朝ドラ「べっぴんさん」に登場する板東すみれ(芳根京子)が夫・田中紀夫(永山絢斗)と結婚する実話です。
昭和17年(1942年)、野上潔(高良健吾)は坂東営業部に就職し、父・野上正蔵(名倉潤)の右腕として活躍していた。
そのようななか、野上潔(高良健吾)に2度目の召集令状が届く。
17歳になった坂東すみれ(芳根京子)は、野上潔(高良健吾)に恋心を抱いていたので、野上潔(高良健吾)が戦地に赴くことにショックを受けた。
しかし、ショックを受けたのは板東すみれ(芳根京子)だけではなかった。姉の坂東ゆり(蓮佛美沙子)も密かに野上潔(高良健吾)に恋心を抱いていたのある。
その直後、坂東ゆり(蓮佛美沙子)に別の男性と縁談が持ち上がったが、坂東ゆり(蓮佛美沙子)は「自分の結婚は自分で決める」と言い、野上正蔵(名倉潤)に英語の論文を突きつけ、自分の才能を採点して欲しいと求めた。
父・坂東五十八(生瀬勝久)は坂東ゆり(蓮佛美沙子)の行動に激怒するが、野上潔(高良健吾)は坂東ゆり(蓮佛美沙子)を気に入った。
そこで、野上正蔵(名倉潤)が正式に坂東五十八(生瀬勝久)に結婚を申し込み、坂東ゆり(蓮佛美沙子)と野上潔(高良健吾)は結婚することになった。
こうして、板東すみれ(芳根京子)の初恋は終わった。
翌年、親友の多田良子(百田夏菜子)が15歳上の小澤勝二(田中要次)と見合い結婚することになった。
そのようななか、板東すみれ(芳根京子)にも縁談が持ち上がる。
姉の坂東ゆり(蓮佛美沙子)が野上潔(高良健吾)に嫁いだので、板東すみれ(芳根京子)が坂東家の跡取りを婿養子にもらわなければならなかった。
板東すみれ(芳根京子)は、父・坂東五十八(生瀬勝久)が苦労して築いた坂東家を絶やしたくないという思いから、結婚相手の写真も見ずにその縁談を受け入れた。
それが坂東家と付き合いのある衆議院議員・田中五郎(堀内正美)の三男・田中紀夫(永山絢斗)だった。
田中紀夫(永山絢斗)は板東すみれ(芳根京子)と結婚して婿養子に入り、坂東営業部へ入社する。
田中紀夫(永山絢斗)は無口で何を考えているのか分からないところがあるが、ひとまず幸せな新婚生活を送り、板東すみれ(芳根京子)は妊娠した。
しかし、幸せな生活はながくは続かなかった。戦況の悪化から、田中紀夫(永山絢斗)の元にも召集令状が届き、田中紀夫(永山絢斗)は我が子を見ることなく、戦地へ赴いたのであった。
スポンサードリンク
モデルとなった坂野惇子(佐々木惇子)と坂野兼通が出会ったのは、昭和10年(1935年)2月、兵庫県の神鍋スキー場でした。
昭和10年(1935年)2月、甲南女学校4年生の坂野惇子(佐々木惇子/数えで18歳)ら友達数人のグループと、甲南高校1年生の坂野通夫(数えで20歳)ら友達数人のグループとで、兵庫県の神鍋スキー場に行きました。いわゆるグループデートです。
その帰り、バス代わりのトラックの中で、坂野通夫は坂野惇子(佐々木惇子)のリュックの紐が解けているのに気付き、リュックの紐を結んであげました。これが2人が初めて言葉を交わした瞬間です。
このリュックの紐が運命の赤い糸となり、坂野通夫と坂野惇子(佐々木惇子)は交際を開始しました。こ時のグループから、坂野通夫を含めて合計3組みのカップルが誕生したそうです。
その後、坂野通夫は京都帝国大学へと進学し、坂野惇子(佐々木惇子)も東京女学館高等科の聴講生となり、遠距離恋愛となりました。
そして、戦時下は卒業・就職・結婚・召集がワンセットになっていたので、坂野通夫が京都帝国大学の卒業を控えた昭和14年(1939年)に、正式に婚約を申し込み、昭和14年(1939年)5月に坂野惇子(佐々木惇子)と婚約しました。
坂野通夫と坂野惇子(佐々木惇子)は、お見合い結婚ではなく、当時では珍しい恋愛結婚だったのです。
さらに、父・佐々木八十八は召集までのわずかな期間ぐらいは青春を過ごせるようにと、外泊などを許してくれたので、坂野惇子(佐々木惇子)と坂野通夫は、夏は軽井沢の別荘へ行ったり、冬はスキーへ行ったり楽しい時間を過ごすことが出来ました。
しかし、父・佐々木八十八は、健康や病気に異常なまでに神経質な性格だったので、坂野惇子(佐々木惇子)に薬や毛布を持たせ、佐々木家のお手伝いさんが必ず付き添っていました。
さて、坂野通夫は昭和15年(1940年)4月に京都帝国大学を卒業して、大阪商船に入社。翌5月に坂野惇子(佐々木惇子)と結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に居を構えました。
さいわい、坂野通夫は甲南高校中等部時代に肋膜(肺膜炎)を患っており、徴兵検査のレントゲン撮影で影が出たため、乙種となり、ひとまず徴兵を免れました。
このため、坂野通夫は幸せな新婚生活を送り、昭和17年(1942年)10月13日に長女・坂野光子(ばんのてるこ)が生まれました。
しかし、前年の昭和16年12月に日本が真珠湾攻撃を行って第二次世界大戦に参戦しており、戦況の悪化から乙種の坂野通夫も召集されてしまいます。
こうして、坂野通夫は昭和18年(1943年)10月に海軍の嘱託となり、妻・坂野惇子と長女・坂野光子を残して、インドネシアの首都・ジャカルタへと派遣されていきました。
スポンサードリンク
Copyright(C)2010年9月 All Rights Reserved.