筋から止められるが、曾我廼家五郎は初志貫徹で、「平民劇団」を旗揚げして、全員、本名で出演させた。
しかし、本名では全く、誰だか分らないので、客入りがガタ落ちしてしまい、わずか3ヶ月で名前を戻し、「曾我廼家五郎劇」へ改称した。ただ、社会劇に転向し、以降は「新喜劇」はやらなくなった。
一方、曾我廼家十郎は「曾我廼家十郎劇」を名乗って芝居を始めており、「曾我廼家兄弟劇」は分裂して、五郎劇と十郎劇が喜劇界を二分した。
大正10年(1921年)ごろに喜劇の全盛期を迎えた。曾我廼家五郎は、東京でも活躍しており、東京の新富座で大正12年9月の関東大震災に遭い、丸の内の和田倉門まで逃げたと伝わる。
曾我廼家十郎が大正14年11月に死去すると、曾我廼家五郎は喜劇界の有頂天に君臨し、長らく喜劇王として喜劇界を独走した。昭和11年には所得番付日本1に輝いた。戦時中は戦意高揚を目的とした芝居に務めた。
戦後の昭和23年3月に大阪大学病院に入院し、咽頭癌の手術を受け、声が出なくなるが、泉虎に台詞を言わせ、パントマイムを行う「無言劇」で舞台に立った。
しかし、昭和23年9月の中座公演の後に再び倒れ、昭和23年(1948年)11月1日に死去した。71歳だった。
曾我廼家五郎の死後、松竹は「曾我廼家五郎劇」の主要メンバーに、曾我廼家十吾・渋谷天外・浪花千栄子などを加え、昭和23年12月に劇団「松竹新喜劇」を旗揚した。
「松竹新喜劇」に入れなかった残党は、曾我廼家五郎の妻・和田秀子を担ぎ出して、妻・和田秀子に2代目・曾我廼家五郎を名乗らせ、「曾我廼家五郎劇」を続けたが、主要メンバーが抜けたので、人気は出ず、やがて消滅した。
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