NHKの朝ドラ「おちょやん」の須賀廼家千之助(星田英利)のモデルとなる曾我廼家十吾(そがのや・じゅうご/とうご)の立志伝です。
曾我廼家十吾(本名は西海文吾)は明治24年(1891年)12月4日に兵庫県神戸市中町で、新聞販売店を営む西海作次郎の次男として生まれた。母親は西海ヒサである。
父・西海作次郎が「神戸又新日報」の販売店を経営していたので、曾我廼家十吾は子供の頃から新聞配達の手伝いをしていた。
実家の近くに湊川神社があり、湊川神社から福原へ至る道が興行街となっていたので、曾我廼家十吾は新聞配達をしながら、芝居・寄席・香具師などを見ており、モノマネをしていた。
やがて、曾我廼家十吾は、香具師のモノマネを披露して新聞広告の注文を取るようになり、小遣いを稼ぐようになった。
そのようななか、近くの「橘座」に出演していた大門亭大蝶一座の子役が病気になった。「美人局」という人気の演目でどうしても、子役が必要だった。
そこで、「橘座」が主人が、近所に新聞配達の面白い子がいる事を思い出し、曾我廼家十吾に代役を依頼した。
こうして、曾我廼家十吾は明治32年に「橘座」でデビューして舞台を成功させ、大門亭大蝶の一座の重要な子役となり、「大門亭文蝶」を名乗った。8歳の事である。
大門亭大蝶の一座は「俄(にわか=即興劇)」を公演しており、こうして曾我廼家十吾は俄の世界に足を踏み入れた。
明治35年、兄弟子・大門亭六輔の勧めで大阪でフリーの脚本家・演出家として活躍していた尾上和田蔵の弟子になり、大阪で流行していた「俄」を吸収していった。
こうして「俄」で培った経験により、後に曾我廼家十吾は「アドリブ王」と呼ばれることになる。
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明治39年、曾我廼家十吾は尾上和田蔵の紹介で、喜劇団「曾我廼家兄弟劇」で人気を博していた曾我廼家十郎に弟子入りし、「曽我廼家文福」を名乗るようになる。
そのようななか、曽我廼家五郎のもとにいた曽我廼家箱王(中島楽翁)と、鶴家団十郎のもとにいた鶴家団治(初代・渋谷天外)が、明治39年5月に独立して一座(後に「楽天会」と改称)を旗揚げして成功した。
すると、金銭的な不満を持っていた曽我廼家一座の曾我廼家一満らが、中島楽翁と初代・渋谷天外の成功に触発されて独立し、「曽我廼家青年一派」を旗揚げした。曾我廼家十吾も旗揚げに参加した。
その後、曾我廼家十吾は紆余曲折を経て、明治45年3月に福岡県の博多で、曾我廼家一満らとともに「曽我廼家娯楽会」を旗揚げした。
「曽我廼家娯楽会」は北九州で成功し、東京や台湾にも進出したが、曾我廼家十吾は台湾巡業の時に興行師に懇願されて台湾に残り、「曽我廼家娯楽会」を脱退して、「台湾コメディー」を旗揚げした。
一方、日本国内では曾我廼家五郎と曾我廼家十郎が、喜劇の方向性の違いから、喧嘩別れして、「曾我廼家兄弟劇」が分裂していた。
そして、曾我廼家五郎が「平民劇団」を結成したので、曾我廼家十郎も「曾我廼家十郎劇」を立ち上げて対抗した。
台湾で活動していた曾我廼家十吾は、師匠の曾我廼家十郎に招かれたので、仲間を捨てて帰国し、大正4年9月に「曾我廼家十郎劇」に入った。
しかし、曾我廼家十吾は、「蝶々会」に居る兄弟子・大門亭東蝶から救援を求められたので、大正5年(1916年)5月に「曾我廼家十郎劇」を出奔し、「蝶々会」に駆けつけた。
ところが、曾我廼家十吾は「蝶々会」には留まらず、「蝶々会」から信濃家尾十を引き抜いて「永井茶釜」を名乗らせると、自身も「茂林寺文福」を名乗り、古巣の博多で「文福茶釜一座」を旗揚げして、初めて座長となった。25歳の事である。
「文福茶釜一座」は九州では相当な人気となった。曾我廼家十吾は曾我廼家十郎の芸風を受け継いでおり、「九州の十郎」とまで呼ばれるようになった。
初代・渋谷天外と中島楽翁が旗揚げした「楽天会」は、「曾我廼家兄弟劇」の対抗勢力として活躍していたが、大正5年12月に初代・渋谷天外が死ぬと、人気が衰えていった。
そして、大正9年に中島楽翁が死去すると、「楽天会」は息絶え絶えとなり、大正11年9月に解散した。
2代目・渋谷天外は、「楽天会」の解散を機に、役者を辞めて就職しようとしたが、就職に失敗し、曾我廼家十郎の勧めで、「志賀廼家淡海一座」へ入り、脚本も手がけるようになった。
大正11年(1922年)、2代目・渋谷天外は、九州巡業に出るので、曾我廼家十郎に挨拶に行くと、曾我廼家十郎から曾我廼家十吾に会ってくるように勧められた。
こうして、2代目・渋谷天外(16歳)は九州巡業のときに曾我廼家十吾(31歳)と出会った。
しかし、曾我廼家十吾は初代・渋谷天外の知り合いで、子供の頃の2代目を抱いており、2代目のことを知っていたので、「出会い」ではなく、「再会」だった。
大正14年12月に曾我廼家十郎が死去すると、曾我廼家五郎が喜劇界の頂点に君臨した。
そこで、昭和2年4月、曾我廼家五郎が、曾我廼家十郎の3回忌追善興行を主催した。
曾我廼家十吾は、3回忌追善興行に参加するため、1年契約で「曾我廼家五郎劇」に入ると、松竹から「十郎」を襲名するように勧められた。
しかし、「私は継ぐの、嫌いでした。私はシロウトから十郎先生の弟子になったんやないです」という理由で、「十郎」の襲名を断った。
ただし、一説によると、曾我廼家五郎が曾我廼家十吾の台頭を恐れて「十郎」の襲名に反対したので、「十郎」を襲名できなかったという。
曾我廼家五郎は「一堺漁人」の名義で脚本を書いていたのだが、その中には曾我廼家十吾から買い取った脚本も多く、曾我廼家十吾の才能を恐れていたというのだ。
さて、曾我廼家十吾は「十郎」の襲名を断ったが、松竹の白井松次郎の勧めもあり、「曾我廼家十五(じゅうご)」と改名した。
師匠の「十郎」と座長の「五郎」から1字ずつ取り、「十五」という芸名になったのだが、この「十五」という名前が曾我廼家五郎の逆鱗に触れた。
「十五」は「十郎」の下に「五郎」が来るので、曾我廼家五郎は「十五(じゅうご)」という芸名を嫌い、「とうご」と呼んだ。
このため、曾我廼家十吾は読み方を「じゅうご」から「とうご」へと変えたのだが、契約満了により、「曾我廼家五郎劇」を退団し、「松竹家庭劇」を旗揚げすると、曾我廼家五郎から「十五」の返上を迫られた。
そこで、曾我廼家十吾は本名の「西海文吾」から1文字とって「十吾」に改名し、「十五」を返上した。
既に印刷物には「十五」で印刷していたので、「五」の下に「口」の判子を押して対応した。
ただし、「十吾」の読み方は「とうご」を引き継いだようだ。
読み方を「とうご」から「じゅうご」へ戻したのは、戦時中に頭山満が「銃後の護り(守り)」と意見したからだという。
なお、名前の読み方の問題については、本人は「じゅうご」でも、「とうご」でもどっちでもいいと話している。
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曾我廼家十郎の死後は、曾我廼家五郎が喜劇界の頂点に君臨し、他の追随を許さなかった。
曾我廼家五郎は松竹に所属していたが、松竹は曾我廼家五郎の独走状態を良しとせず、曾我廼家五郎に対抗させるため、「曾我廼家五郎劇」を退団した曾我廼家十吾を支援して旗揚げさせた。
そこで、曾我廼家十吾(38歳)は、2代目・渋谷天外を誘い、昭和3年(1928年)に「松竹家庭劇」を旗揚げして座長に就任し、役者兼脚本家として才能を発揮した。
松竹に居た浪花千栄子も昭和3年から助っ人として「松竹家庭劇」に出演しており、松竹の命令で昭和5年に正式加入してる。
ところが、「松竹家庭劇」は昭和6年9月に突如として解散した。
解散の理由は、昭和恐慌による不況説、2代目・渋谷天外との不仲説、曾我廼家十吾のクーデター説などがある。
しかし、色々な人が間に入り、松竹の主導で、昭和7年5月に第2次「松竹家庭劇」が再結成された。
その後、第2次「松竹家庭劇」は昭和11年に東京へも進出して成功し、東京でも公演をするようになる。真珠湾攻撃のニュースを聞いたのも東京劇場だった。
その後、敗戦色が濃くなるにつれ、地方巡業が増えていき、昭和23年2月の大阪大空襲で拠点の中座が焼けると、慰問興行に活動の場を求めた。
戦後、第2次「松竹家庭劇」は活動を再開するが、曾我廼家十吾と喧嘩した2代目・渋谷天外が妻の浪花千栄子を連れて昭和21年5月に「松竹家庭劇」を退団し、劇団「すいーとほーむ」を旗揚げして巡業に出た。
まもなく、曾我廼家十吾は病気になったため、昭和22年に第2次「松竹家庭劇」は自然消滅した。
曾我廼家十吾は病気から復帰すると、病気の曾我廼家五郎を助けるため、「曾我廼家五郎劇」に入ったが、昭和23年11月に座長の曾我廼家五郎が死去してしまう。
そこで、松竹は、「曾我廼家五郎劇」の主要メンバーに「松竹家庭劇」を加えて、昭和23年12月に「松竹新喜劇」を旗揚げした。
このとき、松竹は、地方巡業をしていた2代目・渋谷天外や浪花千栄子や藤山甘美らを呼び戻し、「松竹新喜劇」の旗揚げに加えた。
しかし、曾我廼家五郎は既に57歳だったので、「松竹新喜劇」の座長として絶大なる権力を有したものの、実権は42歳の2代目・渋谷天外に渡った。
さて、「松竹新喜劇」は、旗揚げ当初は客もそれなりに入っていたが、芝居が古くさいこともあり、直ぐに客足は遠のき、低迷を続けた。
松竹の重役・藤井清治は責任を感じて解散を進言したが、松竹の会長・白井松次郎が自分が責任を取ると言い、「松竹新喜劇」を存続させた。
しかし、曾我廼家十吾が不満を持っていた「五郎劇」の女形連中が辞めていくと、芝居が良くなっていき、客が入り始め、ようやく、赤字を脱却した。
さらに、昭和25年に入場税が引き下げられた事もあり、ようやく「松竹新喜劇」も軌道に乗り始めた。
ところが、そのようななか、2代目・渋谷天外が「松竹新喜劇」の女優・九重京子(渋谷喜久栄)を愛人にして、子供を妊娠させたのである。
44歳にして初めて我が子を抱いた2代目・渋谷天外は、妻・浪花千栄子を捨てて、九重京子(渋谷喜久栄)と暮らし始めた。
このため、妻・浪花千栄子は2代目・渋谷天外と離婚し、昭和26年4月に「松竹新喜劇」を辞めてしまったので、「松竹新喜劇」は大きなダメージを受けた。
しかし、その直後の昭和26年11月に、2代目・渋谷天外の書いた「春団治」が大ヒットし、「松竹新喜劇」は昭和27年に東京進出を果たした。
そして、昭和28年ごろから、「松竹新喜劇」の劇団員も、ようやく人並みの生活ができるようになった。
曾我廼家十吾は、喜劇に対する方向性の違いから、2代目・渋谷天外と度々対立してきたが、映画撮影を切っ掛けに不満が爆発する。
「松竹新喜劇」は昭和31年2月に映画「たぬき」の撮影に入るのだが、曾我廼家十吾は映画撮影に対する不満を2代目・渋谷天外にぶつけた。
芝居の流れを重視し、アドリブを多用する曾我廼家十吾には、全ての台詞や動きが決められたうえ、監督の指示でシーンごとに撮影する映画は合わなかったのである。
これがきっかけで、曾我廼家十吾は昭和31年4月に「松竹新喜劇」を退団した。
その後、曾我廼家十吾は映画界に入ると言い、映画監督の松田定次に弟子入りして映画の勉強を始めるが、1本の映画も撮ることは無かった。
その一方で、曾我廼家十吾は昭和32年8月に第3次「松竹家庭劇」を旗揚げしたが、俄ベースの芝居は時代遅れで、人気は出なかった。
そこで、松竹の会長・白井松次郎は「松竹家庭劇」を支援したが、低迷は続き、最後は曾我廼家十吾が座長の座を追われ、「松竹家庭劇」は昭和40年(1965年)7月に解散した。
その後、曾我廼家十吾は、79歳の老体に鞭を打って、昭和45年(1970年)5月に「松竹新喜劇」の舞台「アットン婆さん」に特別出演し、14年ぶりに2代目・渋谷天外とのコンビが復活した。
その後、曾我廼家十吾は、藤山甘美の要請で何度か「松竹新喜劇」の舞台に立つが、もはや老体に鞭を打つのも不可能として、ガリガリに痩せ細った上半身の写真を藤山甘美に送り、喜劇俳優から引退した。
そして、曾我廼家十吾は昭和49年(1974年)4月7日に京都府京都市の病院で死去した。死因は急性肺炎だった。83歳だった、。
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