NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する竹井千代(たけい・ちよ/杉咲花)のモデル浪花千栄子の生涯を紹介する。
浪花千栄子(本名は南口キクノ)は、明治40年(1907年)11月19日に大阪府南河内郡東板持村(富田林市東板持町25番屋敷)で、養鶏業を営む南口卯太郎の長女として生まれた。
父親は武士の家系で、祖父の代に明治維新を迎えて帰農した。母・南口キクは代々、庄屋を務める家の娘だった。
両親は当時、珍しい恋愛結婚で、身分の違いから、母・南口キクは親戚一同から結婚を反対されたが、反対を押し切って結婚したので、親戚とは疎遠になっていたという。
浪花千栄子には3歳年下の弟が生まれ、4人家族だったが、母・南口キクは弟を産んだ時に病気となり、浪花千栄子が4歳の時に死んでしまった。
父親は養鶏業を営んでおり、ニワトリの行商に出ると家には大人が居ないので、南口家は子供達の遊び場となった。
しかし、浪花千栄子は頭を洗っていなかったので、頭にシラミがわくようになると、大人達はシラミを移されたら困るため、子供達が南口家に遊びに行くと、激怒して連れ戻すようになった。
すると、浪花千栄子は激しい劣等感に襲われ、弟の手を引いて竹藪の中に逃げ込み、大人達の目の届かない竹藪で遊ぶようになった。
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浪花千栄子は小学校へ入る年になっても、弟の面倒を見なければならないので、小学校へ入れてもらえなかった。
しかし、浪花千栄子が8歳のとき、父親が再婚したので、憧れの小学校へ通えることになった。
ところが、父親の再婚相手は、悪妻の見本のような女で、妻としての務めも、母親としての務めも果たさず、朝は起きてこないうえ、昼間から三味線を弾いて歌うような人だった。
それでも、弟の面倒を見てくる人が出来たので、浪花千栄子は小学校へ通い始めるのだが、父親も再婚相手も2銭の月謝を出してくれないので、月謝を催促する先生の怖い顔を思い出して学校へ行くのを止めた。
こうして、浪花千栄子の憧れの学校生活は2ヶ月で終わってしまったのだった。
父親の再婚相手は度々、家出をしており、その度に父親が連れ戻していたのだが、再婚相手は家に戻る条件を出していた。
何度目かの家出をしたとき、再婚相手は連れ子を連れて戻ってきて、「弟はいいけど、あの子は嫌や」というので、浪花千栄子は母方の祖母の家に預けられた。
浪花千栄子は祖母に嫌われないように、頑張って働いていたが、そのうちに弟も祖母の家に預けられた。
祖母の家も、子供を2人も預けられたので困っていまい、浪花千栄子を女中奉公に出す事にした。
浪花千栄子は、8歳の時に大阪・道頓堀の仕出し料理屋「浪花料理」へ奉公に出て、「おちょやん」として働き始めた。
「おちょやん」というのは、「仲居見習い」「女中見習い」のことである。
「浪花料理」の主人は非常に厳しい人で、少しでもミスを犯すと、包丁の背で頭を叩いた。
さらに、お釜を洗うときに米粒を1粒でも流してしまうと、店のドブに仕掛けた金網のゴミの中から米粒を拾わせ、食べさせる。
浪花千栄子は、包み紙の新聞紙で文字を勉強するのだが、勉強しているのが主人に見つかると叱られるので、包み紙をトレイに持ち込んで文字を覚えた。トイレだけが安住の地だった。
主人によるパワハラは数えきれず、浪花千栄子は、子供心に非常に惨めな思いをしたと回想している。
しかし、浪花千栄子は、自殺未遂を起こしながらも、2年と続かないと言われた「浪花料理」で、8年間も「おちょやん」として働くのだった。
ところで、「浪花料理」の向かいに、芝居茶屋「岡嶋(岡島)」があり、若き日の2代目・渋谷天外が「岡嶋」に居候していた。
浪花千栄子と2代目・渋谷天外は、後に結婚する事になるのだが、この頃からの知り合いだったのである。
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浪花千栄子が「浪花料理」で働き始めて8年が過ぎたころ、奉公先を知らないはずの父・南口卯太郎が「浪花料理」に現われ、事業を興すのでお金を貸して欲しいと頼んだ。
しかし、浪花千栄子は「給料は要りません。食べる物と着る物だけ面倒をみてください」という条件で「おちょやん」をしていたので、お金など持っていなかった。
怒った父・南口卯太郎は「警察に訴える」と言って「浪花料理」の主人に強談判に及ぶと、間に入る人が居て、「浪花料理」が退職金代わりに15円を出した。
父・南口卯太郎は、15円を受け取ると、喜んで浪花千栄子を連れて帰り、富田林の造り酒屋へ奉公に出した。
しかし、給料の前借りを頼んだのが悪かったのか、浪花千栄子は造り酒屋をクビになってしまった。
これで、学習した父・南口卯太郎は、今度は2年間の給料前払いという契約で、浪花千栄子を木材屋へ奉公に出した。
浪花千栄子は木材屋で親切にされたが、いつまでたっても給料を貰えないので、女将さんの方で貯金をしてくれており、結婚する時に花嫁道具を持たせてくれるのだと思っていた。
しかし、奉公を初めて2年1ヶ月が過ぎたとき、女将さんが「お父さんが給料を取りに来ない。今後、年払いにするのか、月払いにするのかわからないけど、1ヶ月、働いてくれたので、1ヶ月分の給料を渡しておきます」と言い、1ヶ月分の給料12円をくれた。
これにより、浪花千栄子は父親に給料を搾取されていた事を知り、このままでは父親の食い物にされると思い、初めて手にした給料を持って、木材屋を逃げ出し、憧れていた京都へと向かったのだった。
浪花千栄子は、京都の口入れ屋(私設の職業紹介所)で、屋敷奉公の仕事を探すが、直ぐには見つからないと言われ、京都府伏見区深草(師団前)のカフェー「オリエンタル」を紹介された。
当時のカフェーは現在のキャバクラに相当し、「オリエンタル」では売春も行われていた。
寝るところも無く、頼る人も居なかった浪花千栄子は、カフェー「オリエンタル」で働くことにしたが、もう女中は足りているので、女給(ホステス)として働くように言われた。
白粉を塗って人前に出るなど、とんでもないことなので、浪花千栄子は強引に洗い場で働いていたが、女給のユリちゃんが「ホールへ出て、稼いだお金で生活をするのよ」と教えてくれ、色々と面倒を見てくれた。
こうして、浪花千栄子はユリちゃんに世話されて女給としてホールに出るようになり、やがて客が付いて、いよいよ売春をすることいなった。
そのようななか、女優志望の女給ユリちゃんが、女優になると言って「オリエンタル」を辞めた。
浪花千栄子はユリちゃん以外に頼れる人が居ないので、浪花千栄子も「オリエンタル」を辞めて、ユリちゃんと一緒に無名のプロダクションに入ったのだった。
浪花千栄子はユリちゃんと一緒に無名のプロダクションに入ったが、このプロダクションは映画を1本も撮ることなく、倒産してしまった。
しかし、監督が良い人で、みんなの就職先を世話してくれたので、浪花千栄子は屋敷奉公を希望したが、監督は「アンタには立派な女優さんになってもらいたい」と言い、第二京極の三友劇場を根城にしていた村田栄子一座を紹介した。
浪花千栄子は、女中のつもりで村田栄子一座に入ったので、女中の仕事をしていたのだが、要領よく仕事を覚えてるので、村田栄子に気に入られ、弟子にされてしまった。
さて、村田栄子は、よく台詞を忘れるので、舞台を観て全ての台詞を覚えていた浪花千栄子が、舞台裏から村田栄子に台詞を教えていた。
そのようななか、「正ちゃんの冒険」で主演していた村田栄子が急病で舞台に上がれなくなってしまった。
困った役者達は、台詞を覚えていた浪花千栄子に代役にする事を思いつき、白粉を塗って衣装を着せ、「正ちゃんの冒険」の舞台に上げてしまったのである。
ところが、浪花千栄子は緊張のあまり、覚えて居るはずの台詞が出てこない。
そこで、浪花千栄子は、台詞が出てこないことを誤魔化すために、舞台の木によじ登ったり、垂れ下がっているロープにしがみついたり、跳んだり跳ねたりして、舞台を狭しと動き回った。
すると、これが客に受けて舞台は大当りし、浪花千栄子は一気に看板女優へと駆け上ったのである。
しかし、師匠の村田栄子は癇癪持ちだったので、浪花千栄子はいつも生傷が絶えず、終いに階段から突き落とされてしまった。
すると、三友劇場の主人が、これでは可愛そうだと思い、浪花千栄子に映画の「東亜キネマ」を紹介したのだった。
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浪花千栄子は東亜キネマへと移って映画女優となるが、紆余曲折を経て映画界を辞めて舞台女優となり、芝居茶屋「岡嶋」で女中として働きながら、松竹の舞台に立つようになるのだった。
一方、「岡嶋」に居候している2代目・渋谷天外は、曾我廼家十吾に誘われて、昭和3年9月に喜劇団「松竹家庭劇」を旗揚げした。
浪花千栄子は喜劇など大嫌いだったのだが、「松竹家庭劇」は女優が少なかったので、助っ人として出演するようになり、昭和5年に松竹の命令で正式に「松竹家庭劇」に配属された。
そして、朝鮮巡業が交際の切っ掛けになったらしく、浪花千栄子は昭和5年12月22日に2代目・渋谷天外と結婚した。
2代目・渋谷天外は「松竹家庭劇」で脚本家兼俳優として活躍していたが、キャスティングを決める程の権力は無いため、浪花千栄子は「脚本家の妻が良い役を取っては示しがつかない」ということで、良い役は回ってこず、誰もが嫌がるような役ばかり押しつけられており、女優としては全く芽が出なかった。
戦後、2代目・渋谷天外は、座長の曾我廼家十吾と喧嘩別れして、浪花千栄子を連れて「松竹家庭劇」を辞め、劇団「すいーと・ほーむ」を立ち上げて旅巡業に出た。
しかし、曾我廼家五郎が死去したので、「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭演劇」を合併して、「松竹新喜劇」が誕生することになったので、地方を巡業していた2代目・渋谷天外や浪花千栄子は松竹に呼び戻され、「松竹新喜劇」の旗揚げに参加した。
「松竹新喜劇」の座長は曾我廼家五郎だったが、やがて、実権は2代目・渋谷天外に移っていった。
こうして、浪花千栄子は、良い役が回ってくるようになり、「松竹新喜劇」の看板女優として人気が出始めた。
その矢先、2代目・渋谷天外が、浪花千栄子の弟子・九重京子(渋谷喜久栄)を愛人にして不倫を始め、家を出て行ったのである。
浪花千栄子は激怒したが、子供の居ない負い目なのか、九重京子(渋谷喜久栄)が子供を産むと、2代目・渋谷天外と離婚して、昭和26年(1951年)4月に「松竹新喜劇」を退団して芸能界から引退した。
その後、2代目・渋谷天外は九重京子(渋谷喜久栄)と再婚して4ヶ月で、無理算段をして家を買った。
それを知った浪花千栄子は、自分は尽くしても尽くしても家を買って貰えなかったのに、九重京子(渋谷喜久栄)には4ヶ月で家を買ったことに激怒し、2代目・渋谷天外を恨み、呪い続けたのだった。
昭和27年1月に吉本興業の芸人・花菱アチャコがNHKラジオドラマ「アチャコ青春手帳」を始めたが、相方となる母親役の月宮乙女が2回で降板してしまう。
そこで、花菱アチャコは、大阪弁が話せて、自分のアドリブに対応できる女優として、浪花千栄子を相方に指名した。
しかし、浪花千栄子は「松竹新喜劇」を退団して以降、消息が不明になっていた。
NHK大阪のディレクター富久進次郎は、浪花千栄子が京都の撮影所の近くで働いているという噂を耳にして、京都中を探し回ったが、見つからず、タイムリミットを迎えた。
しかし、NHK大阪の佐々木英之助が「もう1日だけ待ってみよう」と言うので、富久進次郎は再び京都へと飛んだ。
それでも見つからず、富久進次郎は飲み屋に入って「この辺に居るはずなんだか」と漏らすと、飲み屋の主人が浪花千栄子が銭湯に入っていくのを見かけたと教えてくれた。
こうして、富久進次郎は浪花千栄子を発見するが、浪花千栄子は薄汚い長屋の2階で落ちぶれており、着物も質に入れ、大阪へ行く電車賃も無いという有様だった。
そこで、富久進次郎は、浪花千栄子に、いくらかの金を渡し、大阪へ出てくるように頼んだ。
これが落ちぶれていた浪花千栄子の運命を変えることになった。
浪花千栄子が「アチャコ青春手帳」に出演すると、柔らかい大阪弁が話題となり、映画への出演依頼も舞い込んだ。
ラジオドラマ「アチャコ青春手帳」も大ヒットし、ラジオドラマ「お父さんはお人好し」は、菊田一夫のラジオドラマ「君の名は」に負けず劣らずの人気番組となり、10年のご長寿番組となった。
こうして、浪花千栄子は映画・ドラマ・舞台に活躍し、大塚製薬の「オロナインH軟膏」の看板にもなり、大阪を代表する女優へと成長するのだった。
しかし、小学校へ2ヶ月しか通えず、難しい文字は読めないので、晩年になっても台本を読むのは苦労したという。
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浪花千栄子は、2代目・渋谷天外が再婚した九重京子(渋谷喜久栄)に家を買ったことを恨み続けており、小さくても良いので、自分の家を買おうと考え、土地を探し始めた。
すると、浪花千栄子は、天竜寺の管長・関牧翁と出会い、関牧翁の勧めにより、土地を購入し、旅館「竹生(ちくぶ)」を建設した。
浪花千栄子は、2代目・渋谷天外への恨みを忘れておらず、旅館「竹生」の石に2代目・渋谷天外の名前を彫り、毎日、毎日、2代目・渋谷天外の名前を踏み続けた。
さらに、浪花千栄子は事業を広げ、レストラン「浪花」、茶屋「局茶屋」、蕎麦屋「切そば」も経営し、女優としてか活躍する一方で、実業家としても活躍した。
さらに、宗教団体「弁天宗(べんてんしゅう)」を熱心に信仰し、婦人部長を務めた。
その一方で、浪花千栄子は養子・南口輝美に「私が死んだら、私の顔を力一杯叩きなさい。そうすれば血色が良くなる。私は役者なので、死んでも汚い顔は見せたくない」と言い、生前から自分の顔を叩かせて練習させた。
そのようななか、浪花千栄子は、昭和48年(1973年)12月22日に自宅で消化管出血のため死去した。66歳だった。死後、勲四等瑞宝章が送られた。
養子・南口輝美は言いつけを守り、泣きながら浪花千栄子の死に顔を叩いたので、通夜に駆けつけた人は、浪花千栄子の死に顔を観て、生きているようだと思った。
その後、養子・南口輝美が旅館「竹生(ちくぶ)」の経営を引き継いだが、既に廃業しており、旅館「竹生」は残っていない。
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